第8話 世界(システム)
乾いた風に野良犬の遠吠えが響き渡る。
青白い月の光に照らされてハザマはひとり九龍城の路地裏を駆けていた。否、正確には駆けているつもりである。気持ちは急いでも身体が付いていかなかった。何故ならすでに半死半生の状態。全身に数発の弾丸を食らっていたからだ。
診療所をあとにしてから数十分。迷宮のような住宅地区をハザマは逃げ回っていた。
だが敵の人数や配置、熟練度すら分からない状況での行動にはかなりのリスクが伴う。こういう場合に一番厄介なのは、出会い頭というヤツなのだが、ハザマもまさしくその最悪な事態に見舞われてしまった。
人目を避ける為にハザマはずっと放棄された建物の中を通ってきた。照明などのメンテナンスは当然のごとくされておらず、彼の診療所よろしくどこも暗闇だった。そんな状況下でたったひとつの頼みの綱であった簡易ランプのエタノールが底をついたのだ。さっきは余程慌てていたのだろう、酒瓶の細い口からは燃料となるエタノールを上手く移し替えることが出来なかったのである。
ただでさえ迷い込んだら出られない魔窟・九龍城。
灯りが無ければただ時間を浪費するだけ。突然の誤算により当初考えていた『夜陰に乗じてオジーに保護を求める作戦』の変更を余儀なくされたハザマは、急遽月明かりを求めて手近に触れるドアらしき物を開けまくっていたところだった。
まさに出会い頭である。
開いたドアの真横に暗視ゴーグルまで付いた全身武装の兵士が立っていたのである。防弾ジャケットのデザインが診療所で倒した男の物と同一だった為に、瞬時で敵と判断できた。咄嗟に持っていた酒瓶を頭部に叩きつけたが、ヘルメット越しでは効果は薄い。だがひるませることは出来たので、その間に月下の路上へと走りだした。
しかし酒瓶の割れた音を聞きつけたであろう仲間の兵士がハザマの行く手を阻んだ。そして迷いなく銃弾を撃ち込んできたのである。そこでまず右足の太腿とふくらはぎに一発ずつ銃弾を食らい、酒瓶の一撃から回復したドア側の兵士からも背後から左脇腹を貫通する渾身の一発をお見舞いされていた。
悲鳴を上げる間も無かった。
ハザマはよろけた拍子に路端にあるゴミ溜めへと頭から突っ込んだ。燃えるような脇腹の痛みに気を失いそうになる。右足の感覚などすでに無かった。
ジリジリと距離を詰めてくる武装兵士たち。手負いにも細心の注意を払っていることからその道のプロと分かる。ハルフォードの私兵か、はたまた金で雇われたPMC(民間軍事会社)か。急速に血液を失っていく危険な状態で、ハザマはそんなことを考えていた。かつて戦場を渡り歩いた記憶がそうさせたのかも知れない。
さすがにダメか――。
まさにそう感じた時であった。
「どこのどいつじゃボケェ!」
「ウチのシマでなにしとんじゃいコラァ!」
どう聞いても頭の悪そうな感じの連中が集まり始めた。銃声を聞きつけた九龍城のチンピラたちである。互いに反目する一方、外部からの圧力に対しては協力体制にある。
多勢に無勢と見るやいなや、ふたりの武装兵士はその場から即撤退を決め込む。それを追ってチンピラたちも方々へ散っていった。
喧騒が遠のいていく。
ハザマはゴミ溜めの中にひとり取り残されるも、命を繋いだことを知る。
朦朧とする意識が途絶えてしまうのを気力だけで持ち堪え、身体を捻って仰向けに。夜の天蓋には青白き月が浮かんでいるが、ハザマには死神に微笑まれているようにしか思えなかった。
ハザマは白衣を脱ぐとナイフで裂き、脇腹を止血するように身体に巻きつけた。
「ど……どうして酒瓶なんかで殴ったかね……」
と、ベルトに差していたナイフを見て自嘲する。
同じく右足の傷にも止血を行うと、白衣のポケットに忍ばせていた物を取り出した。アンプルと注射器である。オジーにセットで用意してもらった残りだ。ハザマは裂いた白衣の余り布を左腕にキツく巻きつけた。静脈が深く浮き上がったことを確認すると、アンプルの頭部を親指でへし折る。注射器のキャップを外し、針の先端をアンプルに刺す。片手で器用に注射器のピストンを動かし、水溶液を吸入させた。中身はヘロインをベースとした数種の幻覚剤の混合液。DDを行う時に使用する『強制レム睡眠維持剤』である。
「い、いたみどめ、くらい、には……なる、だ、ろ……」
目の前に持ち上げた注射器を少し押し、エアを抜く。さらに注射針を指で弾くと、そのまま左腕の血管へと静かに刺した。
ピストンを押し込む指が震えている。呻くような吐息が漏れた。
ハザマは注射器を投げ捨て右手で注射痕を止血すると、ゆっくりと身体を起こした。右足には力が入らず、血液不足で身体中が揺れている。それでも背中をゴミの山に押し付けて這い上がるようにして立ち上がった。
「にげ、ねぇ、とな……」
血が脇腹から滲み出る。ぼたぼたと足元を染めていく。
ハザマは歩みを止めなかった。
もはやどこへ向かっているかも自身では判断がつかない。
しばらくして路上に転がっていたレンガにつまずいて地面に突っ伏した。さすがにもう立ち上がる気力は残っていなかった。
まぶたが重い。全身から力が抜けていく。月下であるにもかかわらず、彼の周りは再び闇に閉ざされた。
「またお越しかえ」
目を開けるとそこは絢爛豪華な座敷だった。真新しいい草の香りと、行灯の火がハザマを迎えた。そして、
「旦那も忙しいおひとでありんすなぁ」
サクラが煙管を片手に笑みをたたえる。以前よりも大きな髷を結い、着物も黒金を基調とした一層華やかなものだった。
ハザマは据え膳の前に座っていた。自ら破いたはずの白衣も元通りになっている。
脇腹と右足の傷も消え、注射痕ひとつ残っていなかった。
「ここはあの世か?」
自嘲気味にサクラへ問う。すると彼女は紫煙を一口くゆらして。
「言ったじゃござんせんか。魂など存在しやせんと。あの世も無ければ、天国もヘチマもありませんよ」
「そうだったな。や、もしかしたら酔さんにまた会えるんじゃねぇかと」
「あの禿げ頭の御仁かえ? だったらホラ……そちらの方に」
つい、とサクラが障子戸の方を煙管で指した。するとそこには照れくさそうに笑う赤ら顔があった。
「酔さん!」
立ち上がったハザマであったが、酔さんはすぐに姿を消した。煙のようにそっと。
もうそこには誰もいない。
「いまのは――」
声を詰まらせるハザマに対してサクラはあっけらかんと告げる。
「旦那の中にある、あのひとの記憶でありんす」
「記憶?」
「旦那がかの御仁を忘れない限り、旦那のなかであのひとは生き続ける。ひとはその存在を忘れられた時、本当の『死』を迎えるなんて言葉はありんすが、これは洒落にならないほど現実的な死生観でありんすよ」
カンっといい音を立てて煙草盆に煙管を当てる。
ハザマは思わず背筋を伸ばした。
「人間の『死』を定義するもの、それは一体なんでござんしょう。神学、医学、哲学、あらゆる思想や観念がその答えを求めやした。いわく魂が肉体から離れること。しかし肝心の魂は最初から存在しない。すると?」
「ひとは……死なないのか……? いや、初めから『生』など無いのか?」
サクラは袂で口を隠していたずらを楽しむ童女のように笑った。
「それは旦那にとっての『現実世界』を、どこに置くかで変わってくるでありんす」
「また難しいことを……」
するとサクラは両手を広げ、座敷の真ん中辺りにピラミッド形のホログラムを出現させた。ピラミッドには無数の横線が引かれており、またピラミッドの頂点から底面に向かって一本の赤い線が走っていた。
「実際はこんなんじゃないんでしょうけど、まあこれを『積層空間』のモデルだと思ってくんなんし」
「『積層空間』? ああ法則性の違う空間が折り重なって出来てるってヤツか。その横線の一本一本に違うルールがあるってのか」
「あい。そして真ん中にまっつぐ走る赤い線。これが三次元空間と呼ばれる知覚範囲でござんす。これをちょっとでも外れると通常人にはもう何も感じることは出来やせん」
「するってぇとこの線以外の空間を知覚する才能が『魔力』で、そこで得た知識と技術を三次元で振るうのが『魔法』ってことか」
サクラは瞳を閉じ、もう一度煙管に火を点けた。火皿にポッと灯った橙色が、彼女の白い肌を明るく染める。
深く、紫煙をくゆらせた。
「このピラミッドの中を満たしているのは情報でありんす。ありとあらゆる情報が、高度に符号化されて記憶されている」
「……まるで『メメント・システム』みたいだな」
その時サクラの唇が、あやしく微笑んだのをハザマは知らない。
「つまりこういうことか。三次元での肉体の消失は、君らにとっちゃ『死』でもなんでもないわけだな。情報にこそ価値があるというか、本質的に『生』の定義が違うんだ」
「そ、『わっちら』にとっちゃね。でも……」
「ん?」
「わっちらに感情がないわけじゃない。悲しけりゃ泣くし、腹立たしいことがあれば怒りますよ。それが人間ってぇもんです。だからあの頃は辛かったですねぇ……」
「魔女狩りのことだな」
「あい。理不尽に殺されてゆく仲間たち。わっちのおっ母さんも、わっちを生んだせいで火にかけられました」
「報復しようとは思わなかったのか」
サクラは悲しげに首を振った。
「そんなことをしても憎しみの連鎖が続いていくばっかりでありんす。そのうち付き合い切れなくなったわっちらは、こぞって大西洋に集まりやんした。みんなで島をこさえて、銘々が好き勝手に街を作るもんだから、ひっくり返したおもちゃ箱みたいでね」
「まるで九龍城みたいだな。しかしよく何百年も見つからなかったもんだな。アトランティスはちょっとした大陸くらいあったと聞いているが」
「デマでありんすよ。せいぜいおっきな島程度でありんす。しまいにゃでっかい塔を立てて、そこん中でみんな住もうって話になったんですがね」
「ああ。あれか」
ハザマは最初に見た夢のことを思い出した。
「島の周囲には、外部から探索できない防御障壁を張り巡らせていたんでやんすが、どうやら長年かけて海流やら魚の動きなんかを観察して、島の位置を特定されてたようで」
「それで原爆投下か」
「しかも頼みの障壁が完璧に仇になっちまいました」
「でも君は俺たちにとっちゃ恩人じゃないか」
「え?」
「『メメント・システム』が無かったら俺たちは、人類はとっくに滅びの道を辿っていただろうよ。それにこんな事でもなきゃ、ひとは人種や思想を越えて本気で助け合おうとはしなかったかもしれない」
「旦那……」
「今度は俺たちの番だな。もし君の本体が……って言い方も変だが、君がどこかで困っているようなら全力で助けてやるよ」
ハザマは屈託のない笑顔でそう言った。
サクラはただでさえ大きな目をまん丸にして驚いていた。持っていた煙管をポロリと落とし、火種が着物に飛び跳ねた。
「おおい! バカ!」
ハザマは慌ててサクラの元へ。
火種を手で払い、着物が焦げてないかを心配している。するとサクラは彼の手を取り、涙ながらにこう呟いた。
「旦那。安請け合いはいけませんよ。いまだって死にかけてるじゃござんせんか」
「……それもそうか」
「ぷっ」
「くっ……ははははっ」
ふたりは思わず笑ってしまった。
ハザマはあまりにも自分が滑稽で仕方がなかった。たとえ目を覚ましたとしても、すでに死に体である。これ以上、自分に何が出来るのかと。
泣いて、笑って、また笑う。
静かな時が流れた。まるで永遠に続くような平和なひととき。
だが――。
座敷の四方が突然割れた。まるでガラスのように。割れた隙間に闇が生まれる。漆黒よりもなお暗い。
「なんだ!」
立ち上がったハザマの白衣をサクラが掴むと、真剣な眼差しで彼を見上げた。
「外部から旦那を強制的に覚醒しようとしているでありんす」
「けっ。どうやら死に損なったらしいな」
「旦那。ひとまずのお別れでありんす」
「ああ。運が良けりゃまた会えるな。それが『赤い線』の内側になるか、それとも外側になるかは分かんねぇけど」
世界の破壊は止まらない。次々と空間が割れていく。ふたりの周りはもうすっかり闇に飲まれていた。いまはただふたりの姿だけが、この世のすべて。
「旦那。『知覚』をお広げくださいな。旦那ならきっと――」
「サクラ? サクラぁ!」
すべてが闇へと帰った。
ハザマが最後に見たサクラの顔は、なんとも言えない表情で。
次第に覚醒してゆく中、耳に残った彼女の言葉は、聞き覚えのある不快な電子音によって掻き消されてしまった。
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