第7話 最悪の目覚め
[ 3 ]
ひとによって最悪の目覚めというのはあるだろう。たとえば大金を失った日、たとえば恋人と別れてしまった日、たとえば大切なひとを亡くしてしまった日。
どれだけ深く心を痛めても必ず明日はやってくる。
それが生あるものの特権であり、この世の理でもある。
だがこの時のハザマに比べれば、どんな状況もまだマシというレベルかも知れない。
まさしく最悪の目覚めだった。
まだ夢うつつなハザマの脳裏に飛び込んできた物、それは一本の凶刃だった。机上に置かれた作業モニターのディスプレイ光を反射して、暗闇の中で不気味に輝くアーミーナイフ。ハザマが唯一幸運だったのは、ナイフの表面がマット仕上げでなかったことだ。ギラギラと殺気を放つ凶刃に、寝ぼけ眼も吹き飛んだ。
夢の中でサクラが「気をつけろ」と言っていたのはどうやらこのことらしい。彼女はハザマの脳機能を拝借しているとうそぶいていた。とするならば、ハザマの感覚器官を通して周囲の異変に気づいたということになる。腑に落ちないがいまの彼にはそう考えるしかなかった。
ハザマは診察台に横たわっていた。
その傍らに立つ『誰か』がハザマの喉元にナイフを当てて、もう片方の手で机の上を物色している。九龍城並に雑然としているハザマの作業机である。なにを探すにも手間はかかるが、暗がりの中、かの闖入者も悪戦苦闘しているようだった。
ハザマは息を潜めて『誰か』を見た。
意識は机上に向いている。そう思った瞬間、咄嗟に腕が動いていた。
ナイフを持つ手を捻り上げると同時に、ハザマは診察台から飛び起きた。組み伏せ、身体の自由を奪うと、ナイフを取り上げそのまま相手の喉元へ。
「何者だ?」
ハザマの問いに相手は答える素振りがない。二秒待つ。ハザマはナイフを振り抜いた。鮮血が勢い良く吹き出し床を赤く染める。ハザマは組み伏せている相手の身体から次第に力が抜けていくのを感じた。
ハザマは丸椅子に腰を下ろすと、手にしたナイフを机の上に突き立てた。
足元には出来たての死体。起きたばかりだというのに、まだ悪い夢でも見ているかのようだった。軍を除隊してから実に三年ぶりにひとを殺めたことになる。正当防衛だと自分に言い聞かせるが心がそれに追いつかない。タバコを一本くわえ、震える指先でライターを持つ。だがなかなか火をつけることが出来ない。苛立ちがつのる。とうとうくわえたタバコを投げ捨てた。
肩を落としながらハザマは机上のナイフを見る。ふとオジーの言葉を思い出した。
「――酔さんの死因もたしかナイフだったか」
ハザマは『コード・スキャナー』を手にして床に転がる死体の首筋へとあてがった。
モニターが猛烈な勢いでコードを表示していく。常人では認識することすら不可能な速度で文字列はスクロールする。ハザマはそれを特に感慨もなく凝視している。身体の震えもようやく収まり、情報だけに神経を集中していく。そこでようやく自分を襲ったのが、男性であることにも気付いた。そしてその男の半生を一気に読み干すと、その黒幕にいる人物の名を発見した。
「この男、ロバート・ハルフォードの部下か」
ハザマの脳裏にあの軽薄な笑顔が思い出される。耳奥にへばりつく嫌な笑い声。思わず顔をしかめた。
「狙いはサクラの記憶か。だが本当に捜査だけが目的か?」
舌打ちをひとつ。
「口封じに殺人すら厭わんとなると……」
ハザマは頭を激しく掻きむしった。
「分からん。分からんが大人しく殺されてやる義理はない」
そう独白すると、死体をまたいでドアノブを掴んだ。しかしそこで動きが止まる。半開きのドアの向こう。すこし開いた扉の隙間から、野良猫の姿が見えた。明滅を繰り返す通路の灯りに照らされて、全身の毛を逆立てていた。なにかに警戒している――そう直感したハザマは壁にかかった鏡を外し、ドアの隙間にそっと差し入れた。
暗闇に続く長い通路。照明はわずかに壊れた蛍光灯のみ。だがそこに潜む幾つかの人影を確認するには十分だった。
ハザマは即座に鏡を引っ込めて、しばし天井を仰いだ。
瞳を閉じ、鼻から深く息を吸い込む。目を見開き、意を決したようにヒビだらけの部屋の壁を見た。
そして床に転がる死体を蹴飛ばし、診察台を動かすスペースを作った。さらにいつも腰掛けている愛用の丸椅子を手に、ヒビ割れた壁を壊す。壊す。壊す――。
安普請の薄い壁は、音もなく崩れ去った。
診療室にポッカリと穴が開いた。穴の向こうにはドア側の通路とは別のルートが続いている。九龍城が誇る迷宮の入り口だ。冥界にでもつながっているかのようだった。そこには灯りが存在しない。
ハザマは部屋に転がっていた酒瓶をひとつ手に取り、スチール棚から取り出した消毒用エタノールをなみなみと流し込んだ。さらに白衣の裾をナイフで裂くと、よじって布ロープを作った。それをエタノール入りの瓶に突っ込み、よく染みたところで火をつけた。
簡易的なランプである。
ほのかに灯った炎の色が、闇に染まった穴の向こうを照らしていった。
ハザマは手にしたナイフを複雑な思いで見つめていた。床に転がる死体の記憶。そこに刻まれていた友人の最後を思い出す。
「酔さん。アンタを殺したナイフに俺は命を救われた。まったく因果な話だな」
ハザマはナイフと簡易ランプを手に診療室をあとにした。
まだ彼の長い夜は始まったばかりだった。
* * * * * *
「逃げられた?」
その報告を受けてロブは――ロバート・ハルフォードは声を荒げた。
ヴィクトリア・ピークの稜線を望む、香港島でも屈指の高級ホテルがある。港湾部に面し、自らも光り輝く財の象徴。九龍半島から眺める夜景などは、まるで幾千万もの宝石を散りばめたかのようだった。
そんな庶民には手の届かない現代の楼閣。その最上階に彼は居た。
壁一面の窓ガラスから、文字通りの摩天楼を見下ろしている。グレーのバスローブを身にまとい、青白い月の光を浴びながら。
「わたくしはそんな報告を聞くために君らを雇っている訳では無いのですよ軍曹。元軍人とはいえ素人相手になにを手間取っているのです。発砲を許可します。手足は撃ち抜いても構いませんが、頭部は生かして捕らえなさい。すこし尋問したいことがあります」
一方的に通話を切ると、ロブは続け様にどこかへと電話をかける。
数回のコールを経て着信が確認されると、
「わたくしです。多少のトラブルはありましたが、計画に変更はありません。はい……必ずやアトランティスの力をあなたに。……ええ。お任せください閣下。次期大統領の座はあなたのも――」
今度は一方的に切られる側だった。通話も終わり一息。愛用の古めかしいケータイをソファーに投げ捨て、テーブル上のグラスを手に取りブランデーを一舐めした。
月明かりのみに照らされる広いロイヤルスイート。ベッドルームへと続く暗闇にロブは一歩、また一歩と身を投じていく。その間バスローブを脱ぎ捨てて、一糸まとわぬ姿となった。そしてベッドルームのカウチには少女がひとり佇んでいた。
ロブは彼女の前に座り込むなり、その小さな膝に顔を埋めた。
少女は一切の反応を示さず半眼の相を崩さない。
呼吸さえしてるのか分からないほど、ただそこに存在した。
長く緩やかにしなるピンクブロンドは腰まで伸び、肌は血管が透けるほどに白い。ゆったりとしたローブを羽織った姿は人形と見紛うばかりだ。
ロブは彼女の手をとって、右目にある涙ボクロをもう片方の手で撫でた。
「サクラ……あともうちょっとだよ……。もうちょっとで君の記憶が取り戻せるんだ。そうしたらまたボクの名前を呼んでくれるよね……」
恍惚とした瞳で少女に語りかけるロブ。
口調も仕草も幼くなって、まるで別人のようだった。
* * * * * *
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