第23話 クロウ・ハザマという男

 フリッカは大きな瞳をさらに見開いて、ピートを見つめる。頬にはチャーハンのごはん粒が付いていた。いつの間にか彼女の膝の上にいた黒猫が、それを取ろうと猫パンチを繰り出している。

「クロウ・ハザマだ。奴を捕まえりゃ、何かが分かる」

「くろうはざま、クロウ・ハザマ……と」

 フリッカはトランクを引っ掻き回して捜査資料を取り出すと、一冊のファイルを開いた。もの凄いスピードでページをめくり、とあるところで手を止める。

「九龍城で医療行為をしていたドクターですね。資料には『記憶洗浄』を行った際に廃棄すべき記憶データを、ブラックマーケットに流通させていたとありますが」

「そうだ。元々俺達は、アジアのシンジケートを追って香港入りしたんだが、なかなか大物が捕まらなくってな。だが九龍城で探りを入れ始めて二週間後、奴にぶつかった。お前さん、『魔法使いの夢』ってDDを知ってるか?」

「名前くらいは……」

「その記憶データをハザマに消してもらったという男がいたんだ」

「……資料には載ってませんね。どんなひとです?」

 フリッカはファイルを眺めながら小首を傾げた。

「忘れちまったよ。どこかの浮浪者だった気もするが……まあとにかくだ。そいつが言うには『先生は天才だ。あっという間に俺の悪夢を消してくれたんだ』とよ。それでハザマという男が捜査上に浮かび上がったんだが」

 ピートは一度言葉を切った。そして自分を落ち着かせるように生唾を飲み込む。

「おかしいとは思わねぇか」

「なにがです?」

「奴の仕事の速さだよ。『記憶洗浄』だぞ? 普通は消したい記憶データを特定するのにだって数日は掛かる作業だ。それをあっという間にって……。まあ実はこれがウチの室長が、ハザマに拘った理由でもあるんだがな。奴はどうやらサヴァンらしい」

「サヴァン……サヴァン症候群?」

 フリッカは何かを心得たように、両の手をぽんと叩いた。

「そうだ。通常じゃありえない能力だと、室長は言っていた。だからハザマはその能力を利用して、他人の記憶データを自由に編集することが出来たんじゃないかと」

 ピートはパイプ椅子の背もたれに体躯を預けると、天井を仰ぎ見た。

「そんな力があるんなら。どうにかして記憶の全消去なんてえげつない真似も出来るんじゃねかってな。あるいはその逆も……」

「……すべてはクロウ・ハザマの仕業であると?」

「そうでも考えねぇと、あまりに救いが無さすぎらぁ。それに一緒に消えちまった奴のことも気になるしな」

 するとフリッカはズレかけていた眼鏡をクイッと持ち上げて、こう言った。

「『サクラ』ですね?」

「おまえ――」

 どうしてそれを、とピートが聞き返そうとするより早く。

 フリッカは大量の捜査資料からまた別のファイルを取り出して、淡い桜色の髪をした美しい少女の写真を自慢気に見せつけた。

「あんのかよ! アイツの資料」

 ピートも思わず立ち上がった。

「えーとサクラ・ハルフォード。十六歳。書面上、ロバート・ハルフォード氏の養女ということになっていますが――」

 フリッカは静かにファイルを閉じた。

「全部ウソです」

「なに?」

「この少女に関するデータはすべて偽造です。社会保障番号も戸籍も、なにからなにまで。ただどういうわけか、それらのウソが罰せられることはありません」

「どういう意味だ」

「分かりません。それこそピートさんの言う『圧力』の正体かも知れません。それでさっきのサヴァンのお話で、ひとつ『仮説』を思いついたんですけどぉ」

 と言って、フリッカが再びトランクの中を引っ掻き回し始めた時だった。

 不意にドアをノックする音が聞こえ、ふたりはそちらに振り向く。

 しばらくしてもう一度ノックが鳴り、どうやら気のせいではないらしいと彼らは顔を見合わせた。

「は、はいっ」

 フリッカが立ち上がり、ドアを少し開けた。

 ピートからは室外の様子は伺いしれない。

 会話の様子から、どうやら相手はこの部屋へと彼らを案内した、事務員の小男であることが推察された。

「あ。そっかそっか。そう言えば、そういうお約束でしたもんね」

 フリッカはそう言うと、半開きだったドアを全開にして誰かを室内に招き入れた。

 そこに立っていたのは事務員の小男――ではなく、厳しい顔つきをしたひとりの偉丈夫だった。背丈はピートほどではない。だが全身を覆う筋肉の鎧が、彼を実際よりも大きく見せていた。

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