第32話 きのうはお楽しみのようでしたね

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 十八ある香港の行政区の中でも九龍城区は特殊である。

 行政上、隣接する油尖旺区の区議会が自治を兼任しており独立した法制度を持たない。しかしその歴史的な立場から、隣接区への合併や廃止が不可能なのである。

 かつて大戦のおり、香港は清朝中国政府からイギリスへと借地として提供された。

 そこから長い植民地支配が続いたが、一九九〇年代に中国への全面返還がなされたのである。だがすでに九龍城は魔都と化しており、麻薬の密売や資金洗浄などの隠れ蓑として各国の政府高官とズブズブの関係にあった。その為、九龍城区だけはイギリス領の飛び地として残され今に至る。それは二〇〇〇年代に入って香港が中国から独立し、連邦政府へ加盟した現在でも続いていた。

 香港からすれば九龍城は治外法権の『他国』であり、イギリスからすればすでに自治権を手放した無法地帯である。つまりは双方が互いに面倒事を押し付け合っているような状態なのだ。

 九龍城はまさにアンタッチャブル(触れられざるもの)なのである――。

 ゲオルクからのお叱りの電話を受けたあと、早々に身支度を整えたピートとフリッカは一路、九龍城へ。ふたりを乗せたビートルは、軽快にスピードを上げる。

 例の子猫はアパートに置いてきた。

 オーナー自慢のオーディオセットが爪とぎに使われないかは心配だったが、今はそれどころではない。アクセルを踏み込む脚にも自然と力が入った。

 香港から海底トンネルと抜けると九龍半島へ出る。

 しばらく道なりに大通りをゆくと、目の前に九龍城砦の威容が現れた。

 まるでいびつなサイコロを何段も積み重ねたような姿だ。

 その規模はひとつの街に匹敵し、人口密度たるやピートの住まうベッドタウンの比ではない。違法建築によりうず高く伸びたビル群は上に行くほど傾きを増し、隣接するビル同士でなんとか支え合っている状態だ。建物の老朽化もあるが、そもそもの耐久性が建築物として不足している。

 そんな不安定でボロボロなビルの壁が、九龍城の内部を外界から遮断していた。

 中へ入るには一般道に面した、いくつかの門をくぐるしかない。だがそれは紛れもなく、世界でも指折りの暗黒街に足を踏み入れるということを意味している。

 遊び半分で行けるのは、せいぜい繁華街のある三区画分くらいだ。

 そこより先に立ち入るのは、生半可な覚悟では済まされない。

 適当な路肩にビートルを駐めてふたりは車から降りる。

 間近で見上げる九龍城のビル群は、まるで自分たちの方へと倒れ込んでくるような錯覚さえ覚えた。雨風で腐食した外壁が、さらなる凄みを与えているかのようだ。

 ゲオルクは大通りに面した広場の入口に立っていた。

 すぐ後ろには多くの飲食店が建ち並び、所狭しと看板が突き出ている。

 この辺はまだ九龍城の表の顔。健全な店が多い。

「すんません! 遅れました!」

 ゲオルクの顔を見るや、ピートは深々と頭を下げた。その後ろをリュックを背負ったフリッカが、物珍しそうに周囲を見ながらついてくる。

 腕を組み、仁王立ちの状態でふたりを待ち受けていたゲオルクは、彼らの様子を見て開口一番にこう言った。

「きのうは随分とお楽しみだったようだ。一晩でそこまで仲が深まるとは」

 ピートは空港での反省を活かし、常にフリッカと手を繋いで行動していた。

 本人的には『拘束』しているだけなのだが、他人から見ればただの恋人同士にしか見えない。

「ちょ、誤解っすよ! これはこのポンコツがすぐ迷子になるからで」

「大丈夫だ。お互いが合意の上なら問題はない。だがこれは君らの『若さ』を考慮しなかった自分の計算ミスでもある」

「だから違いますって!」

 慌てて否定するピートだったが、ゲオルクは理解ある大人の表情をした。

 一方フリッカは、そんな男どもの下ネタにいまいちピンと来ていない。

 そして三人は広場の奥のほうにある、大きな門の前に立った。

 朱塗りの柱には金色の昇龍が彫られている。上部に横たわる巨大な看板には、これまた金文字で『南楼門』と書かれていた。だからといって特に屋根作りになっているわけではなく、これは城塞だった頃の名残である。

「では行こうか」

 ゲオルクに促され、手を繋いだふたりはあとに続いた。

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