コード・スキャナーズ

真野てん

九龍の闇医者

第1話 医者と酔っぱらい

*本作には暴力的な表現が含まれています。


 一九四五年、八月。大西洋上からひとつの人工島が姿を消した。

 大陸と呼ばれるほどの広大な大地が、一夜にして消滅したのである。

 歴史、文明、文化。

 闇夜に生まれた巨大な光が、それらすべてを飲み込んだ。

 焦土と化す、甚大な被害を受けた。そんなレベルの話ではない。

 文字通り跡形もなく、この世から消失したのだ。無論、そこに住む人々も……。

 それでも世界は何食わぬ顔で朝をむかえる。

 自分たちにかけられた『呪い』に気づくこともなく。



[ 1 ]


 その場所は古くから貿易港として栄え、物流や国交の要所であった。

 立地上、しばしば海賊の被害を受けた為に軍隊を駐屯させ治安維持に当たらせた。その時に建造された軍事要塞は、地名をとって九龍城砦と呼ばれた。

 俗にいう九龍城の誕生である。

 九龍城はその後いくつかの政変を経て無法地帯となったが、支配者が代わるたびに取り込んできた建築様式が暴走し、いつしか増築につぐ増築のせいで城砦というよりも迷宮へと変貌していく。

 近代に入り城壁が取り壊されると、情勢不安のおり流れこんだ難民がバラックを建て始めさらに肥大。犯罪者、浮浪者、政治結社を飲み込んで完全なるスラムと化した。

 一度足を踏み入れたら二度と出て来られないとすら言われる香港の魔窟・九龍城。

 そんな場所に『ハザマ診療所』はあった。

 所狭しと乱立する建造物に混ざって生える、築何年になるかも定かではないヒビだらけの雑居ビル。どこが出口で入口やら。二階へとあがる階段もあるが、手すりはとうに朽ちていた。壁からしみ出た腐った水が床で溜まって異臭を放つ。衛生上どう考えても問題がありそうなロケーションだが、とにかくこの建物の一階にその診療所はある。

 すでに夜半。

 チカチカと明滅する照明が天井からぶら下がる、長い通路のさらに奥。鍵の壊れた半開きドアのその向こう。狭い診察室にふたりの男が向い合って座っていた。

 ひとりは白衣を着た長身の男。もうひとりは腹の突き出た禿頭の中年だった。

「先生……最近、怖い夢ばっかり見るんだ。なんとかしておくれよ……」

 中年の男はかなり憔悴しきった様子だった。

 赤ら顔、目元は落ち込み表情も冴えない。そんな彼に向かって白衣の男――クロウ・ハザマはこう告げた。

「酔さん、酒は呑んでるか?」

「毎日浴びるように」

「話にならん」

 くわえタバコに三白眼。あからさまに呆れた態度でハザマは彼に背を向ける。

 バッサリ切られた中年男は「そんな殺生な」と情けない声をあげた。

 この男、日銭を頼りにスラム街で暮らす浮浪者である。わずかばかりの稼ぎを、ほとんど酒に変えてしまう呑兵衛で、ついたアダ名も酔(すい)さん。

 医者という立場であれば、ハザマでなくても突き放したくなるだろう。

 片付いてない机の上に、これまた雑に置かれた酔さんのカルテがある。タバコをペンに持ち替えたハザマが、今まさに「呑み過ぎ」と書き込もうとした時だった。

「違うんだよ先生。こないだ買ったDDが頭ん中で悪さしてんだよ」

 冴えない顔をさらに歪めて酔さんは言った。

 ハザマの持ったペンが止まる。

「DDだぁ? 金もねえくせにドラッグなんかで遊んでんのか!」

 下手をすれば見た目には親子ほどの年齢差があるふたり。役割も逆転して一喝された酔さんがビクリと身を縮こまらせる。

「だってよぉ。露店の兄ちゃんが『魔法使い』になれるって言うからよぉ」

「なんだそりゃ? 新手の作りモンか?」

「露店の兄ちゃんはアトランティスの遺産だって言ってたぞ」

「うわ。胡散くさっ。なんだよアトランティスの遺産って。大体アトランティスが滅んだのって『メメント・システム』ができる前だぞ?」

「知らねえよ、そんなこと言ってもよぉ……」

 まるで子供のように口を尖らせる酔さん。

 ハザマは彼のほうを向くと、噛んで含めるように諭しはじめた。

「いいか酔さん。七十年前に起こったアトランティスの爆発事故以来、その後に生まれた俺たち現代人の脳みそには短期記憶をする能力がねえ。世間じゃ魔法使いの呪いだのなんだの言いたい放題だが、必ず科学的根拠があるはずなんだ」

「はぁ」

「その証拠に事故の翌年には『メメント・システム』が発表されている。どこの天才が発明したのかは公表されてねえが、大したもんだよ。脳にメモリーチップをつなげて、記憶を符号化することに成功したんだ」

 するとハザマは机の上からおよそ一センチ角の薄いカーボン片を取り出した。

「これがメモリーチップだ。こいつが俺たちのうなじ辺りに埋められていて、特殊な神経細胞で脳幹へとつながってる。これが爆発事故の翌年には、すべての新生児に無償でインプラントされるよう国際法まで作られている」

「へぇ。こんなちっぽけなモンにねえ」

「そ。こんなちっぽけなモンに人間さまの全生涯が収まっちまうんだ。まったく薄っぺらい生き物だこと」

「いや先生。それはちょっと卑下しすぎだろ」

「どっから来るんだよ、その自信は。アンタのこと言ってんだよ」

 ハザマの三白眼が、ジト目を通り越して糸目になった。もはや怒る気力もない。吐息まじりにタバコへと手を伸ばしたが、すでに空箱になっていた。

 一方の酔さんはチップを片手に感心しきり。「大したもんだ」と膝小僧をポンと打つ。

「だからな。魔法使いの記憶なんか無ぇんだよ。仮に噂通り、アトランティスに魔法使いがいたとしても島ごと全部吹き飛んでるの。分かる?」

「そっかぁ。でも毎晩見るんだよなぁ、あの怖い夢。すごいリアルなんだよなぁ」

「夢か……そういやまだ聞いてなかったな。どんなの見るの?」

 酔さんはポツリポツリと語り始めた。

「最初はよぉ、すごい楽しい夢なんだ。何人もの魔法使いが箒に乗ってやって来てさ。俺をどこかへ連れて行こうとするんだ。箒で空飛ぶのはそりゃあ気持ちよくてさ……」

 身振り手振りで自分が箒に乗って空を飛ぶさまを、一生懸命に説明する酔さん。もはや滑稽さを飛び越えて、愛らしさすら醸しだす。

「でもよ、そのうち周りが暗くなって何も見えなくなっちまうんだ。あれぇ。変だなぁって思ってるとよ、いきなり明るくなんだよ。そしたらよ……」

 酔さんは自らの両手を見つめて震えだした。

「身体が……溶けちまうんだよ。バターみてぇにとろーんとよ……」

「酔さん?」

「熱くて、痛くてよ。でも誰も助けてくれなくてよ。寂しくて寂しくて」

 酔さんは椅子からつんのめるように立ち上がり、ハザマの脚へとすがりついた。目にはいっぱいの涙をたたえ、酒焼けした顔を童子のように歪ませて。

「頼むよ先生! 怖いんだよ! あの記憶を消してくれよ! なあ先生!」

 ズボンを掴んだ酔さんの拳から必死さが伝わってくる。ハザマは深いため息をひとつ吐くと、灰皿から消したばかりのシケモクを一本取り出した。

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