第18話 『サクラ』

 彼の上司であるロバート・ハルフォード――ロブの宿泊するロイヤルスイートは香港でも屈指の高級ホテルと言われる当館の最上階にある。

 無論、局内でも存在を問題視されているDD対策室にそんな高額な滞在費を捻出する甲斐性などあるわけもなく、すべてがロブの自費によって賄われていた。ピートなぞは香港島の郊外にある安アパートをあてがわれているというのに。

 で、あるからして香港入りして早一ヶ月が過ぎようとしていたが同階に足を踏み入れるのは当夜が初めてだった。

 そしてそれとは別に彼をこの場所へ遠ざけている理由がある。それは『サクラ』と呼ばれるひとりの少女の存在だ。

 ロブからは身寄りの無い遠縁を引き取ったと説明されている。こちらからも、それ以上は取り立てて聞かなかった。気の毒にも何かの障害を持っているらしく、一日の大半を車いすの上で過ごしているようだった。また口も聞けない状態のようで、よくロブがひとりで語りかけているのを見かけていた。

 これだけ見れば重度の障害児を引き取り、健気にも世話をしている美談である。

 だがしかし、ただただ得体が知れないのだ。

 普通に考えて四十絡みの独身男が、口も聞けない年頃の少女と衣食住を共にし、あまつさえ仕事の現場にまで同行させているのはおかしくはないだろうか。

 その状況は、局内にいまだ根強く「ハルフォード・ロリコン疑惑」を増長させ、DD対策室を非難する体の良いツールとなっている。

 それらのすべてを鵜呑みにするわけではないにせよ、ピートもまた『サクラ』には多少の危機感を抱いている人間のひとりではあった。

 ロブはあの少女に取り憑かれているのではないか――と。

 上司とは極めてビジネスライクな付き合いであった。仕事の現場以外ではほとんど顔を合わせることもない。だからと言って尊敬の念が無いわけではなく、ピートなりに彼を評価していた。

 事実はどうだったにせよ、そんな男と得体の知れない少女との蜜月に、好んで踏み込もうという趣味などピートは持ち合わせていなかった。

 そんなことを思い返してるうちに、飛び乗ったエレベーターは最上階へと到着。

 ピートは未知の世界へと一歩足を踏み入れた。

 毛足の長いフカフカの絨毯に出迎えられたピートは、このフロア唯一の個室へと歩を進めた。もっとも部屋のサイズからすれば個室という表現もどうかと思うが。

 しばらくすると「いかにも」といった感じの豪奢なドアが目に入った。

 ピートはおもむろに、飴色の光沢を放つその扉を叩いた。

「室長。サトクリフです。少しよろしいでしょうか」

 無音である。返答はない。

「ロブ? 入りますよ……」

 ピートは彫金も見事なドアノブに手を掛けると、そっと力を入れた。

 鍵は掛かっていない。

 ドアはまるで自重で勝手に動くかのように開いていった。

 ひんやりとした室内の空気が、ピートの頬を撫でてゆく。かすかに香った血の匂いに、彼は全身をこわばらせた。

「ロブ!」

 勢い良く飛び込んだピート。あまりの動揺にその前後の記憶はひどく曖昧だ。

 しかし広いロイヤルスイートの室内は驚くほど静寂で、平穏に保たれていた。照明に頼らず、窓から取り入れた月明かりのみがフロアを染め上げている。まず目に入ったのは巨大な月と、一脚の椅子だった。 

 周囲には『メメント・システム』をモニターする装置一式と、使用済みの医療器具とがあり、そしてカーペットには破れた輸血用バッグが散乱していた。

 血の匂いの正体が分かれば、ピートにも普段の判断力が戻ってくる。よく目を凝らせば毛足の長いカーペットに、一本のアーミーナイフが埋もれているのを発見した。

 ピートは血に染まるソレを拾い上げると、視線を部屋の奥へと巡らせる。

 間取りの関係で月明かりさえ届かない闇の中、ドアによる間仕切りを持たない小部屋があった。夜目にも慣れ、ちらりと見えたカウチとベッドからそこが寝室であることを知った。

 ピートはそこで見つけたのだ。

 一糸纏わぬ姿で放心する、廃人と化した自らの上司を。

「ロブ! ロバート・ハルフォード!」

 ピートは駆け寄り、ロブの身体を揺すった。しかし大きく開かれた双眸は、焦点も定かではない。口元は緩く、時折小さくうめき声を上げるだけ。こちらからの問いかけには一切の反応はなく。ただ静かに呼吸を繰り返すのみである。

 これは只事ではない。

 ピートはすぐさま本部に連絡を取ろうとした。だがよほど慌てていたのだろう。拳銃はおろか、携帯電話さえ部屋に置いてきていたことにようやく気が付いた。

 そして冷静になった彼は、さらなる違和感に気づく。

「ハザマと『サクラ』はどうした……」

 同室に、空になった車いすを見つけてひとり言ちる。

 ピートは広いフロアをもう一度見回した。だがそこに変化はなく、ただ巨大な月のみが、彼を冷たく見返していた――。

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