第19話 猫といっしょ

 シャワーを終え、手早く身支度を済ませるとピートは部屋を出た。

 安アパートとはいえ、連邦政府名義で借り受けている物件なだけに無駄に広い。個室も多く、どう考えてもファミリー向けの間取りだった。さらに一階はシャッター付きのガレージとなっており、車両も含めてセットでレンタルされていた。

 ピートは玄関を出て足早に階段を駆け下りると、ガレージのシャッターを開けた。

 そこに納められていたのは一台の古めかしいドイツ車。丸いボディにくすんだようなフラットイエローがよく似合う。

 フォルクスワーゲン・タイプ1――通称「ビートル」である。

 吐く息も白む季節。ピートはシャッターが開き切るのも待てずに車へ乗り込もうとしたが「にゃーん」という鳴き声を聞いて足を止めた。暗がりの中で目を凝らすと、ボンネットの上に寝転がる小さな生き物の姿が。

 子猫である。漆黒の毛並みを震わせて、大きく背伸びをした。

「おまえか。びっくりさせんなよ」

 そう言ってピートは冷えた手で子猫の頭を撫でてやった。『彼女』との出会いは二日ほど前。玄関先で寒さに震えているのを見つけ、エサをやったのがはじまりだ。

 が、仮にも出張中の身である。情に流されて飼うわけにもいかない。

 ピートは心を鬼にしてドアを閉めた。

 しかし結局は居付いてしまったというわけである。

「どっから入った? 器用な奴だ」

 ボンネット上でピートに腹を見せる子猫。撫でられるがままにされ、ゴロゴロと喉を鳴らしている。しばらく戯れたあと、ピートは彼女を抱き上げてボンネットから降ろした。

「悪いがこれから仕事だ。お前さんと遊んでる暇は無ぇんだよ」

 子猫は恨めしそうに「にゃーん」と鳴いた。

 ピートはビートルのドアを開ける。少し固めのレザーシートに腰を沈めるとキーをオンにさせた。カスタムされたデジタルパネルに照明が灯り、動力装置が立ち上がった。ピートがシフトをドライブに入れてアクセルを踏み込むと、黄色いカブトムシは音も無く加速してゆく。

 各国の温室効果ガス削減政策の一環で、電動自動車の普及というものがある。

 また古いものを長く使うという考え方が見直され、旧車の電動化を推奨する行政区が国際的に増えているのだ。香港もまたその例に漏れず、新しいベンチャービジネスとしても近年目覚ましい発展を遂げていた。

 ピートのビートルもまた『電動化された旧車』であり、ボディは製造当時のオリジナルである。しかし車体後部にあるエンジンルームには、最新型の電動モーターがスワップされていた。航続距離が二百キロ前後というのは玉に瑕だが、それでも香港市内を移動するには十分な性能である。

 ピートはカーラジオから流れるハードロックにご満悦だった。冬空の中、ビートルの窓を全開にしてノリノリでハンドルを切る。信号待ちの車内でテクニカルなギターサウンドが鼓膜を刺激した。なので気づくのが少々遅かったようだ。

「にゃーん」

「え?」

 助手席にちょこんと小さな黒猫が座っていることに。

 思わず二度見してしまったピートは開いた口がふさがらない。

「マジかよおい。器用過ぎるだろ、おまえ」

 ピートの気持ちを知ってか、知らずか。

 子猫は素知らぬ顔で耳の後ろをかいている。実に気持ちが良さそうだ。

 そんな平和的な光景を眺めていると、なんだかすべてがどうでもいい気がして。

「ま、いいか」

 信号が変わった。ビートルは再び加速していった。

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