第17話 戸惑いは湯気のなか

 小奇麗だが、若干のカビ臭さが漂うユニットバス。

 寝汗でずくずくになったシャツとパンツを洗濯機に放り込むと、ピートは鍛え上げられた体躯を狭いバスタブへと投じた。

 幸か不幸か、きのうの寝落ちのおかげでボイラーを沸かす手間は省けている。真鍮製のノブを軽く回しただけで、ピートの頭上には熱いシャワーが降り注いだ。冷え切っているバスルームは、一瞬にして高温のスチームに満たされてゆく。

 肌への直接的な刺激を浴びると、ようやく現実世界へ戻ってきたと実感する。

 DDで見る夢は生々しい。それは他人の記憶とはいえ、実際に起きた出来事を追体験しているからだ。DDは現実と虚構の境界を曖昧にする。加えて『強制レム睡眠維持剤』の使用が肉体に負担をかけるのだ。

 ほんの遊びのうちはまだ抜け出せる。だが、どっぷりと浸かってしまえば肉体も精神もボロボロになる。そうなってしまえばもう手遅れである。

 しかしDDのマーケットは新世紀を迎えて拡大の一途をたどっていた。

 記憶を売る者、記憶を買う者。そして記憶を奪う者。

 それらに付随する危険薬物を取り締まるのが麻薬取締局の本来の役目であり、中でもピートが所属するDD対策室は、ドリーミング・ドラッグそのものを犯罪として扱う部署である。新興組織であるためまだ実績に乏しく、局内上層部の受けも悪い。

 尚且つ現在、とある事情によってDD対策室の業務はストップしていた――。

 バスルームの壁にかかる一枚の鏡。

 髪をかきあげ、立ち込める湯気越しに見る自分の顔は、いつもより幾分疲れているように思えた。二十三歳という年齢の割に少し老けこんで見えるのは、タブーを冒しているという罪悪感からか。

 それとも、上司であるロバート・ハルフォードを守れなかった後悔からだろうか。

 あれからちょうど一週間が経った。

 室長自らが容疑者に探りを入れたあの日の夜。ピートはPMC(民間軍事会社)のメンバーと行動を共にしていた。九龍城への潜入作戦である。

 ひとりの犠牲者を出しながらも、ピート達はクロウ・ハザマの捕縛に一度は成功している。その後は身柄をロバートに引き渡して、自身は同ホテルの安部屋で待機していた。慣れない集団行動と、作戦の成功で気が緩んでいたのだろう。ベッドに横たわった瞬間、どっぷりと眠りの世界に落ちていた。

 次に目を開けたのは、誰かが部屋のドアを激しくノックしている時だった。

 それはロバートと一緒にいるはずの医療スタッフのひとりだった。

 聞けば容疑者への尋問の途中で人払いを受けたらしい。しかしそれから数時間が経過しても何の指示もなく、ましてや容疑者ハザマは一命を取り留めたとはいえ依然重症の状態である。医療に携わる人間としては見過ごすわけにもいかず、しかしながら退室を命じられたのだからおいそれと声をかけるのもはばかられる。

 と言った状況で、ピートに白羽の矢が立ったというわけだ。

 正直、目蓋は重い。

 ふかふかのベッドに後ろ髪を引かれながらも、ピートは部屋をあとにした。

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