第4話 ブラック・サバス

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 九龍城には大小合わせて二百を超える名前のついた通路がある。

 南北を走る龍津路、東西をつなげる龍城路。これらをメインストリートとして支線が分岐し、複雑な交通網を形成している。

 かつて起きた大火災を教訓に、建物の多くは鉄筋コンクリートで出来ている。だがお国柄、水が大変貴重だった為にコンクリートの錬成にはかなり苦労した。建材の強度が出しにくく、隣同士の建物がお互いに寄り掛かるように建てられバランスをとっている始末。

 築年数もかさみ、老朽化の進んだ建物も多い。

 歪んだり崩れたりした物件ばかりである。しかしそれがまたこの九龍城の不思議な雰囲気を自然と演出してしまうというのも、どうにも皮肉な話だ。

 ハザマは診療所を出て、古い集合住宅に囲まれた狭い通路へと足を伸ばした。

 悪夢から目覚めてさらに一時間ほど経っている。すでに太陽は西へと傾き始めていた。

 無法地帯と呼ばれるこの街にも学校や病院などの施設はきちんと存在する。そこかしこで子供たちがはしゃぎ回り、アパートの窓からは夫婦喧嘩の喧騒がBGMのように鳴り響いている。九龍城には「街は街の人間が守るもの」という精神が古くから培われており、自警団などの活躍で治安は驚くほど維持されていた。

 だが勿論、暗黒街としてもその名が知れ渡っている九龍城である。

 あまりにも危険であるがゆえ、誰もがルールの重要性を知っているというだけの話かもしれない。一事が万事、逆説的な街である。

 ハザマの向かう先も、そんなルールが重要な場所だった。

 闇の住人たちが行き交う最も瘴気の濃い魔窟。

 光明街という一画がある。その名に反して一日中、陽の差さない薄暗い区画である。

 そこに『ブラック・サバス』という酒場があった。

 飴色にツヤの出された木製ドアには、まだ『Closed』のプレートが下がっていた。

「オジー、朝飯くれ。あとタバコ二箱な」

 問答無用で扉を開けるハザマに、カウンター越しに野太い声が飛んできた。

「それが昼過ぎまで寝といて言うセリフ? まったく人間のクズね」

「クズに言われたかねーや。あー頭イテ……」

 椅子に座るなりカウンターへと突っ伏すハザマに、二メートルを超える巨躯のオカマが水を持ってきた。真っ赤な短髪を逆立て、右耳に三連のピアス。彫りは深いが鼻筋の通った顔立ちはイングランド人のそれだった。この店のオーナー、オジーである。

「二日酔い? 珍しいわね、普段飲まない人間が」

「普段飲まねーから潰れてんだよ。あー水がうまい。サンキュな」

 オジーに出された水を一気に飲み干すと、ハザマは改めて店内を見渡した。

 それほど広い作りではない。十人がやっと座れるカウンターの後ろに四人掛けのテーブル席がワンセット。室内は淡いオレンジ色の照明に包まれており、メランコリックなジャズが流れていた。

 オジーは冷蔵庫から卵を取り出し、黄身だけをウォッカグラスに割り入れた。その他、ウスターソースにトマトジュース、そしてビネガーと唐辛子、ジンを少量加えてハザマの前に置いた。

「なんだこりゃ?」

「プレーリーオイスターよ。二日酔いの特効薬」

 グラスをつまんで目の高さまでやると、ハザマはあからさまに眉をひそめる。

「日本じゃ二日酔いったら味噌汁なんだがな……」

「黙って飲みな。黄身は潰さずツルっとね」

 しばしの逡巡。赤茶色の液体に浮かぶ卵黄を一気に飲み干し、うべぇと舌を出した。卵黄の生臭さが残る口の中、オジーから受け取ったタバコに火をつけ紫煙でうがいをするハザマだった。

 するとオジーはグラスをもうひとつカウンターに置き、その傍らに灰皿、そして火のついたタバコを載せた。グラスにはなみなみとウィスキーが注がれている。カランと氷の溶ける音。グラスは汗をかいていた。

「なんだよ。迎え酒なんざ要らねぇよ」

 と、ハザマが軽口を叩くと「バカね」とオジー。

「酔さんのよ」

 吐息をもらし、肩を落としてそう言った。

「は?」

 我が耳を疑うハザマが間の抜けた声を出すと、オジーはこう続けた。

「酔さん、死んじゃったのよ。今朝ね、ねぐらの近くで倒れてるのをウチで雇ってる情報屋のひとりが見つけたのよ。死因は出血多量。ナイフで頸動脈を切られてたらしいわ」

「や、だって昨日よ……」

「知ってるわ。昨日あたしも酔さんに会ってるもの。ちょうどそこに座って『先生に悪い魔法使いを退治してもらった。これでちゃんと寝れるぞ』って喜んでたのに……」

「……マジかよ」

 隣に置かれたグラスを見つめてハザマはごちた。胸裡にはあの赤ら顔が浮かんでいる。

 カウンター越しにいるオジーがコンロに火をつけ、フライパンをかけた。ひとすくいのバターを溶かすと、ジュワっといい香りが店内に広がる。

「明け方まで安酒かっ食らって、その後すぐよ。出会い頭にチンピラどもの抗争に巻き込まれたか……あるいは待ち伏せでもされたか」

「待ち伏せ? なんのために」

「あるいはって言ったでしょ。実はここの所、九龍城に変なのが入りこんで来てるみたいでね。正体は分かんないけど、どの幇(ギルド)も警戒しているわ」

「ふぅん」

「アンタも気をつけなさい。どうもDDが絡んでるみたいだから」

「DDが?」

「ここ数日でDDのブローカーが何人か行方不明になってるのよ。まあどいつも有名人の海賊版売ってるような小者だけど。酔さんもそういうのから記憶を買ったらしいから」

 酔さんは例の記憶を露店で買ったと言っていた。そのことを思い出したハザマは、どうにも胸の奥がザラつくのを感じた。

「魔法使いか……」

 吸いもしないまま放置されたタバコの灰が、ポトリと灰皿へ落ちた。

 まるで酔さんが返事をしたようだとハザマは思った。手にした自分のタバコをもみ消すと、彼は白衣のポケットから数枚のメモリーチップを取り出した。それを無造作にカウンターへ放ると、自分のためにフライパンを振るうオジーに言った。

「悪ぃ。また金に換えてくれ」

「ちょっと。ひとの話聞いてるわけ?」

「ご忠告ありがてぇんだが、こちらも生活があるんでね。これなんかいいぜ、俳優の卵だかが有名アイドル孕ましたってんで記憶消しにきたヤツだ」

 カウンターの上に散らばったチップをひとつ拾い上げ、ハザマが言う。

 オジーはかぶりを振りつつも、無言でチップを受け取った。

「貧乏人相手にタダで診察してりゃ金もなくなるわよ。もう、ほんとおバカね」

 口では怒りながらもどこか嬉しそうなオジー。出来立てのオムライスをハザマの前に置いた。ふわふわトロトロの卵焼きには、ケチャップで「KURO LOVE」の文字が躍る。

 眉をしかめつつもハザマ。湯気が立つオムライスにスプーンを立てた。

「ああ、それから……」と口元まで運んだスプーンを止める。

 一瞬だけ真剣な目をして一言つぶやいた。

「アレ、用意できるか?」

 グラスを拭いていたオジーの手が止まる。驚いた表情でハザマを見るが、彼はオムライスを見つめたままだった。その時ちょうどレコードが終わる。

 店内には皿をつつくスプーンの音だけが悲しく響いた。

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