第66話 リンダの書

 ひとしきり笑って、ふと天井の隅にある防犯カメラへと視線を向けたハザマは、サクラに向けて「そういえば」と切り出した。指先には、二本目のタバコの煙が揺らめいていた。

「『廃都』の爺さんには何も伝えなくていいのか? 結構恨んでたぞ」

「爺さん? ああ、フォン・ノイマンのことね。コンピューターも何もない時代に、爆縮レンズの公式を手計算で解き出した時には感心したものだけど……結局彼がコードの世界を知覚することはなかった。間接的とは言え、自分の研究が『呪い』の発端となったことを後悔しているのね」

「そうかも知れねえな……」

「いいんじゃない? わたしを恨むことが生きる希望となるのなら。『黙示録』のくびきから解放された人類は、これからどんどん進化していくわ。それを見れば、いつか分かってくれるもの」

「……そっか」

「うん」

 ハザマは酔さんの顔を見た。

 安らかに眠るその横顔は、どこか笑ってるようにも思えた。

「帰ろうか酔さん。俺達の九龍城に」

 ハザマは白衣を脱ぐと、それを酔さんの身体の上に掛けてやった。

 白衣は裾のほうから黒く染まっていく。

 それが酔さんへの、ハザマからの鎮魂であった。

「魔法使いなんて言っても、結局大事なひとひとり守れないんだな」

 彼は悲しそうにそう呟くと、ふと手にした本の表紙を目でなぞった。

 いぶし銀で出来たプレートに刻み込まれた文字は、

「『リンダの書』? リンダ?」

 はっとしてサクラを視線を送った。

 彼女の笑顔はどこか儚げで。

「六百年前、魔女の疑いをかけられて火炙りにされた女の名前。そしてまだ小さかったわたしを守るためにその身を捧げた普通のひと。わたしのお母さんよ……」

「な――」

「アンタの言う通りよ。魔法使いなんて言っても、大事なひとも守れない。所詮その程度の存在なんだから、肩肘張ることなんてないのよ」

 サクラはおどけてそう言った。

「無理してないか?」

 ハザマは『リンダの書』をサクラへと投げ返すと、さらに言葉を紡いだ。

「願い事……」

「え?」

「魔法使いは願い事を叶えるのが本分なんだろ? 言えよ。叶えてやっから」

 きっと鳩が豆鉄砲を食ったような顔とは、先人が彼女のために生み出した言葉なのではないだろうか。

 彼女はそんな顔をしていた。

「無ぇのか?」

「えっ、ちょ、ちょっとまって、んーと、んーとねー」

 自慢の髪をかき乱し、必死になって探した自分の願い。

 七世紀にも亘る彼女の旅は、今ここで新しくスタートする。

 その傍らには一匹の黒猫と古めかしい箒。

 そして――。

「あ! そうだ!」

 ただでさえまん丸な瞳を落っことしそうなくらいに広げ、彼女はキラキラとした表情でハザマにこう告げた。

「アイス食べたい!」

「子供か!」

 のちの歴史書はこう語る。

 今世紀最初の魔法使いが叶えた最初の願いは、アイスを買いにいくことだったと。

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