第67話 今世紀最初の魔法使い
大きめのトランクふたつをお供に、フリッカは安アパートの前で佇んでいた。
突然捜査は打ち切れ、彼女は本国へと帰らねばならなくなった。
胸に湧き上がる悔しさと、それ以上の寂寥感から唇を強く噛み締めた。
手には一枚の捜査資料を握りしめており、色気のない黒縁眼鏡のレンズ越しにリビングの窓を見上げている。
しばらくして彼女は深いため息をつくと、トランクを引きずっておもむろに後ろへと振り返った。
すると道路を挟んだ反対側。
真冬の日差しを遮るようにして立つ集合住宅の手前側に、見慣れた一台の自動車が停まっているのに気が付いた
かすれたフラットイエローがよく似合う流線型ボディ。
それはピートと乗ったカブトムシだった。
「ピートさん!」
彼女の呼び掛けに応じるように、ビートルのドアが開かれた。
現れ出たのは長駆の男。黒い蓬髪に三白眼。袖を折った黒衣を纏い、くわえタバコの煙が目に染みないよう、ただでさえ鋭い目つきを凶悪に眇めていた。
フリッカの身体は硬直した。
今にも転んでしまいそうな不安定な心に喝を入れて、必死に彼を睨み返す。
「ここにひとつの『仮説』があります!」
フリッカは黒衣の男に向けて、手にした捜査資料を突き出した。
道路を挟んだ向かい側に、しっかり通る澄んだ声で。
捜査資料にはピート・サトクリフの名があり、灰色がかった髪をしたヘイゼルの瞳を持つ青年の顔写真が貼ってある。
そしてその下には、赤いスタンプで『死亡』と押されていた。
「我々には集団催眠のようなものが掛けられていました。実際にはいない人間を、あたかもいるように……そして、全くの別人をピート・サトクリフだと思い込んで接触していたんです。どうしてそうなったのかは分かりません。でも――」
フリッカは眉間に深いシワを刻みつけて、言い放った。
「魔法使いになら可能です。クロウ・ハザマ、さん」
息を呑む。
フリッカの心臓は早鐘を打っていた。
目元には熱いものが込み上げ、油断をすればいつ流れ落ちるかも分からない。
黒衣の男はゆっくりと、だが確実にフリッカのほうへと歩みを進める。
唇から離したタバコは火の着いたまま、どこかへと投げ飛ばして――。
「わ、わた、わたしはっ」
動揺するフリッカに対し黒衣の男はさも面倒臭そうに。
「ゴチャゴチャうるせえよ、このポンコツ。空港行くんだろ? 送ってやるからさっさと荷物運べ!」
「もぉ~ピートさん~。脅かさないでくださいよぉ~」
フリッカはペタリと、膝から地面へと崩れ去った。ズレかけた眼鏡もそのままに、隣にあったトランクへとしなだれ掛かる。
「なにが脅かすな、だよ。とっくに見当付いてたんだろ?」
「……はい。あなたが何らかの方法でピートさんになっている可能性に、ついさっき気が付きました」
「ご名答だよ。ちょっと悪い魔女に魔法を掛けられてね。本来なら美女の接吻で復活するところなんだが、自力で解いてやったよ」
「悪い魔女って『サクラ』さんですか?」
「ま。その辺も含めてまずは走りだそうや。また渋滞にハマるのも嫌だしな」
「……ほんとにピートさんなんですね。その話し方も、雰囲気も」
「だからピートじゃねえってば」
ふたりを乗せたビートルは、香港郊外から一路ランタオ島へ。
洋上を走る巨大な橋を疾走する黄色いカブトムシ。今日は渋滞に捕まることもなく軽快にスピードを上げている。
車内には野太いビートを刻んだハードロックが流れており、窓を全開にして運転するハザマもご機嫌だった。
「ビートルズ……」
「あん?」
「あれは本物のピート・サトクリフさんのご趣味だったんですね。だからあなたは好みじゃないって。DDのやり過ぎでハザマさんに近づいたんじゃなくて……最初からハザマさんご本人だったってことかぁ」
フリッカは革張りのシートに背中を預け、ひとりで「うんうん」と納得していた。
「記憶と人格はまた別物ってこった。お互いに影響し合うが、決して交わることはない。ラベルを張り替えたところで、ワインがシャンパンになるわけじゃねえのさ」
「さすがお医者さんですね、ピートさん」
「だから何度も言うが、もうピートじゃ……」
「あ! ピートさん見てください! あそこ!」
フリッカが喜々として指差した方向。それは抜けるような青空だった。
雲一つない蒼天に、一台の旅客機が飛んで行く。
それと並走するようにして、一本の箒が魔女を乗せて飛んでいた。
三角帽子に桜色の長い髪。
そして手にしたソフトクリームを美味しそうに舐めている。
窓から落ちんばかりに身を乗り出すフリッカの、首根っこを掴んでハザマが言う。
「だからピートじゃねえって。俺はクロウ・ハザマ。今世紀最初の……」
魔法使いだ――。
今世紀最初の魔法使い/後編・了
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