第62話 煙のゆくえ――その向こう側

「で。ほんとにどうすんの?」

 月の光をその身に浴びて、目覚めたばかりの彼女は言った。

 腰まで伸びた薄紅色の柔らかな髪は、空気をはらんでゆらゆらと舞う。身にまとうローブの裾をもてあそび、幼くもしなやかな肢体を踊らせた。

 そんな彼女を呆けたように眺めながら、クロウ・ハザマは手にしたタバコがどんどん灰になっていくのを感じていた。

「どうするったってなぁ。これといって変わったつもりもないし、特に野心があるわけでもないんだけどね」

「ふーん。つまりは元のままが良いってこと?」

 サクラは軽く相槌を打つと、壁一面に広がる大きなガラス窓へと視線を向けた。

 しかしその焦点は、さらに遠くで結ばれているようだ。

「九龍城は俺の家族みたいなもんさ。今更手放すことなんて出来ない。ただ――」

「ただ?」

「俺があそこへ戻ることで、また酔さんみたいに誰かが傷つくのなら帰れない。もう俺は、誰も失いたくないんだ」

 ハザマが指を鳴らすと、フィルター近くまで灰になった吸い殻が、小さな炎を上げて大気中へと消えていった。床に落ちた灰も残らない。臭いすらどこかへと行ってしまった。

「なあサクラ」

「ん?」

「俺の願いはワガママだろうか。もはや何かを願うことすら、俺には過ぎたことなのだろうか。世界はこんなにも魔法使いを憎んでいる……」

 広げた両手から幾つものホログラムディスプレイが飛び出した。そこに刻まれた映像は、魔法使いが迫害されてきた歴史そのもの。『魔女狩り』と称し、善良な市民達が時に差別の言い訳としてきたことのすべてだった。

 香港が誇る高級ホテルの最上階、そのロイヤルスイートを光と影が分かつ。

 月明かりの下へと躍り出たサクラと、いまだ闇の中に佇むハザマ。両者の視線が一枚の画面で交差する。

 集団ヒステリーに沸き返る公衆の面前で、生きたままに焼かれる赤髪の女。

 サクラは人形と見紛う大きな瞳を閉じ。静かに首を振った。

「クロウ……」

「どうした?」

「少しわたしに時間をくれない? アンタのワガママ……叶えてあげる」

「何をする気だ?」

「誰かの願いを叶えるのが魔法使いの本分よ。まあ見てなさい。アンタが笑って暮らせるようにしてあげるから」

 サクラはそう告げると窓際からハザマのいる影のほうへとやって来た。

 毛足の長いカーペットは彼の血で染まり、破れた輸血バックが散乱している。そしてサクラは九龍城でふたりの命を奪ったアーミーナイフを拾い上げた。

「だからアンタにはちょっと時間を稼いでもらいたいのよ」

「あん?」

「この部屋は見張られている。わたしの復活やアンタの覚醒が、世間にバレるのも時間の問題ね。下手をするとどこかの馬鹿が、今度は香港に原爆を落としかねない」

「な……嘘だろ……?」

「アンタがさっき思い出されてくれたんじゃない。世界はそれほどまでに魔法使いを憎んでいるのよ」

「そうか……そうだな。で、時間稼ぎってなんだよ? 覚醒ったって、他人のコード読めるようになった程度だぞ。何が出来る?」

「それで十分。アンタ、他人になりすましなさい」

「は?」

 ずっと緊張が続いていたところ、久しぶりにマヌケな声が出たと自覚する。

 ハザマはサクラの言ってることがまるで理解出来なかった。

 サクラは彼の表情からそれを読み取ると、短くため息をついた。

「どこかの馬鹿に見つかっちゃマズイから、アンタの存在自体を消しなさいって言ってんの。都合のいいことに、今夜は死にたての人間がいるから彼になりすましましょう。情報の改ざんも最小限で済むから楽勝ね」

「ちょ! 待てよ、オイ! あの野郎のことか? やだぜ、酔さん殺したヤツになりすますなんて……」

「なに贅沢言ってんの。殺したのアンタじゃない。それにあの時、彼の一生分のコードは頭ン中に叩き込んだでしょ? あとはアンタの記憶と、都合の悪い情報だけ封印して外見を変えれば、彼本人と言っても差し支えないわ」

「そんな無茶苦茶な……。大体、あの死体はどうすんだよ。俺がヤツに成り代わったところで、本人の存在自体は消えねえぞ?」

「もうひとり別の人間をでっち上げる」

「あ?」

「だーかーらー。死体が余るなら、その死体に別の名前と戸籍を与えて存在したように見せればいいでしょ。そうね……名前はジョン・ドゥでどうかしら」

「ジョン・ドゥ(身元不明者)? 安直だなぁ」

「いいの! もう決めたの!」

 サクラはその儚げな白い手を掲げると、眼前に魔法陣を生み出した。

 大気中に突如して現れた円形のホログラム。

 それはコードの集合体である。淡いオレンジに輝く無数の文字列がうごめいて、美しい幾何学模様を構成しているのだ。

「オイ、こら! まだ心の準備が……」

「待てません。それに……」

 この時のハザマが見たサクラは『夢』の中で出会ったあの遊女のように、憂いを帯びた瞳をしていた。まるで一夜の恋人のように、姉のように、妹のように。

 そして母のように――。

「ピート・サトクリフとして人生をやり直すことも出来るのよ。魔法使いであることを忘れてね……」

「サクラ……」

「とりあえずのお別れよ、クロウ。また会えるといいわね」

「待てよ! サク――」

 ハザマは魔法陣に飲み込まれていった。

 妖しく光るコード達は、彼の身体を蹂躙してゆく。分解し、取り込み、また再構成することを繰り返す。

 やがてクロウ・ハザマの肉体は、見知らぬ別人のそれへと変貌していた。

 あまりの動揺にその前後の記憶はひどく曖昧だ。

 しかし広いロイヤルスイートの室内は驚くほど静寂で、平穏に保たれていた。照明に頼らず、窓から取り入れた月明かりのみがフロアを染め上げている。まず目に入ったのは巨大な月と、一脚の椅子だった――。

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