第13話 ピート・サトクリフ
頭の芯がしびれていた。
まだ覚め切らぬ五感を目掛けてゆっくりと、だが確実に現実世界はにじり寄る。
薄目を開けたその先で、黒い毛の塊が自分を見下ろしていた。それは『夢』の中でも感じた息苦しさの正体だ。金色の瞳を見開いて、居丈高に「にゃあ」と鳴く。
「なんだ……おまえか……」
安堵のため息と悪態をひとつ。我が胸上で香箱を組む黒猫に、そっと一撫で手を差し伸べようとした時である。不意にその手が猫の首筋を摘み上げ、天高々と突き上げられた。
「『なんだおまえか』じゃねえよ! なんでお前がいるんだよ!」
ピートは思わず飛び起きる。
猫つかみをされ、ぷらーんとしている「おまえ」は、耳を伏せて迷惑そうだ。極めて遺憾であるとでも言いたいのか、そのヒゲは攻撃的にも前を向いていた。
爽やかな朝――とはとてもじゃないが言いがたい。
かくして彼の平穏は、寝起きと共に破られた。
しかも窓から差し込む陽光の角度からして、朝であるかも怪しいところである。腕時計を見れば案の定、時刻はすでに正午を回っていた。
「あ? 目覚ましはどうした?」
すぐさま黒猫を解放し、ベッドの脇にあるテーブルへと視線を移す。そこには起動されたままのラップトップといくつかのメモリーチップ。そしてカラフルな色をした錠剤入りの小瓶が置かれていた。
およそ目覚まし時計になりうるような物はひとつもない。
疑問に思ったピートだったが、ふと足元に違和感を感じてブランケットを剥ぎとった。するとそこには胎児のように丸くなったひとりの女性の姿があった。
水気の無いパサついた赤毛を無造作にうしろで束ね、そばかすだらけの丸顔に大きなフレームの野暮ったい眼鏡をかけている。
少女というにはすでに幼さを手放してはいるが、しかし成熟した大人の色香を漂わせるにはまだ程遠い。
胸元には古めかしいパタパタ時計を抱えており、すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てていた。
しばしの逡巡があり、ピートはおもむろに枕を手にしてベッドを降りた。
枕の置いてあった場所には一丁の拳銃が顔をのぞかせている。コッキングがされた状態だったが、サムセイフティはかけられていた。
冷たいフローリングは足の裏から体温を奪っていくようだった。
ピートはベッドから二三歩離れて振り返ると、手にした枕を思いっきり女性へと投げつけた。
「ぎゃん!」
可愛らしさのかけらも感じられない短い叫びが、ホコリ舞い散るベッドルームにこだまする。そのまま寝床から転げ落ちた女性は、まだ胡乱な表情を浮かべてあたりをボンヤリと見回した。
「どこ?」
「少なくともテメェのベッドじゃねえよ、このポンコツ。お前の部屋はこの向かいだと言っただろうが!」
激しい口調でドアの方向を指差すピート。女性は――フリッカは彼の指先を、開き切らない目で追うと「あ……」と低く吐息を漏らした。
「おは、おはようございますピートさんっ」
「あ、でもねえし、おはようでもねえ。その無駄にデカい胸に抱えてんのは何だ?」
「……時計、ですね」
「んなこたぁ分かってんだバカ。時間を見ろ、時間を。もう昼だろうが。ったく勝手にアラーム止めやがって、約束に遅れんぞ」
「だってぇ。きのう夜中に目が覚めたから資料読んだり、過去の事例を検証したりして眠かったんですもん」
「知らねぇよ。まったく二日続けて朝の予定が丸つぶれだ」
「そんなの半分はピートさんの責任じゃない……です、か……」
「だから二度寝をしようとするんじゃねえ」
床にへたり込んだフリッカが、再びベッドに突っ伏そうするのを阻止すべくピートは彼女の頭を鷲掴みにした。そして残るもう一方の手で黒猫を引き寄せると、
「あと『こいつ』もお前の仕業か」
生来のタレ目が、つり上がって見えるくらいの剣幕で凄んだ。
だがフリッカは別段怯える様子も無く、ピートの魔手から黒猫を救い出すとさっきまで抱いていたパタパタ時計の代わりにその豊満な胸へと迎え入れた。
「だってこの寒空に可哀想じゃないですか。ねぇ~?」
「言ったよな? 泊めてやるかわりにルールは守れと」
「社会的なルールも守ってないようなひとには言われたくないです」
フリッカはベッド脇にあるテーブルの上に置かれたラップトップを指して言った。
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