第11話 煙のゆくえ
椅子の上にくくられている、かつてハザマであったもの。その胸元に深々と刺さるナイフが震えだした。最初は小さな振動だったが、次第に大きく振幅しだしてついに床ヘとこぼれ落ちる。足首まで埋まるフカフカのカーペットである。音すらしなかった。
次にかつてハザマであったものを椅子に縛り付けているロープが突然燃え始めた。まるで導火線のような勢いで一瞬にして燃え尽きる。だらりと垂れ下がる両腕から、点滴のチューブが抜けた。そして死体は動き出す――。
かつてハザマであったものは撃たれた右足を一歩踏み出した。その動きは糸繰り人形のようにグラグラと不安定で、よろけた勢いで今度は左足が出た。また一歩、もう一歩とそれを繰り返す。ゆっくりとした足取りは確実に隣室へと近づいていた。その途中でかつてハザマであったものは、ロブの脱ぎ捨てたスーツのジャケットを拾い上げる。
闘牛士がマントを翻すような動きでジャケットに腕を通すと、一瞬にしてそれは白衣へと変化した。血まみれだった衣服はすべて元通りに復元された。そしてかつてハザマであったものは、無傷のハザマへと修復された。
「ああ……サクラぁ……さくらぁ……」
ロブはまだ気付いていない。己が始末した人間が生き返っていることに。その男がこんなに側まで接近していることに。
ハザマはベッドルームの壁をノックした。
「お取り込み中のとこ悪いんだが」
一瞬、ロブの世界は空白となった。だが、
「はあああああああああああああああっ!!」
ロブは腰を抜かしている。顔と手先だけ血に染まり、あとは真っ白い素肌を晒して。
「なぜ? なぜぇ!」
恐怖のあまりに銀髪を掻きむしる。もはやそこに狡猾な麻薬捜査官の姿はない。
「答えを言ってなかったと思ってな……」
ハザマが指をスナップさせた。するとベッドルームいっぱいにホログラムディスプレイが現れた。十枚や百枚どころではない。大きさも均一ではなく大小入り混じっている。そこに表示されているのは膨大な数の文字列だった。
「見えるか? これがアンタのいままで生きてきた証。全生涯の記憶だよ。アンタのメモリーチップから読み取って立体映像にしている。ちっぽけなもんさ人間なんざ。こんな薄っぺらい板っ切れに人生のすべてが収まっちまう」
と、ハザマは指でなにかを摘まむような仕草をした。
「人類にゃまだ色々と早ぇよハルフォードさん。過ぎた代物さ『アトランティスの遺産』ってヤツはよ。だから――」
空中にもうひとつディスプレイが現れた。そこに表示されているもの、それは。
『Delete?』
警告をイメージさせる真っ赤な明滅で室内が染められた。
ハザマはゆっくりとした動作で指先をロブへと掲げていく。
「まてっ――まってくれっ――」
すがるロバート・ハルフォード。赤ん坊のようにハザマのほうへ這っていく。
だが。
「あばよロブ。記憶の海で会おう」
パチンっと指を鳴らす音が響いた。
その瞬間、空中を舞うディスプレイが次々と消失していった。待つこと一分。部屋中を埋めていたすべてのホログラムが無くなった。そこにあるのは三人の人物だけ。
ひとりは白衣を来た長身の男。
ひとりは血に染まった無口な少女。
そして最後のひとりは、すべての記憶を失い赤ん坊のようになってしまった哀れな男。
静寂と月の光が部屋を包む。ハザマはナイフを手にサクラへと近づいた。
まずはハザマがサクラの顔を優しく撫でる。すると手の触れた部分の血汚れがすべて無くなった。さらにハザマは彼女の背中へ回ると、おもむろに白い首筋へとナイフを突き立てた。
絹でも裁断するように、静かにナイフが入っていく。出血も無ければナイフに血すらつかない。それでも深々とサクラのうなじは切り開かれ、そこに埋まる小さなチップが露出した。メモリーチップである。わずか一センチ角の記憶装置。ハザマはそれをつまみ出すと、迷うこと無く破壊した。
切り裂かれた彼女のうなじが、音もなく綺麗にふさがっていく。
サクラの顔に表情が戻った。
うろんだった瞳はしっかりと見開かれ、能面のようだった肌に柔らかさが現れた。彼女は数度辺りを見回すと、足元で痙攣しているロブを見た。
「ジュニア……残念だったわね。もっと違う形で再会したかったわ」
「知り合いだったのか? さあ、とか言ってたじゃねぇか」
するとサクラはジト目でハザマをねめつけた。怪訝な表情で口をとがらせ。
「あんた誰?」
「オイオイ。そりゃ無ぇだろ。ていうかなんで廓言葉じゃねーの? なんか性格も可愛くないんだけど」
「余計なお世話よ。廓言葉ってことは日本に居た頃の記憶ね? ちょっと見せてもらうわよ。……ああ、なるほどね。で、わたしを解放してどうしようっての?」
「別に。好きにしろよ。ただ本来アンタには必要ないはずのメモリーチップが埋まってるから気になっただけだ。自分の身体で試してたんだな『メメント・システム』を」
「そ。ほかで人体実験するのも気が引けるしね。記憶の譲渡もシステムを介しての方が楽だったのよ」
「それで調子こいてチップの記憶スッカラカンになるまで知識バラ撒いてたと。おバカさんだねー」
「うっさいわね! なんか夢の中のわたしと接する態度違うくない?」
「日系人の血がそうさせるのか、『ありんすバージョン』のアンタの方が可愛かった」
「うきーっ!」
ふざけ合うふたりだったが、もう一度だけロブに目をやると顔から笑みを殺した。
サクラは車椅子から身体を起こし窓辺へと近づいた。
眼下には窓一面に広がる摩天楼。闇夜に浮かぶ光の海原。
「で?」
振り向きざまにハザマへ問うた。
「でってなに?」
「今世紀最初の魔法使いになったご感想は?」
予想外の質問にハザマの目がまん丸くなる。「ああ」とはにかみながらつぶやくと、何処からか取り出したタバコを一本くわえ、パチンと指を鳴らした。
ほのかに灯る柔らかな炎。紫煙をくゆらし、ため息ひとつ。
「ま、タバコは吸いやすくなったわな」
九龍の闇医者・了
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