第三章 そんな、夢をみる 6
誰かが泣いている、と思った。
目を開けた先には知らない天井が広がっていた。
「——……どこだ、ここ」
身体が鉛のように重たい。頭を動かして、視線だけで部屋の中を探る。室内にも見覚えはないし、誰もいない。ただ、窓を雨粒が叩いているのが見えた。雨は続いているらしい。
ベッドの隣に置かれた机に置かれた銀時計をぼんやり眺めながら、記憶を辿る。
そうだ。瘴気に呑み込まれて。エリスと脱出して。それで。
「……っ」
ばっと体を起こす。くらりとめまいがしたが、目を瞑ってやり過ごす。
ここは、ジニア・リンネリスの家だろうか。エリスはどこだろう。どれくらい眠っていたのだろう。
「お、起きたか」
いつの間に現れたのか。ひょいっとジニアが扉から顔を出した。
「気分は?」
「え?」
「お前に何があったのかは聞いている。あいつが処置したらしいが、違和感はあるか?」
ぼんやりした頭で、医者みたいだなと思った。
「医者だ」
そうだった。
「あ、エリスは?あいつはどうしてる?」
「買い物に出ている。もうすぐ戻るだろ。で、調子は?」
「大丈夫だ」
そうか、とジニアが水の入ったコップを渡してくる。受け取ってごくごくと飲み干した。
と、扉が開いてひょいっとエリスが顔を出した。体を起こしているアスタを見遣り、思いっきり顔を顰めてみせる。この馬鹿、と書いてあった。
「おい顔、顔」
「何かなこの馬鹿。おはよう」
「おはよ……いはいいはい、ひょ、ほら……つねるな!」
容赦なく頬を引っ張っていた指が離れていく。ふん、と鼻を鳴らしたエリスがベッドの隅に腰かけた。 ジニアは窓際に置いてあった椅子を引っ張ってきている。
「体調は大丈夫?」
「おう」
「なら、このまま説明するね。あれからどうなったか、気になっているでしょ?アスタが寝ていたのは一日。瘴気については、軍の東支部から声明が出た。カリプタスは半分が瘴気に呑まれて、今も拡大中。避難指示が早かったおかげで住民への被害は少ないって」
本当かどうかは知らないけど、とエリスが肩を竦める。内心アスタも同意する。実際の数よりも低く公表することは、よくある話だった。
「カリプタス周辺の通行止めは続いている。シオンに連絡して、僕たちが無事だってことは伝えてあるよ。電話口で話したけど、アミは元気そうだったから安心して。さて、これくらいかな。他に聞きたいことはある?」
少し考え、首を横に振る。欲しかった情報は貰った。
なら、とジニアが手を上げた。
「お前ら、なんで瘴気の中で平気だったんだ?」
お前らといいながら、ジニアはエリスを見ていた。アスタも友人に視線を向ける。
後で説明すると言われてはいたが、そんなタイミングもなくここまで来てしまった。とはいえ、一晩アスタが寝ていたのならその間に説明しているのかと思ったが。
「お前が起きてから一緒に説明するって言われたんだよ」
この人は心が読めるのかもしれない。自分がわかりやすいだけの可能性は一旦横に置いておく。
ジニアの視線を受けたエリスは、少しだけ困ったように眉を下げて、苦く口元に笑みを載せた。何かを選ぶように手を握りしめて、開いて、それからその手を自分の胸に当てた。
「ここに、刻印式があるんだよ。なんというか、その、瘴気を弾くというか、影響を受けない刻印式が。僕が触れている人も、同じように瘴気に侵されないのかはわからなかったから、アスタが無事で本当に良かった」
瘴気の中で、彼の胸元が淡く発光していたことを思い出す。あれは確かに、術具が発動するときの光によく似ていた。だが。
アスタの疑問を、怖い顔をしたジニアが口にした。
「人体への刻印は禁じられている。有機体は刻印に耐え切れず、発狂してしまうからだ。お前は…」
「仕方なかったんだ。必要な処置だったんだと思う。これがなければ、僕は死んでいたんだろうから」
その顔に悲壮感はなかった。彼はどこまでも凪いでいた。
「そうじゃない。——お前は、平気なのか」
「平気だよ。瘴気に触れる機会なんて早々あるもんじゃないからね。副作用もないよ。昨日はちょっと疲れたけど」
おどけるような口調で、エリスは朗らかに笑う。
言いたいことはあるのだろう。聞きたいことはあるのだろう。けれど、ジニアはそれ以上何も言わなかった。アスタも、何も言わなかった。言っても良いことと、聞いても良いこと。今は正しく選べると思えなかったから。
ごめんね、と小さな声がした。どうしようもないことで泣きわめく子どもに謝る大人のような、ぽつりと落とすような言葉だった。
ちがう。謝らせたかったわけではない。けれどアスタが何かを言う前に、エリスは表情を切り替えてしまっていた。
「それから、伝えておかないといけないことがあるんだ」
はい、と紙がベッドの上に置かれる。見覚えがあると思ったら、カリプタスでアスタが書いた地図だった。覗き込むと何やら線が引かれている。
「これは?」
「龍脈の流れ。アスタにはイヴェールで見せたでしょ?覚えている範囲だから曖昧なところもあるけど」
「龍脈?なんだそれ」
「大地に流れる、人間の霊脈みたいなものだよ。知らない?」
「ああ、噂は聞いたことある。それで、これがどうしたんだ?」
エリスとジニアが話している横で、手書きの線を辿っていたアスタは、あ、と思わず声を漏らした。
龍脈の流れと、アスタ自身が記した日付の推移が一致している。察したのか、そうなんだとエリスが頷いた。
「多分偶然じゃないと思う」
「だが、ここは?コルチカム。十二年前か。犠牲者が多く出たんで覚えている。ここは龍脈には沿っていないが」
確かに、とアスタも地図を辿る。
「これは龍脈でも大きな流れだから。木の枝も大きな幹とそこから分かれた枝があるでしょ?書かれていないだけで、細い龍脈が流れてるんだと思う」
「へえ、エリス詳しいな」
「まあ、それは今関係ないんだけど」
「へえ!?」
「コルチカムの瘴気は、自然に発生したものじゃないってこと」
何を言われたのか、本気で分からなかった。
言葉の意味を呑み込む前に、間の抜けた声が出た。
「——は?」
「アスタ、コルチカム出身だったよね。君にも知る権利がある。だけど」
ちらりとエリスがもう一人の方へと視線を向ける。視線を受けたジニアは、ああ、と両手を上げた。銃口を突き付けられた人みたいに。
「はいはい。シオンからの紹介じゃ足りなかったか?」
信頼の話だ。
「そうだね。この話に限っては。だってあなたは、軍人の身内だ」
「ああ、ルードに会ったんだっけか。あいつ元気だったか?」
話について行けていないアスタをよそに、昨日一晩で随分と距離を縮めたらしい二人がぽんぽんと言い合っている。ちょっと寂しい。
「あ、ごめんごめん。この人、ルード・リンネリスの親なんだって」
「血は繋がってないけどな。おい、言っておくが連絡は取ってないぞ。こっちから手紙を出しても返信ひとつ寄越しやしねぇんだから」
「へえ、反抗期?」
「単に嫌われてるんだよ。言わせんなよ悲しいだろ。おい、何で惚けてんだ」
「あー……セージが反抗期?」
「違うんだよなぁ。違わないんだけど」
「大丈夫じゃなかったか?」
「いや。悪い、大丈夫だ」
考えてみれば家名が同じなのだから、関係者であることはわかっていた。だが、ジニアは恐らく二十代後半。親子と言われて動揺してしまった。養子ならまあ、有り得ない話ではない。
「もういいや。進まないし、話すよ。何かあったらシオンに告げ口する」
「さらっと怖いこと言ったなこいつ」
顔を顰めるジニアを無視して、エリスはまっすぐにアスタを見て。
「十二年前、コルチカムで発生した瘴気は自然のものじゃない。人工的……軍が仕掛けたものだ」
誰も何も言わない。沈黙の中、エリスは言葉を選ぶように何度か口の開閉を繰り返して。
「軍人の仕業だった。瘴気をぶちまけて、コルチカムを滅ぼしたのはあいつらだ。瓶をね、ひとつ持っていたんだよ。その中には、紫のもやが入っていた。あいつらは——あいつは、それを笑いながら割って、持っていた術具を発動させた」
押し殺した声が十二年前のことを語る。内容はなかなかに強烈で衝撃なものだが、それよりもアスタはエリスのことが気にかかっていた。
「あいつは、中に入っているのは瘴気で、術具は増幅術式だって言っていた。これは実験だって、嗤いながら言った。そう言って、止めようとした父さんと母さんを刺したんだ」
死人のように温度のない貌。そうだ。シオンの店で話をしていた時と同じだ。アミが巻き込まれた実験について話をしていた時の凍てつくような眼差しが、今もそこにあった。
「真っ赤なナイフを持って、あいつらは仕方がないことだと言った。これは正しいことだと言った。瘴気は一瞬で広がって、僕は瘴気の中に取り残されて、それで」
「エリス」
は、と口を噤み、迷子のような表情で顔を上げた友人を見て、ああと思う。淡々とした語り口が、逆に痛々しかった。
エリス、ともう一度呼びかける。話過ぎたと書いてある顔に手を伸ばし、さっきのお返しとばかりに頬を摘まむ。ぐいーっと伸ばしてみる。案外楽しい。
「……なに」
「いいや。話してくれてありがとう」
なぜ、話してくれる気になったのかはわからない。言葉にすることも痛かっただろうに。アスタは知る権利がある、エリスはそう言った。アスタが瘴気に呑まれた日に、コルチカムにいたと伝えたからか。父と友だちを亡くしたと、伝えたからか。
誠実な男だと思っていたが、そうか。——そうか。
昏く澱んでいた瞳に光が戻る。ぱちりと目を瞬かせた彼は、まるで親に叱られ損なった子どもみたいな顔をしていた。
「エリスは、あの瘴気の中にいたのか?」
「……そう、だよ。捕まらないように息を潜めて、あいつらが逃げていくのを見てた。人の気配がなくなってから、町の外に逃げたんだよ」
瘴気の中のことを思い出す。先の見えない濃く、深い霧。じっとりと肌に纏わりつくような空気。あんな恐ろしい場所に、まだ幼かったエリスは取り残されたのか。彼には見えないように拳を握りしめる。
「子どもの頃のことを、覚えていないって言ったでしょ。僕が覚えているのはね、アスタ。あの時のことだけ。両親の顔と、僕の名前を呼ぶ声。それから、両親を殺した奴らの顔だけなんだ。他のことは何にも覚えていない。絶対に許さないって決めて、何度も何度も思い返した。だからきっと、思い出を全部塗り替えちゃったんだろうね」
「——そうか」
ふざけている。ぎり、と唇を噛みしめた。エリスはずっと、軍に対して嫌悪には収まらない憎悪を示していた。彼が裡に握りしめた刃の気配を、アスタは感じていた。ただ、彼は感情を口調に滲ませながらも、刃を振り下ろそうとはしなかった。いやまあ、ヤフラン・リリタールを叩きのめしていたような気はするけれども。アスタなら多分、ヤフランの言い訳を聞いた瞬間に銃弾をぶっ放していた。
黙って話を聞いていたジニアが、ゆらりと立ち上がってエリスの頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。油断していたのか、それとも気を許したのか、エリスは存外素直に撫でられた。
あなたは。どこか幼い口調が尋ねる。
「信じるの。こんな話」
ジニアの黒色の瞳がふっと緩む。子どもを安心させる、大人の眼差しだった。
「しんどかっただろう。——頑張ったな」
ひゅ、とエリスの喉が鳴るのを聞いた。そっとアスタはエリスの手を取る。ややあって、握り返された。
エリスは泣かなかった。唇を噛みしめて、痛いほどに手を握りしめて。それでも、一筋だって涙を零さなかった。それを、強いとは思えなかった。ただ、悲しいと、そう思った。
罵詈雑言並べたくなるところをぐっと抑える。今言うべきはそれではない。友人の手を引く。こっちを見て、と言う代わりに。
「お前が、生きていてくれて、よかった」
生きて、あの雨の日に出会えて、よかった。
あ。
と、エリスが小さく息を零した。ぐっと何かを呑み込むように眉を寄せて。泣き顔と笑顔の真ん中みたいな表情を見せて。それから噴き出した。けらけらと、からからと、肩を震わせて彼は笑う。
呆気にとられたアスタも、つられたように笑いだした。何故エリスが笑い出したのかはわからないが、笑っているのだからまあいいかと思った。
「まったく。君は本当に、そういうところどうかと思う」
「何がだよ」
なぜ呆れられているのかわからない。憮然としているアスタの頭も、ついでとばかりにジニアに撫でられた。だから、何故。ひとしきり撫でて満足したのか、ジニアが椅子に戻っていく。腕と足を組んで、仕切り直しとばかりに鼻を鳴らした。
「軍が瘴気って脅威を調べて、対抗手段を得ようとするのはおかしなことじゃねえ。事実、ウィスタリア国軍は瘴気の研究を行っていると公表している」
だが、と大人である彼は続ける。吐き捨てるように。
「瘴気を消す方法と利用する方法。本当はどっちを研究していたんだかな。……十二年前だったか。当時は戦時下だった。もし、瘴気を兵器として利用出来たなら、敵を殲滅し、敵意を削ぐことができる。戦後にも、抑止力として利用できただろう。敵を倒す、国を守る、全ては正義のために。そんな言い訳で、どんな非道でも正当化できると信じる馬鹿はどんな時でもいるもんだ。愚か者は決まって誰かを犠牲にする」
ぞっとするほど冷ややかな声だった。
「十二年前の時点で、軍が瘴気を利用する方法を持っていた。それがどんな方法かは、考えても仕方がねぇから置いておくとして。あのウィスタリア国軍が、その方法を今まで使わなかったとは思えねぇんだが」
その言葉にはっとした。一年前のタンジーのことを思い出したのだ。ずっと不思議だった。発生した瘴気が、何故突然消えたのか。軍は何故、そのことをひた隠しにしていたのか。答えを知っているであろうエリスを伺うと、彼はこくりと頷いた。
「一年前のタンジーでの内乱。アスタの話を聞いて、多分そうじゃないかなって思っていたんだ」
「タンジー?ハイリカムとの戦争か。何かあったのか?」
一人、事情を知らないジニアに軍が秘匿した真実を手短に伝える。元々険しかった表情がさらに強張っていく。おぞましいものを見たような眼差しを大きな掌で隠して、天井を仰いで深々と息を吐く。
「……もうあいつらぶっ潰すか」
「いいね。手伝うよ」
「お前ら出来そうなのが怖いな」
多分三日もたない気がする。それはともかく。
「タンジーで瘴気が消えたのはなんでだと思う?」
「憶測だけど、クロコスって人が、増幅の刻印式を早い段階で破壊したんじゃないかな。……ああ、そうか。増幅用の刻印式がなければ、瘴気は広がらないのかもしれない」
「エリス?」
「だとしたら、コルチカムでは今も増幅の術具が発動していることになる。じゃなきゃ、人工的に膨れ上がった瘴気が、今も町を覆っているわけがない。タンジーの時のように、時間がかかっても消えているはず」
「待て、術具が十二年も発動し続けるわけねぇだろ。最初に注がれた霊力が尽きれば止まる。その筈だ」
だよな、とジニアに確認されて頷く。エリスに知識不足を指摘されたアスタだが、それくらいは知っている。
「それがずっと不思議だった。コルチカムの術具は、どうして今も発動し続けているのか。——これは推測だよ。いや、想像でしかないんだけどね」
予防線を張るようにそう言い置いて、エリスは続ける。
「さっきも言ったでしょ、コルチカムにだって龍脈の力は流れ込んでいる。ねえアスタ、覚えている?百年前に滅んだ東の国では、桜の木に刻印式を刻み、龍脈の力を利用して永続的に発動し続けていた。もし、コルチカムにも龍脈と繋がれる何かがあったとしたら?それが、術具を発動させ続けているとしたら?」
もう朧にしか残っていない町の記憶を引っ張り出す。あの薄紅の花がなかったことは確かだ。だが、もう十二年も前のこと。住んでいた家のことでさえ、曖昧にしか思い出せない。他に印象に残っているのは、よく遊んでいた線路が走る河川敷と、町の真ん中にあった湖。それくらいだ。
そういえば、と地図を覗き込んでいたジニアが切り出した。
「スリージエがなんで無事なんだ?これを見る限り、ガランサスから伸びる大きな龍脈は三本。北と西は瘴気が発生している。だが、西南。スリージエは無事だ。北と西の浸食にも差があるとはいえ、これは少し不自然じゃねぇか?」
「確かに。なんでだろう。エリス、わかるか?」
少し考えて、答えが出なかったのか、エリスが首を横に振る。それを見てジニアが投げやりに。
「シオンが何かしたんだろうな、そういうことにしよう」
「そんなわけ……え。エリス。そうかも、みたいな顔してる?あり得るのか?あの人何者なの?」
「まあ、その話は置いておくとして」
不自然なくらいに明言を避けて、エリスがアスタに向き直った。
「あともうひとつ。はっきりさせておきたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
「瘴気発生の規則性について、軍は気が付いていたと思う?」
「……わからない。龍脈の存在を知っていたとしたら、気が付いてもおかしくはないと思うが。それがどうかしたか?」
「あのねアスタ。僕たちはどうしてカリプタスにいたの?」
「そりゃあ、ルードに呼び出されて……まさか」
視界の端で、ジニアが形のよい眉を跳ね上げた。わずかに椅子から腰を浮かしている。
「ルードがお前らを嵌めたって言いてぇのか?」
「可能性の話だよ。瘴気の発生は偶然か否か。偶然ではなかったとして、ルード・リンネリスは利用されたのか。それとも彼の意思か。それを判断するには情報が足りないし、どちらにしても今何かが変わるわけじゃない。ただ、僕がもやもやしてるだけ。だから、はっきりさせておきたいんだ」
エリスが順繰りにアスタとジニアを見遣る。ルード・リンネリスの先輩と、育ての親を。
「ふたりの意見を聞きたい。僕よりも彼のことを知ってるでしょ。どう思う?」
エリスの問に、ふたりは示し合わせたように首を横に振る。
考えるまでもない。
「ないな。ルードが知っていたとしたら、先に避難誘導を始めてる」
「ねぇな。そもそもあいつに、服芸は向いてねぇよ」
そう、とエリスはあっさりと頷いた。
「わかった。ふたりを信じる。疑ってごめんなさい」
「いいや、構わん。俺たちもどっかで疑問に思っただろうしな」
ジニアは気にするな、というように手を振って。
「ところでエリス、さっきの話を聞いていて、ひとつ気になったことがあるんだが」
顔の前で振っていた手を止めて、指をひとつ立てて見せる。
「うん?どうぞ」
「子ども……アミと言ったか。その子に付けられた術具じゃ、瘴気は消すことはできないけど、瘴気の中で滞在できる。シオンはそう言ったんだよな?」
頷こうとして、はたと気が付いた。その話はまだジニアには伝えていないはずだ。
「なんでその話を知っているんだ?」
「ごめんアスタ、僕が話した」
アスタが寝ている間に、エリスが説明していたらしい。当然か。シオンが仲介に入っているとはいえ、お互いに信を得るにはある程度の対話が必要になる。訳ありを匿ってもらう形になっているのだし。ただ、ジニアに伝えたのはここ数日の経緯だけで、話せないことについては、話すわけにはいかないと黙していたという。例えば、瘴気の中で生存していた理由について、とか。
エリスは何度も説明するのが面倒だからと苦笑していたが、理由はそれだけではない気がする。彼の胸にある刻印式について説明するのなら、十二年前の出来事についても話さなければいけない。その話をしても良いか、エリスは見極めようとしていたのだろう。慎重になりながらも、ジニアを追い出さずに話をしたのは、巻き込んでしまったから。やっぱり、律儀で誠実な男だなと思う。
「子どもの術具と、お前の刻印式は同じものだってことか?」
「違う。あの子と僕のこれは、同じものじゃない」
エリスはきっぱりと否定した。
「もし同じなら、アスタに教えている」
そうだろうなと思った。自分の刻印式のことについては話さなくても、どうにか伝えてくれていただろう。知らないふりはしなかったはずだ。
「……ごめん、実は僕自身、これの構造をちゃんと把握しているわけじゃないんだ。鏡でもないとわかんないし。まじまじと見てるわけにもいかなかったし。だけど、あの術具とは全く構造が違う。だから店でシオンが話をした時には驚いた」
瘴気の中にどれくらい滞在できるかの実証。シオンがそう言った時、エリスは凍てつくような眼差しで殺気をまき散らしていた。そうだ。あの時彼は、ぞっとするほど美しい氷の相貌で恨みを吐き捨てていたのだ。
「——エリス、大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
まあ、こいつはそう言うだろう。強がりでも、意地でもなく、事実として大丈夫だと笑う。今までそうやって生きてきたのだろう。
徐に手を伸ばしたジニアが、またエリスの頭をくしゃくしゃと撫でる。その手を、彼はやっぱり振り払わなかった。だから何で撫でるの、とぼやく声は、ふてくされたような、気まずそうな——照れているような、面映ゆそうな音をしていた。
「もう。いつまで撫でてんの?」
「悪い悪い。良い形してんな」
「良い形ってなに…。そうだ、アスタ。あとでこれ、紙に書きだしてくれる?自分じ
ゃ無理だから」
これ、とエリスが自身の胸を指して言う。
「——いいのか」
見られてもいいのか、とか。知られてもいいのか、とか。アスタが抱いた不安を、エリスはからからと笑い飛ばした。
「いいよ、もちろん」
と、その時ブザーが鳴った。
反射的にアスタとエリスが身構える。それをジニアが目だけで宥めた。
「患者だ。ここにいろ」
そう言いながら立ち上がったジニアが、扉の向こうに消えていく。わずかに開けていった隙間から、とんとんとんと階段を降りる軽やかな音の後に、ジニアと訪問者のやりとりが微かに聞こえてきた。若い女性だ。
娘が熱を出して。診てもらえませんか。どこか焦ったような高い声に、落ち着いた声がいいぞと返す。
そこまで聞いて、エリスが扉を閉めた。
お互いに言葉を探すような沈黙が落ちる。先に口火を切ったのはエリスの方だった。
「体調は、本当に大丈夫?」
「おう。問題ないぞ」
めまいはもうないし、動悸もない。そういえば血を吐いた覚えがあるが、今は吐き気も不快感もなかった。
「一応霊脈は整えたけど。…アスタ、わかっていると思うけど、もう術具を使ったらダメ。身体にどんな負担が掛かっているか。内臓だけじゃない。脳にだってどんな影響がわからないんだよ。死ななきゃ良いって話じゃない。後遺症が残るかもしれない」
彼は真剣だった。怖いくらいに。心配されているのだとわかった。してくれているのだと、ちゃんとわかったから、アスタは茶化そうとした言葉を呑み込んで、神妙に頷いた。
死ぬことになったとしても。その選択は今も変わらない。変えるわけにはいかない。けれど。
アスタの裡には、握りしめたままの拳がある。答えのない疑問がある。——答えを、出さなくてはいけないのかもしれない。それが、今この時ではないとしても。
「——わかった。ちゃんと、覚えておく」
「うん」
覚えておく。こうして心を砕かれたことを。優しさを貰ったことを。それはきっと、忘れてはいけないことだ。
そういえば、真正面から心配されるのは随分久しぶりだと気が付いた。父と暮らしていた頃は、落ち着きなく傷ばかりこさえていて。小言を貰いながら手当して貰っていたことを思い出す。あの時感じた、居心地の悪さと胸を擽られるような気持ちも。
ああ、そうだ。そういう日々も、確かにあったのだ。
「不調が出たらすぐに教えること。僕にでも、ジニアにでも」
「了解」
「……あのね、アスタ。もう一つ考えていることがあって。すごく、突拍子もないことなんだけど」
「おう」
「考えがまとまったら、聞いてくれる?」
「もちろん」
突拍子もない話だって、意味も中身もない話だって。いくらでも聞くし、聞いてほしい。話がしたいと思った。自分とどこか似ていて、だけど違うところだってちゃんとある彼と、いろんな話がしたかった。 彼と話していたら、昔のことだって穏やかな気持ちで思い出せるような気がした。
でも、そのために、アスタにだって話しておかなければいけないことがある。
「アスタ?」
「俺さ、軍から逃げるのに本名だとまずいから、偽名を名乗ってたんだ」
「——うん」
「エーデルワイズは父の家名だ。アスタは父の名前から貰った」
エリスは多分、気にしないだろう。だからこれは、アスタの意地だ。
他の誰かの口からバレてしまうより、自分の言葉で名乗りたいという。
「ティアン・レオント。——それが、俺の本当の名前だ」
エリスは伝えた名前を静謐な表情で受け取った。形の良い唇が音もなく動く。自分の名前を呼んだのだと気が付いて、照れたような気持ちになる。
「うん。良い名前だね。そっちで呼んだ方が良い?」
聞かれて、少し考える。それから、首を横に振った。
「アスタで良い。その方がしっくりくる」
そっか、と笑ったエリスが、困ったように続ける。
「——僕もね、本名じゃないんだ。エリスは自分で付けた名前。ユーフォルビアはあの子たちに貰ったんだ」
「軍から逃げるためか?」
こくん、とエリスが頭を動かす。迷子の子どものような動作だった。
「……ごめん。まだ、名乗れない」
「いいさ。何て名乗っていようと、お前はお前だろ」
アスタはただ、自分の口で名乗りたかっただけだから。いつか知られてしまうことなら、自分の口で。
ごす、と横腹の辺りを弱い力で殴られた。
「いきなり何すんだよ」
「君さ、ほんとにさ、どうかと思う。ほんとに」
「意味わかんねぇって」
じゃれあっていたところで、ジニアが戻ってきた
「なんだ、仲良いな」
「羨ましいだろ」
「おっと、そう返すのか。……エリス、飯頼んでいいか」
「はーい。アスタ、軽めでいい?」
「手伝うか?」
「大丈夫。休んでて。ジニア、食材貰うよ」
「おう」
よ、と掛け声と共に立ち上がり、エリスが部屋を出ていく。それを見送って、部屋に取り残された二人は顔を見合わせた。ジニアがどこか楽しそうな表情で。
「仲良いな、お前ら。長い付き合いなのか?」
「いいや、知り合ったばかりだ。どうしてそう思ったんだ?」
「そうか?あいつみたいなのは、簡単に誰かと距離を縮めねぇだろ。お前もだが」
ジニアがさっきまでエリスが座っていたベッドの端に腰を下ろした。小さくあくびを零して、ぐぐ、と伸び。
「まあ、時間と仲の良さは比例しねぇか」
よかったな。
と。そう言ったジニアに揶揄いの色はなく。ただ、うんと優しい顔で微笑まれたから。
アスタは素直に頷くことにした。
——ああ、そうだ。
「俺も、そう思う」
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