第一章 今、青空の下 3

 ——この世界は、呪われている。

 大陸に数多く存在していた国は、戦火の果てにウィスタリアというひとつの国にまとめられ、やがて毒の霧に侵された。

 多くの血を流し、多くの命を踏みにじり続けた代償に、呪詛に穢され続ける呪われた大地。

 それが、ティアン・レオントが生きる、ウィスタリアという大陸である。


「——はあ、そうですね?」


 人間には、刻印式という技術があった。

 先だっての戦争でも、たったひとりの術士が戦況を変えたと言われたほどに、その力は強大。

 けれど。

 瘴気と呼ばれるようになったその呪いに対して、人はあまりにも無力だった。瘴気に触れたものはたちまち呪いに蝕まれて死に至る。瘴気渦巻く地に近づくこともできない。

 多くの方法が取られたが、解決には至らなかった。毒の霧に侵された土地に人間が住むことはできない。自然に霧が晴れるのを待つほかないのが、偽りない現状だった。


「はあ、それで?」


 けれど住む土地を追われた民達は納得できない。できるはずがない。

 再び内乱など起こすわけにはいかない。国として、打てる手は打っているのだと、示さなければならない。


「そうですかね?」


 心底不思議そうに首を傾げて見せると、豪奢な椅子に座る紳士は愉快そうに言葉を紡いだ。


「建前というものは必要なのだよ。たとえ何の意味もなかったとしてもね」


 紳士——ハウレン・ナルキース。

 勤務終了時間ぎりぎりに召喚されたティアン・レオントを待っていたのは、中将の地位に就く男だった。現国軍総統であるヴィレンス・カーパス派の中心人物でもある。遠目に見かけたことはあったが、相対するのは初めてだ。

 国軍の重役がわざわざ呼び出して何の用なのか。表向き室内にはナルキースひとりだが、部屋の奥に数人の気配がある。たかだか大尉であるティアンひとりを相手に随分物々しい。よほど人に聞かせられない重要な話なのだろうか。わかりきった建前をつらつらと聞かされてなかなか本題に入らない。

 仕方なく、ティアンは口火を切った。


「——それで、なぜ私は呼ばれたのでしょうか」


 整えられた顎鬚を触りながら、ナルキースはゆるりと笑った。


「ひとつ、受けてもらいたい任務がある」

「任務ですか。内容は」

「セントラルからコルチカムまでの護衛任務だ」


 聞こえた名前に、肩がぴくりと揺れた。動きそうになる表情筋を気力で抑え込む。


「……コルチカム。東部の町ですね。瘴気に呑まれたままと聞いていますが」

「そう。瘴気浄化のための切り札。その輸送と護衛がお前の役目だ」


 一瞬耳を疑った。上げそうになった声を抑える。

 瘴気浄化。そんなことが可能なのか。ティアンの疑念と期待を見て取ったのか、ナルキースが笑みを深くする。


「可能かどうか、これから実験するのだ。この実験が成功すれば、この世界は救われる」


 大仰な口調に、ティアンは即座に抱いた期待を切り捨てた。

 実験。ろくなものではないだろう。——だが、もしかしたら、それは。

 声音に焦りが滲まないよう、努めて冷静に言葉を探す。


「輸送と護衛、と仰いましたね。切り札とは何です」

「受けてくれるね?」

「……そもそも、ここに一人で呼び出した時点で断るという選択肢はないのでしょう。何故選ばれたのかは理解できませんが」

「君を評価しているからだよ。軍の英雄、ティアン・レオント大尉」


 からかうように紡がれた肩書に、ティアンは眉を寄せた。その硬い表情をみて、ナルキースが愉快そうに声を立てて笑う。


「英雄は不満かね、大尉」

「——いえ。失礼しました」


 息をひとつ吐いて気持ちを切り替え、先を促す。


「それで、何を運べと」

「実験と言っただろう。実験体。子どもだよ」

「——は?」


 何を言われたのか、一瞬理解できなかった。


「子ども、ですか?」

「そう。切り札だよ」

「仰っている意味が、わからないのですが」

「本当に?」


 ナルキースが眼鏡の奥の瞳を鋭く細める。見透かすような視線と試すかのような笑み。そこで、ティアンは悟った。

 なるほど、やはりバレていたか。

 跳ねる心臓を抑え、答えるように唇を吊り上げて笑って見せる。


「ええ、まったく」


 内心の焦りをおくびにも見せず、笑みを崩さないティアンに、ナルキースは視線を緩めて飄々とした笑みに切り替えた。

 狸め。


「ならば説明しよう。——実験体には、瘴気を対象とした浄化式を刻んだ術具を装着してある。ただ、任意での発動が困難でね。瘴気に反応して起動するようになっている。術士の安全を考え、実用は禁止されていた」


 術具は通常、術士が霊力を通すことで発動する。霊力を使いすぎれば、術士の命に関わるからだ。そもそも、瘴気に触れれば人は無事ではいられない。刻印式が瘴気を浄化するのが早いか、術士が瘴気に侵されるのが早いか。人体を蝕む瘴気を術式は効果範囲としているのか、それとも空気中のものだけなのか。

 そもそも、刻印式が正しく効果を発揮するのか。

 そんなこと、実際に使用して見ないとわからない。


「——けれど、それで良いのだろうか?近年、瘴気の発生は報告されていない。だが、お前も調べていたのだから知っているだろう。周期を考えれば次の発生まで猶予がないのだ。そして、瘴気に侵された土地はまだ我々人間の元へ戻ってきていない。大地のすべてが奪われる前に、我々は早急に対処しなければならないのだよ、レオント大尉」


 なるほど。

 生死を保障できないのだから、死んでも構わない者を犠牲にすれば良い。

 そういう、ことか。

 理解した瞬間、脳が沸騰するかと思った。


「生贄か」


 声音に滲んだ感情に気付いているだろうに、権力闘争を勝ち抜いてきた紳士は眉ひとつ動かさない。ティアンの若さを面白がるような視線を向けてくる始末だ。


「実験だよ、大尉。今回成功しなくても良い。何度失敗しようと、最終的に世界を救えれば、それで良いのだから」

「本気でそう思っているのですか。人の命をなんだと…ましてや、子どもを」

「思っているとも。言い訳も綺麗ごとも結構。そんなもので世界は救えない。少ない犠牲で多くを、世界を救う。これもひとつの正義だろう」

「——俺が実験に協力すると、本気で思っているのか」


 一切の敵意を隠さずに問う。最低限の体裁すら崩れ、軽蔑すら浮かべているティアンへ、ナルキースは一切表情を動かさない。

 代わりに、ことりと机の上に銀の腕輪を置いた。

 ——術具だ。


「これを装着しなさい。霊脈を乱す刻印式が刻まれている。繰り返せば、命の保障はない。任務完了後に解除方法を教えよう。保険、というやつだよ。お前が裏切らないように」


 脅しだ。首輪と言い換えてもいい。

 了承すれば、ティアンはこの実験の共犯者になる。今後自由に動き回ることはできない。弱みとして握られ、都合よく飼われる。了承しなければ、ティアンはここで消されるのだろう。訪室時にはおざなりだろうが隠されていた気配が、わざとらしく漏れている。この場で負ける気はしないが、応戦すれば即座に軍全体が敵に回る。

 ティアンが嗅ぎまわっていることに、薄々気付かれているだろうなとは思っていた。だがまさか、こんなにも早くに手を打ってくるとは。これ以上余計なことをするなという牽制。目障りな相手に首輪をつけようという思惑。

 何が評価している、だ。くそったれ。

 渦巻く激情のまま、理性を無視して体が動きそうになる。危険と判断したのか、隠れていた気配が飛び出そうとして。

 窓の外で、空が唸る音を聞いた。

 次いで、雨粒がぽつぽつと窓を叩く。

 ——ああ、と思考の隅で思う。

 雨だ。

 沸騰していた頭が、急速に冷えていくのを感じた。無意識に起動しかけていた霊力を閉じる。ティアンの殺気に応じて高まっていた気配が、揺らぐように薄まった。様子を見ていた中将は意外そうに片眉を上げる。


「——ハッ」


 喉の奥で嘲るように低く笑い、そして一歩で机との距離を縮めた。引っ手繰るように銀の術具を攫う。

 礼儀もくそもない態度だが、咎めはなかった。むしろ楽しそうに微笑んでいる上官に見せつけるように右腕に術具を装着し、ティアンは精一杯の侮蔑を込めて吐き捨てた。


「——精一杯務めさせて頂きますよ」

「お前が賢明でよかったよ」


 敬礼もせずにティアンは踵を返す。追って連絡する、と告げる声を背に、上官室を辞した。

 かつかつ、と靴音を立てて廊下を進むティアンを、追いかけて来る気配がある。先ほど隠れていた者達だろう。監視のつもりか。

 正面から歩いてくる背の低い茶髪の少年とすれ違い、ティアンは歩く速度を上げた。慌てたように付いてくる気配には決して見られないよう、気付かれないよう、歪みそうになる口元を引き締める。

 怒りに、ではない。悔しさでもない。

 歪む唇に浮かぶそれは、会心の笑みだった。

 ——答えを得た。

 この腕輪は想定外だが、構わない。知りたかったことは大体わかった。充分だ。

 けれど。

 多くのために、何も知らない子どもを犠牲にしろ。

 自分の命惜しさにそんな命令に従う人間だと彼らに思われていたという事実が、喉を掻き切ってしまいたくなるほどに腹立たしかった。

 握りしめた手のひらに血が滲むのも構わず、ティアンは足を進める。

 歩いて、歩いて。身体に染み付いた習慣のまま寮の自室へと辿り着き、着替えもせずにベッドへと飛び込んだ。

 猶予はない。これからのことを考えなければいけない。何を目的とするのか。何を優先すべきか。

 だけど今は、泥の様に眠ってしまいたかった。


「は————ぁ」


 降り出した雨は激しさを増している。窓を叩く水音を聞きながら、ゆっくりと闇に溶けていく意識の隅で、もう胸を張ることはできそうにないなと、そう思った。



それが、数日前のこと。

それから。

ティアン・レオントは引き合わされたアミという少女と共に、襲撃者からも、軍からも逃げ出した。

地位を捨て、名前を変え、ウィスタリア国軍を敵に回して。

——そうして、アスタ・エーデルワイズはここにいる。


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