第一章 今、青空の下 4
ふっ、と目が覚めた。
ぱちぱちと火種が弾ける音がする。毛布にうずめていた顔を上げると、焚火の向こうに片膝に頬杖を付いた青年——エリス・ユーフォルビアがいた。
橙色の光に照らされる端正な横顔を、何とはなしに見つめる。
アスタと同年代、もしくは少し年下に見える彼は、弟であるセージ・ユーフォルビアとスリージエに向かう途中だったのだという。コロナリアには武装集団オレアンダーがあり、国営の交通機関は働いていない。そのため、直接スリージエに繋がる鉄道はなく、一度カジェラを経由しなければいないのだ。治安も決して良いとは言えないコロナリアに住んでいるということは訳ありなのだろうと察し、アスタはそこで追及をやめた。
ともあれ、ユーフォルビア兄弟は駅へ向かう途中に、アスタ達の騒動に遭遇したのだという。
あの殺気に気が付いて警戒していたところに、白昼堂々行われた軍の武力行使。弟に隙をみてアスタ達の荷物を回収するように伝え、兄は軍人を追いかけた。軍が関わっていると知っていながらも、避けるでもなく巻き込まれに来たその理由を、エリスは子どもがいたからだと肩を竦めた。
——子どもを殺そうとしている大人と、守ろうとしていた君。どっちの味方をするか、考えるまでもない。君だって、そうでしょ?
まっすぐ向けられた瞳と、揺らがぬ声音。自らの選択は間違いではないと信じて笑うその姿に、アスタは反論の言葉を失った。
そうだなと、胸を張って頷けたら、どんなに良かっただろうか。
表情を曇らせたアスタに何を感じたのか、エリスはひとまずの同行を申し出た。それにはっきりとした返答を返さないまま、アスタ達は雨が止んだタイミングで森を抜けることを諦めて野営を選んだ。幸い、アスタもユーフォルビア兄弟も野営には十分な装備だったので。
火の番はアスタとエリスが交代で行おうと決め、まずはアスタが休むことになったのだが。
どうしよう。いつ眠ってしまったのか、記憶にない。
悶々としていたら、アスタが起きたことに気が付いたのか紫の瞳が向けられた。
にっこりとエリスが笑う。動作に合わせて、耳飾りがしゃらりと揺れた。
「おはよう。よく眠れた?」
「………なんで、起こさなかった」
「交代の時間、決めてなかったからね。まあいいかなって」
焚火の向こうでくすくすと笑いながら、疲れてたんだね、と掛けられる声は優しい。まるで年下を気遣う年長者のような声音。
アスタは頭を抱えた。そう言えば、アスタに先に休みなよと告げたのはエリスだった。交代時間のことを考えていなかったのはアスタの落ち度だが、何となくそれもエリスの思惑だった気がしてならない。アミと共に逃走を始めた日からまともに寝ていなかったとはいえ、エリスに促されるまま眠りに落ち、寝こけてしまうなんて。気が緩んでいる。
まだ、彼らが敵ではないと決まったわけでは、ないというのに。
だというのに。なぜか彼らを警戒できない自分がいることに、アスタは気が付いている。
「もう少し寝る?」
「いや。今更だけど交代しよう。休んでくれ」
「僕は大丈夫。徹夜には慣れているからね。起きるんなら、少し話をしよう。僕に聞きたいことがあるんでしょ?」
「それは……そうだな」
ひとつ頷いてから居住まいを正そうとして、小さく聞こえてきた寝言にはっとする。
「——……まま、ぱぱ」
アスタの傍らで眠っていたアミが小さく身じろいだが、目を覚ますことはなくすぐに寝息が聞こえてきた。その腕に大事に抱えていた傘は、すでにエリスに返却されている。
出会ってから今まで、アミは一度も家族について話さなかった。そんな余裕がなかったともいう。気丈に振舞っていたが不安を抱えているのはアスタにもわかっていた。
眦に浮かんだ涙をそっと拭う様子を、焚火の向こうでエリスが穏やかな眼差しでみていることに気が付き、おほんと咳払いをひとつ。
ふふ、と静かに笑うエリスの傍らではセージが眠っている。渋い顔をして焚火から離れたところで眠ろうとしていた弟と、寒いからもうちょっと近づいてよと笑って手招いていた兄の姿を思い出す。
彼女たちを起こさないように声を潜めながら、アスタは切り出した。
「もう一度聞いていいか。——なぜ、俺たちを助けた?」
「ふふ、直球だね。答えは同じだよ。子どもが殺されようとしているのを、見て見ぬ振りしたくなかったから。……うん、まあ。正直に言うとね。最初は様子をみるためだけに追いかけたんだよ」
話しながら、足元に集めていた木の枝を火に投げ入れる。
「いくら軍人とはいえ、警告も無く町中で発砲。相手は小さな女の子を連れている同い年くらいの男。気になるのは当然でしょ?曲がりなりにも国民の為を謳う組織の人間が、小さな女の子を殺そうとしていた。あれは威嚇射撃じゃない。だから助けようって思ったんだ」
「軍に追われている俺たちが、悪人だとは考えなかったのか?」
「そうだね、悪いけど君だけなら助けなかった。その子が、アミがいたから助けたんだ。どんな事情があるにしても、大人が子どもを傷つけていい理由なんてないからね」
まるで、背中に添えた手でそっと押すような優しい声だった。星に願いをかけるような表情だった。
そうだったら良いと、そうでないと知りながら祈るような、そんな言葉だった。
「………」
「それにね」
悪戯っぽく目を眇め、肩を竦めて続ける。どこか真摯な口調で語った言葉を上書きするように。
「僕、軍人って嫌いなんだよ」
「……多分、お前の顔は覚えられたぞ」
「だろうねぇ」
困ったね、と笑う彼は、これっぽっちだって困っているようにはみえない。
出逢ってから今までの短い時間ではあるが、穏やかな空気を崩さず、胡散臭すら感じさせるほどに笑みを絶やさないエリス・ユーフォルビアの姿に、ある種の頼もしさを感じるのは確かだった。
「だからまあ、君たちに同行させてくれると嬉しいかな。どうせ僕たちが戻らなくても、騒ぎにはならないだろうし」
ほぼ初対面。助けられたのは事実とはいえ、今はどんな相手でも警戒して然るべき。わかっている。
だというのに、アスタが彼を警戒しきれないのは、なぜか。わかっている。黒い傘を手渡されたその時から、エリスがアミをただ気にかけていることが伝わってくるからだ。
そして、アスタは気が付いている。軍人であり、人の気配には敏感なアスタがぐっすりと眠れていたのは、エリスが気配を潜め、身じろぎひとつにも気を配っていてくれたからだと。
深々と息を吐き、アミを起こさないように気を付けながら立ち上がる。
そして、強気に笑みを浮かべて手を差し出した。
「——お前が何かを企んでいても、一緒にいた方が警戒しやすいからな」
取って付けたような建前に、エリスがおかしそうに笑いながら手を取る。
握ったその手は、細身には見合わない程に分厚かった。
「ふふ、決まりだね。よろしく、アスタ」
「ああ、よろしく頼む」
それから。
火種の音に搔き消されそうなほど小さな声で、ふたりの青年は会話を続けた。お互いの事情に踏み込まないように気を付けながら、それでいて気負わず、軽やかに言葉を交わす。
夜の空に瞬いていた星が、溶けるように引き伸ばされた薄青に滲んでいく。
夜が明ける。
朝が来たのだ。
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