第一章 今、青空の下 5


 ルード・リンネリスが軍本部に呼び出されたのは、まだ朝早い頃だった。

 入室許可を得て会議室の扉を開く。


「——失礼します」


 敬礼するルードに、奥の机に腰かけていた金髪の女性が片手を上げた。


「よく来たね、ルード。朝早くにすまないね」

「スターチ―閣下」


 癖のある金髪を後ろでゆるく纏め、濃紺の軍服に身を包んだ女性。現総統ヴィレンス・カーパスの異母妹、キリカ・スターチ―である。軍本部の総司令官であり、前線で指揮を執ることもある女傑だ。現在ルードは彼女の指揮部隊に所属しているので、上司でもある。

 室内には焦げ茶色の逆立った短髪の青年がいた。先輩であり、同僚でもあるローダン・マングルス。資料をめくっていた手を止め、鋭い茶色の瞳がルードを映した。


「話は聞いているな?」

「はい」


 その連絡が入ったのは昨夜遅く。軍内ではルードが起動できる通信用の刻印式を通じて伝えられた話は、一概には信じられないものだった。


「——本当なのですか。先輩が軍を裏切ったなんて」


 かつての先輩、ティアン・レオントが軍を裏切って逃走。極秘裏に捕縛命令が出ているという。

 レオント先輩。彼と関わった時間はそう長くはないが、同じ術士としてルードの憧れの先輩であった。軍に所属する数少ない術士の中でも高い戦闘力を持つ、軍の英雄。


「表向きレオント大尉は極秘の任務に就いていることになっている。任務内容は公開されていない。捕縛命令も現総統派子飼いの暗部のみに下されている」

「それから、私が得た情報によると、実験が行われようとしていると」


 実験。不穏な響きに、ルードは眉を顰める。

 ローダンが手にしていた資料をルードへと渡した。


「まずは実験の内容を突き止める。元々、現総統派には怪しい動きもあったからな。加えて、ティアン・レオントの保護を。軍の暗部が動いている上に、ハイリカムの残党の残党も関わっているらしい。充分に気を付けろ」

「——はっ」


 現総統派は、総統の嫡子トレイト・カーパスを担ぎ上げている。彼はまだ十四歳。成人を迎えていない少年の後見を名乗りながら、利用して好き勝手しているわけだ。彼を傀儡だの人形だの言いたい放題言いながら、利益を得ようとしている大人たちのことをルードは心の底から軽蔑している。


「トレイト様は、このことをご存知なのでしょうか」

「いいや、知らないだろうな。あの子はまだ子どもだから」


 キリカが痛ましそうな表情を浮かべる。トレイト・カーパスには何の権限もなかったとしても、彼の名を担ぎ上げている以上、責任は彼が負うことになる。思うところはあるのだろう。

 これ以上、奴らに好き勝手させない。現総統派に探りを入れることは、上司であるキリカとローダンに止められていたが、今回の件で必ず真相を突き止めて見せる。

 意気込むルードを止めるようにローダンが頭を軽く叩いた。


「報告。あいつの部屋を調べたんだろう。何か出たか?」

「それが……」


 言い淀む。気付かれないように部屋へ忍び込むことは、なんだか悪いことをしているみたいだと思ったが、室内を見回してそんな考えは吹っ飛んだ。

 綺麗だったのだ。物がないわけではない。印象を言うなら、空っぽだと思った。

 まるで、要らない物だけ置いて引っ越しでもしたように。

 まるで、何かの準備のために整理でもしたかのように。

 残された机の上に置いてあったものについてローダンに伝えようかと悩み、けれどルードは口を噤むことを選んだ。


「——手掛かりになりそうなものは、何も」

「そうか。……ルード、お前は俺と来い。直ぐに発つ」

「了解。目的地は?」

「——クラッスラだ」







 アスタたちが森を抜け、整備されているのか怪しい道に出たのは、まだ朝と呼べる時間だった。カジェラではなく、セントラルから伸びているこの道は、クラッスラに続いており、時折車が抜かしていく。

 カジェラでの襲撃から一日をかけて、慎重に森を抜けた。アミの体力を考慮しながらの道のりだったが、追手の気配を感じることもなく森を抜けることが出来たのは幸いだった。この一日でアミもユーフォルビア兄弟に慣れ、セージに手を引かれて歩いている。

 兄にアミを気に掛けるように言われた時には高らかに舌打ちをかましていた彼だが、ぶつぶつと言いながらも細やかに面倒を見ていた。こけるなよ、ぶつかるなよ、車は避けろよ、とぶっきらぼうな声に、うん、うん、うん、と返すどこか弾む声。年が近いセージの存在でアミは大分肩の力が抜けた様子だった。

 彼らの後ろを歩きながら、アスタはそっと目を細める。その隣で、エリスがふふ、と笑みを零した。


「素直じゃないけど、面倒見はいいんだよ」


 可愛い弟を自慢する、兄の顔だ。


「反抗期ってやつだね」

「聞こえてんぞ!」

「ほらね?」


 ぎゃんぎゃん弟に噛みつかれても、兄の方は応えた風もなく肩を竦め、前見て歩きなよと声を掛けている。兄弟のいないアスタには、少し羨ましくなる光景だった。


「さて、アスタ。目的地はクラッスラだったね?」

「そうだ。距離を考えて鉄道を使いたかったが、難しいだろうな」

「カジェラは乗り継ぎの町だけど、この状況で向かうのなら、情報を得るためにクラッスラである可能性が高い。まあ、僕もそう考えるかもね。目的地が絞られるのなら、駅で待ち伏せされる可能性もある。かといって、徒歩で向かうには遠すぎるし、なによりクラッスラの手前は治安が悪化している」


 こくりと頷く。アスタが追われる切っ掛けとなった実験の内容は、カーパス派の極一部にしか公表されていない。故に、動かせる人員は少ないだろうと踏んでいる。詳細を伏せたまま追手が差し向けられる可能性もあるが、関わる人が増えれば秘密が漏れる可能性は高くなる。人の口に戸は立てられないものだ。子どもを利用した実験なんて、敵対している陣営どころか世間に知られれば終わりだ。どうでも良いが、バレてしまうとマズイとわかっていることを何故やるのだろう。どうでも良いが。

 つまり、人海戦術が取れない以上、クラッスラで待ち伏せされている可能性は高い。本来ならば警戒が解かれるのを待ってからクラッスラへ向かう方が良いのだろうが、如何せん時間がない。

 エリスには目的地を伝えてはあるが、目的は伝えていない。軍に利用されかけたアミを、軍人であるアスタが助けて逃げていることは伝えたが、それだけだ。それ以上は話せないと告げたアスタに、セージは眦を吊り上げていたが、エリスはそれでいいよと笑っただけだった。

 好奇心はあるけれど、他人の事情に土足で踏み込むほど無粋ではないよ、と。そして、気の抜けるような軽い口調で付け加えた。こっちだって、話していないことはあるしね。


「どうするか……」


 何かに追い立てられるような焦燥がある。早く進め、少しでも早くと誰かに急かされるような息苦しさがある。

 唇を噛みしめ、拳を握るアスタの胸中を悟ったかのように、エリスはそっと袖を引くような、そんな声音で。


「——なら、ひとつ案があるんだけど」

「どうぞ」

「ヒッチハイクはどうだろう?」

「は?」

「ほら、あそこに丁度よさそうな車がいる」


 エリス・ユーフォルビアの行動は早かった。通り過ぎようとした小型のトラックを呼び止め、窓から顔を出した赤みがかった茶髪の男性に朗らかに挨拶をしている。口を挟む暇もなかった。


「こんにちは。ちょっといいですか?」

「………お前は?」

「エリス・ユーフォルビアと言います。突然申し訳ありません。お願いがありまして」


 エリスの顔をみて、男が目を見張った。

 にこにこと人好きのする笑顔を浮かべながら、ぺらぺらと言葉を重ね、困惑を顕わにしていた男性の警戒を解いていく手腕には、呆れを通り越して賞賛すら覚えた。

 端正な顔立ちに、朗らかな笑み。穏やかな声音と柔和な口調で話す彼に、警戒心を抱き続けるのは難しいのだろうか。じろじろとエリスを見ていた男が、徐々に不審を解き、目を丸くして、それから表情を和ませた。恐ろしいのは、話さなかった部分はあるものの、エリスが語った話に嘘は何一つなかったことだ。

 お礼を言いながらエリスが振り返り、親指を立てる。


「みんなー、乗せてくれるってー」

「……あいつ、詐欺師向いてるんじゃないか?」

「オレも常々そう思ってる」


 呆れ果てました、と言わんばかりの弟の姿に、なるほどと納得した。

 常習犯か。


「この先治安が悪くなるからね。人数が多い方が襲われにくいだろうからって、クラッスラまで乗せてくれるって」

「……よく信じてもらえたな?」

「ふふ、子ども連れだから。クラッスラまでの道のりは長いし、治安の悪い中を徒歩で突っ切るのは危ないだろ、って。優しい人でよかったね?」


 しれっと宣う兄に頭を抱えている弟の方を、アミが心配そうに見上げている。苦労しているらしいセージの肩をぽん、と叩く。舌打ちを背中に聞きながら、アスタもトラックへと近づいた。


「すまない、突然」


 やや強面の男性は、柔和な笑顔を浮かべて手をひらひらと振った。


「いいさいいさ。困ったときはお互い様だろ。一人で車を走らせるのも飽きてきたところだ。何人か荷台になるが構わねぇか?」

「充分だ。ありがとう」


 じゃあ乗りな、と親指で荷台を示した男は、大陸を回って商売をしているのだと笑った。現在はクラッスラを拠点にしているのだという。名を、アルスティと名乗った。

 助手席にアミを膝に乗せたセージが乗り込み、アスタとエリスは大小さまざまな荷物が積まれた荷台に座る。


「よし、出すぞー」

「お願いしまーす!」


 荷台からエリスが声を張り上げたのと同時、トラックが再び走り始めた。発進に合わせてバランスを崩した体を、車体を捕まえることで支える。


「大丈夫かー?」

「はーい!」


 一応周囲を見回すが、背の低い木々が並ぶばかり。ふう、と安堵の息を吐いて車体に体を預け、体から力を抜く。風が気持ち良い。反対側でその様子を見ていたエリスが、まるで年長者のような眼差しを向けていることに気づいて、アスタはバツが悪くなって目を逸らした。


「クラッスラを経由して、故郷——家に帰るんだって言ってある。嘘ではないでしょ?」


 前方には聞こえないように、エリスが耳打ち。その言葉に、は、と胸を衝かれたような気がした。

 家に、帰る。家に——家族が待つ場所に。

 そうだ。

 アスタに帰る場所はない。けれど、アミは。あの子は。

 あの子を待つ人はいるのだろうか。あの子の家族は。家は。

 目先の目的に囚われて、その先のことを考えていなかった。

 それは駄目だ。

 あの子には、これからがあるのだから。


「……そうだな。その通りだ」

「?」


 エリスが不思議そうに目を瞬かせる。

 アスタはその精悍な顔立ちに、久方ぶりの穏やかな笑みを浮かべた。


「——ありがとう、エリス」

「えぇ?突然どうしたの?」


 困惑しながらも、エリスがはにかむように笑った。

 もしかしたら、彼は自分よりも年下かもしれないと、その時初めて思った。

 がたん、と石を踏んだのか車体が揺れる。衝撃に揺れた体を支えあい、アスタとエリスは顔を見合わせて小さく笑う。


「——元々一つのところに居座るのは性に合わねぇんだよ。趣味と実益を兼ねて、ってやつだ」


 走行音に混じって、前方の会話が漏れ聞こえてくる。セージが大陸を回っている理由を聞いていたらしい。


「ひとりはさみしくない?」


 アミの声も聞こえてくる。セージが傍にいるからか、随分と寛いでいるようだった。


「一緒に来て欲しかった奴には振られたんだよ。近々もっかい誘ってみようと思っているんだが、何かアドバイスはあるか?」

「え?」

「子どもを困らせるなよおっさん」

「まてまて。まだ二十代だ!」


 騒がしい車内に楽しそうに耳を傾けていたエリスが、アスタの視線に気が付いて小さく首を傾げた。動作に合わせて、さらりと黒髪が揺れる。


「眠らなくて大丈夫か?」


 森を抜けるまでに過ごした夜は二回。アスタとエリスが交代で見張りをしていた。うっかり寝こけた初日とは違い、翌日はアスタが見張りを引き受けるつもりだったのだが、エリスはほとんど眠ることなく会話相手を買って出た。彼が目を閉じたのは、ほんの一時間にも満たない間だ。

 きょとん、と目を瞬かせたエリスが、その形の良い唇に笑みを載せる。どこか一歩線を引くように。


「大丈夫だよ」

「そうか。……無理はするなよ。何かあれば叩き起こすからな」

「ふふ、そうだね。この辺はまだ大丈夫だろうけど、最近少し先にハイリカムの拠点が出来たらしいから」

「ハイリカムの残党って噂の奴らか?南側で暴動が起きたって話だったな」


 ハイリカム。数年前にウィスタリアと戦争していた北部の国だ。一年前の内乱を経て残党たちも散り散りになり、南部に落ち延びた連中が何度か暴動を起こしたという情報を耳にした。人的被害はなかったことが不幸中の幸いではあったが、南部の治安が悪化していることは、軍内部でも問題として挙げられている。

 アスタたちの声が聞こえたのか、車内の方からあまり困っていなさそうな声が投げられた。


「奴らには俺も困ってんだよ。お陰で交通が制限される」

「おっさん、この道は大丈夫なのか?」

「おっさん言うな。この道が一番安全なんだよ、少年。俺は少し前にここを通った時に遠目に奴らをみただけだが、別の道を使った同業者は実際に襲われかけたんだと」

「………本当に大丈夫なのか?」


 セージが心配そうに振り返った。視線を受けてアスタがひとつ頷く。


「何があっても、俺が対応する」

「アスタってば僕のこと忘れてる?」

「……俺たちが対応する」


 律儀に言い直したアスタに運転席の男が声を立てて笑った。その隣で、セージが不満そうに。


「そいつらは何がしたいんだよ。今更戦争したところで勝てるわけがないじゃねぇか。誰を傷つけたところで、失ったものも奪われたものも、何一つ戻って来ないんだ。無駄だろ」


 吐き捨てるような声に、エリスがそうかもねと薄く笑った。

 まるで独り言のように続ける。それでも。


「譲れないものが、きっとあるんだよ」


 無駄だとしても。得るものなどないとわかっていても。


「そうだな」


 頷く。わかっていても、譲れないことはある。

 譲れないから、譲るわけにはいかないから、アスタは——ティアン・レオントは、ここにいるのだ。


「——きっと、そうなんだろうな」


 前方から返ってきたのは、静かで、どこか噛みしめるような声だった。

 アルスティは世界を回っていると言っていた。きっと多くの人や出来事を見てきたのだろう。


「感情ってのは、なかなか割り切れねぇもんだ。家族を殺されて、友人を殺されて、帰る家を奪われて、恨むなって方が無理な話だな。恨みってのは恐ろしいぞ。誰にも止められないんだから」


 それから、アスタ達よりも年を重ねた彼は、まるで子どもの背中を見送る大人のような貌で笑う。


「——あんたらも、ちゃんと家に帰れるといいな」


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