第一章 今、青空の下 6
車を走らせること一日と半分。途中でいくつかアクシデントが発生しつつも、太陽が沈む頃合いにアスタ達はクラッスラへと無事到着した。
「いやー、あんたら乗せてよかったよ」
アルスティがしみじみ言う。あの道はしばらく使わない方がいいなとぼやいている。クラッスラに到着するまで、数度の襲撃を潜り抜ける必要があったのだ。武装している相手とはいえ、軍人であるアスタの敵ではなかった。また、エリス・ユーフォルビアも戦い慣れしていた。強い、と感じたアスタの勘は間違っていなかった。彼のおかげで、術具を使わずとも襲撃を退けることができたのだから。
「あの道でああなら、他の道はどうなっていることか」
同業者に周知した方がいいなとぼやくアルスティとは、メインストリートの手前で別れることになった。
「俺はここで。その道の先がメインストリートだ」
「ああ、ありがとう」
「助かりました」
ぺこりと頭を下げるアスタとエリスの隣で、すっかり仲良くなったらしい子どもたちが名残惜し気に手を振る。
「またな、おっさん」
「ありがとう、おにいさん!」
「うーん、生意気と素直。アミ、そのまま育てよ」
やや強面の男は、茶色の瞳を穏やかに細めた。
「楽しかった。——お前たちに、花が降り注ぎますように」
「ええ、あなたも。花の祝福がありますように」
エリスの言葉に、アルスティは虚を衝かれたように目を丸くして、それから嬉しそうに微笑んだ。
「気を付けて帰れよ」
そうして、走り去っていく車を見送って。
最後まで手を振っていたアミが、アスタのズボンを引いた。
「やさしい人で、よかったね」
「そうだな」
おかげで、比較的安全にクラッスラまで移動できた。途中の襲撃も含めて。彼がいなければ、あの道を徒歩で進まなければいけなかったのだから。アミの体力を考えても、安全面でも、最善の方法だったのではないだろうか。
ちらりとエリスを見遣る。小さく首を傾げた同行者は、やがて得心したように頷いた。
「——先に宿を取ろうか。用事は明日でも大丈夫でしょ?」
いや、そうではなかったのだが。彼にはアミを気遣っているように見えたらしい。
まあいいかと頷く。夜が近い。今から動くよりも、体力を回復させて明日動く方が効率が良いだろう。なにせ、もう何日もちゃんとした寝床で休んでいないのだから。
アスタが頷いたのを見て、エリスが弟へと視線を向けた。セージが舌打ちをひとつ零して踵を返す。その背中を見送って、兄は悪戯っぽく微笑んだ。
「おい、いいのか?」
「大丈夫。慣れてるからね」
「反抗期の理由がわかった気がする」
にっこり。エリスが笑う。誤魔化したな。
「僕たちはちょっと外れようか」
周囲を見回す動作に、ああと気付く。人混みを気にしているのか。確かに、メインストリートからはまだ距離があると言うのに大混雑だった。日が沈む頃合いだと言うのに、これからが本番とばかりに人が増えている。これではどこに軍関係者がいるかわからない。
アミを抱き上げ、人混みから外れるエリスを追いかけようとして、ふと疑問を感じた。
「合流場所を決めていなかったが、移動して大丈夫なのか?」
「ああ、大丈夫だよ。これがあるからね」
ぴん、と細い指が彼の耳を飾る石を弾いた。
「それは?」
「術具だよ。こっちは発信用。対になっている受信用の術具を持っている相手に、自分の位置を大まかに伝えられる。一対の刻印式だね。受信用をセージが持っているから、あの子が起動したら僕の位置がわかる。それで追い付けるよ」
何気ない口調で伝えられた内容に、アスタは言葉を失った。発信用の刻印式。受信用の刻印式。術具。そんなもの。
「聞いたこと、ないぞ」
「あれ、そう?貰い物だよ」
あっさりと言いながら人の流れに逆らって歩く背中を追いかける。身体に合っていない黒色のコートが止まったのは、ほとんど人がいない営業時間が終わった店が並ぶ通りだった。
「——お前、術士なのか」
「うん、そうだよ。適応範囲が広くないから、ほとんど使えないけど。この発信用の術具も、受信側で霊力を通さなくちゃ使えないし」
「セージも?」
「セージはこの受信用の刻印式しか使えないけどね」
「そう、か」
刻印式には適応範囲、というものがある。
術具は、術士であれば誰でも使用できるわけではない。起動できる刻印式は限りがある。少なければ一つ。多くて三つ。アスタは刻印式について詳しいわけではないので、何故とか理由は知らないけれど。
ちなみに、アスタは刻印式への適応範囲がやけに広い。基本である多くて三つ、はアスタには通用しない。軍が所有している術具のほとんどに適応することはわかっていたが、目を付けられない方が良いという恩人の助言に従って軍には黙っている。
「アスタも、術士だよね?」
「ああ。俺は、あまり術具は使わないんだ」
主に使っているのは身体強化と視覚強化の術具。軍にはこの二つが適応内だと申請を出している。
「そうなんだ」
「……刻印式について勉強しようかと思ったこともあったんだが」
「うん」
「……難しく、て」
「あー、うん。難しいよね。超常現象に無理矢理理屈つけたらこうなるんだろうなって感じ」
「殴ったほうがはやいなと」
「なるほど物理」
少し目を逸らすアスタと、くすくす笑うエリス。二人を不思議そうに見比べていたアミが、ふと自分の右手に目を向ける。
「どうかしたかい?」
気付いたエリスが覗き込もうとする。ひゅっと、アスタは心臓が跳ねるのを感じた。ユーフォルビア兄弟が同行して数日。アミの腕輪の存在には気付いていたようだが、しっかりとは見ていない。見られないように、気を付けていた。どうする。怪しまれるのは承知の上で隠すか。気付かれないと高を括って素知らぬふりをするか。悩んだのは一瞬。答えを出す前に、不機嫌丸出しのセージが戻って来た。兄を思いっきり睨みつけている。
すっと視線を外して弟を朗らかに笑いながら迎えているエリスを横目に、アスタはほっと息を吐いた。
「近くのホテルを取って来たぞ。何か言うことは?」
「ありがとー、セージ。いい子だねぇ」
いっそからかうような口調で頭を撫でようとする兄の手を鬱陶しそうに避けている。避けてはいる、があっさり撫でられていた。手慣れていた。
じゃれ合う兄弟へ、呆れた様子を隠さずアスタが声を掛ける。
「助かった、セージ。案内を頼んでいいか?」
「ちっ。……はいはい」
「こら、返事は一回」
「うるせぇよ!おら、行くぞ!」
セージが案内してくれたホテルは、メインストリートから少し外れた路地の内側に建っていた。二部屋が繋がった四人部屋が運よく空いていたと、セージがジト目で兄を見ていた。
奥の部屋をユーフォルビア兄弟が、手前の部屋をアスタ達が使うことになった。
並んだベッドの扉側に腰かけ、ベッドの柔らかさに目を輝かせているアミを見守る。小さな手がベッドをそっと押して、その柔らかさに感嘆の声を上げている。靴を脱いで上がれよ、と声を掛けるとぱっと振り返って何度も頷いた。
天井を仰いで肺が空になるほど息を吐く。途端に連日の野宿で蓄積された疲労がのしかかってきて体が重い。ふっと緊張の糸が切れそうになった時、軽やかなノックの音が訪室者を告げた。思わずびくりと肩が揺れる。
「アスタ、入るよ?」
コートを脱いで軽装になったエリスがひょいっと顔を覗かせる。ベッドでわかりやすくはしゃいでいるアミに微笑ましそうな眼差しを向け、ベッドに腰かけたまま目をぱちくりとさせているアスタに小さく吹き出した。
「……返事を聞く前に開けるなよ」
「ごめんごめん。夕食どうするって聞こうと思ってね。どうする?ルームサービスでも頼む?」
壁に掛けられた時計を確認。夕食に丁度良い時間になっていた。
「あー。そうだな。うん、ルームサービスにしよう」
勢いを付けて立ち上がる。
「疲れてるね」
「一応安全だと思うと、どうにも気が抜けて。お前は……飯食ったら休めよ」
平気そうな顔をしているが、エリスはほとんど眠っていない。森を抜けた時も、車での移動中も。多分、人の気配そのものがダメなのだろう。なら、気心知れたセージとの同室なら休める。はず。
ぱちくりと目を瞬かせたエリスが穏やかに笑う。察しの良いやつだ。
「そうだね。そうするよ。——さて、何を食べる?アミ、こっちおいでー」
「はぁい!」
ぴょん、とベッドから降りたアミがとことこと共有スペースへと走っていく。ソファで待っていたセージが顔を上げて彼女を手招き。仲良いなぁ、とエリスと顔を見合わせてアスタも立ち上がった。
「兄さんは軽いヤツだよな。飲み物も適当に頼むぞ」
「わー、うちの子優秀」
「おにいさんはどうする?」
「肉」
「おやさいも食べなきゃだめってママが言ってたよ」
「あ、はい。………笑うなそこ」
声を押し殺して笑っている兄弟を睨む。
「あっはは。セージ、注文頼んでいい?」
「しょうがねぇなぁ」
アスタの視線から逃げるように兄弟が動き出す。仲が良くて何よりだ。
そうして。
事は、夕食の後に起きた。
ぱりん、と。
軽い音を立ててマグカップが割れた。呆然としているアミの足元に、細かく割れた破片と中に入っていたジュースが広がっている。固まっていたアミが弾かれたように破片に手を伸ばした。
小さな指が破片に届く直前、アスタが鋭い声で制止する。
「アミ!」
びくりとアミが動きを止める。アスタが駆け寄ってアミの両手を検めた。
「怪我してないな⁉」
「あ……」
この時。アミが何を思ったのか。何を感じたのか。アスタにはわからない。だけど多分この時、アミの中で。小さな体で抱えていた何かが、弾けたのだ。
ふぇ、と少女の顔が歪む。大きな瞳に涙が浮かぶ。頬を伝って零れるそれを拭うこともせずに、ぽろぽろと泣く幼い彼女の姿は痛々しかった。
ぎょっと目を剥いたアスタが少女の手を離す。一瞬空を彷徨った小さな手が、ワンピースの裾をぎゅっと握りしめた。
まま。ぱぱ。唇が小さくそう動くのを、確かにみた。
「………」
アミ、と呼びかけようとして、できなかった。何を言えばいいのか、わからなかった。
「ママに会いたい。パパのところに帰りたい」
振るえる声が絞り出すように本音を零す。
「——しにたくない」
しゃくり上げるような泣き声に混じって届いた言葉。は、と息を呑んだ。必死に探していた言葉が散っていく。
それでも零れるように、かき集めるように言葉を落とす。
「——死なせない。絶対に、死なせない。それだけは、俺がさせない」
「うそ!だって、死んでって、言われたもん。おまえは死ぬんだよって言われたもん。みんな言ってたもん」
おにいさんは違うの。
悲鳴のようなその声に、首を絞められたような、心臓を貫かれたような、そんな気がした。
タガが外れたように、子どもはやだと繰り返す。
「やだ。いたいのはやだ。こわいのもやだ」
やだよ。死にたくない。パパ。ママ。——おうちにかえりたい。
もう何も言えなかった。違うよ。死なせないために俺がいる。そのために。無事に家に帰す、そのために。
頭の中で連なる言葉は、ひとつだって音にならない。
だって、同じだ。アスタは——ティアン・レオントは、この小さな女の子に死ねと言った誰かと、同じ軍の人間だ。信じられていないわけではない。それくらいはわかる。だけど、それでも。彼女にとって、アスタは自分を殺そうとした誰かと同じ服を着ていた他人だ。
ソファの向こうで心配そうに見ていたエリスが、セージに目配せして立ち上がる。痛みを堪えるような表情で、泣きじゃくる子どもへと寄り添った。
「——がんばったね、アミ。ここまで、よく頑張った」
優しい声だった。大きな手が、慈しむように小さな頭を撫でる。
益々声を大きくして泣きじゃくる子どもと、ただ頑張ったねと頭を撫で続ける大人。
ああ、と思った。右腕の腕輪が重い。自己嫌悪で胸が痛かった。
ごめんなと、声にならない声で呟く。泣き続ける子どもにも、こちらに背中を向けている彼にも気付かれないように立ち上がり、部屋を後にする。布巾を持って来てくれていたセージが、何か言おうとして、けれど何も言わずに見送ってくれた。
エリスは多分、気付いていただろう。
拳を握りしめ、唇を噛む。余裕がなかった。必死だった。——そんなこと、言い訳にもならない。
間違えたのだ。家に帰すのだと決めたのだから、アスタはあの子どもを一番に気に掛けるべきだったのに。不安を抱いているとわかっていたのだから。
それが、年長者として、大人として当然のことだった。当たり前のことだ。ちゃんと話をして、無理をしていないか気を配って。そうしなければいけなかった。
悶々と考え込んでいるうちに、ホテルのエントランスを抜け、外に出てしまっていた。頭を冷やすには丁度良いかもしれない。見上げた空には分厚い雲が広がっている。
深々と吐き出したため息が、夜の町に消えていった。
「——最低、だな」
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