第一章 今、青空の下 7
アミが泣き止んだのは、アスタが部屋を出てから数分後のことだった。
えぐえぐとしゃくり上げながら、不安げな瞳がエリスを見上げる。
「……ひどいこと言っちゃった」
「でもどこかでちょっと思っていたことなんでしょ?勢い任せでも、言いたいことをちゃんと言えたのは悪いことではないよ」
ぎゅっと服の裾を握りしめる子どもの頭を、くしゃりと撫でる。でもね、と続けた。
「ひどいことを言ったって思っているなら、どうしたらいいかわかる?」
「あやまる」
「うん。そうしようね」
よくできました、ともう一度撫でて、エリスは立ち上がる。どこかバツの悪い顔をしたセージが入れ替わり、散乱したままの破片からアミを遠ざける。
「……兄さん」
「片付けお願いしてもいい?」
「いいけど。……雨、降りそうだぞ」
ぶっきらぼうな声に苦笑。窓を見遣ると、ぽつぽつと雨粒がガラスを叩いていた。
じくりと、胸の傷が痛む。反射的に抑えた手に気が付いたのか、物言いたげな目を向けるセージにひらひらと手を振ってドアへと向かう。
「すぐに戻るよ」
「うわ、さっむ。風邪ひくよ?」
背後に立った気配には気が付いていた。黙ったままのアスタに肩を竦め、エリスが隣に並んだ。アスタより少し低い背を屈め、顔を覗き込んでくる。穏やかな眼差しにいたたまれなくなった。
「……頭を冷やしたら戻ろうと思ってた」
「物理的に冷やしてどうするの」
降りしきる雨を屋根の下から伺って、青年は何でもないような口調で話し始める。
「子育てって難しいよねぇ」
「………は?」
「アスタはある?子育て…はないだろうから、後輩育成?」
エリスがよっこらせ、と入口の階段に座り込む。じじくさいぞ、と呟くと彼は幼い仕草で舌を出した。思わず笑ってその隣に座る。
「ないな。後輩はいたけど」
アスタは軍の中でも若手だ。術士であるアスタは、通常よりも早い年齢で軍に所属した。所属歴と階級という意味での後輩はいるが、アスタよりも若い軍人は一人だけだ。
同じく術士であるルード・リンネリス。危なっかしいほどにまっすぐな後輩。
「まあ、後輩育成と子育ては違うか。そうだね、僕の所感になるけど」
ふわり、と。雨を含んだ風が、エリスのゆるく結んだ髪を揺らす。
「ずっと思っていたんだろうね、あの子。たまに不安そうにしていたのも、夜に泣いていたのも、アスタだって気付いていたんでしょ?気が抜けたんだよ。緊張が解けたんだね。心のどこかで言っても大丈夫って思えたから言えたの。勢い任せだろうと、言いたいことを我慢せずにぶつけられたのは悪いことじゃない。違う?」
アスタの顔を覗き込んで、エリスが笑う。顔にかかった髪を細い指が耳に掛けた。
渡された言葉を咀嚼して、飲み込んで。アスタは苦く笑った。普段は凛々しく吊り上がった眉が、情けなく下がっている。
「……お前、すごいな」
「経験だし慣れだよ。ほら、君だって不安なときに普段なら言わないようなこと言ったりしない?」
「……そうだな」
精悍な顔立ちに浮かべていた暗い表情が、細い指にぐいっと引っ張られることで崩れた。
「もう、何落ち込んでるの。あの子に対して、なにか負い目でもある?君があの子を傷つけた?」
「……それ、は」
「それとも何?今後あの子を傷つける予定があるの?」
「ねぇよ!」
反射的に否定するアスタの頬を開放して、美貌の青年は紫の瞳をおかしそうに細める。
「でしょ。なら堂々とする。……まさか、軍の人でまとめられたこと気にしてる?あの子が言ってたみんなって、軍人のことでしょ?」
図星を着かれて押し黙る。エリスが今度こそ呆れ果てた、と言わんばかりの表情を見せた。
「——あのねぇ、アスタ。言ったとは思うけど」
「?」
「僕も、軍は嫌いだよ」
「……おう」
そうだ。言っていた。焚火の前で、冗談交じりに。けれど確かにその声には嫌悪が混じっていた。
「でも、君のことは嫌いじゃない。言いたいことはわかる?」
こくりと頷いた。
「戻れる?」
もう一度頷く。
「もー、本当に大丈夫かなぁ!」
まったくもう、と眦を吊り上げるエリスに、アスタは大丈夫と笑った。自分でも不思議なくらいに、自然に、たぶん穏やかに笑えた。ぱちぱちと目を瞬かせて、応えるように彼も笑う。
「なら、戻ろうか」
「おう」
掛け声とともに立ち上がり、年寄り臭いなとお互い笑いながら部屋へと戻る。
ほの暗いホテルの廊下を歩きながら、エリスが寒いねとぼやいた。
「そうか?」
「寒いのは苦手でね」
「へー」
「あ、興味なさそう。……わっ」
先を歩いていたアスタが、扉の前で立ち止まった。すぐ後ろを歩いていたエリスがその背中にぶつかりそうになって不満を零す。
「なに、どうしたの」
「……おう」
「入りなよ。いや何ノックしようとしてるの?」
しっかりしなよ、と言いながら臆病風に吹かれているアスタを横目にエリスが扉を開けた。
「戻ったよ」
「おー。思ったより早かったな」
「あ、片付けありがとね」
ソファで水を飲んでいたセージがひらひらと手を振る。そんな兄弟たちのやりとりを抜き去って、小さな影が入口で立ち止まったままのアスタの足に突撃した。
「う…お。アミ?」
ズボンに顔を埋める子どもを呆然と見下ろす。そっと小さな肩に手を置いた。震えている。
また、泣かせてしまった。
ごめんなさい、とアミが言葉にする前に、アスタが口を開く。彼女にその言葉だけは言わせたくなかった。
「ごめんな。不安にさせて」
ば、とアミが顔を上げた。ぱっちりとした金色の瞳に涙が滲んでいる。膝を折って目線を合わせ、アスタはもう一度ごめんねと言った。必死にふるふると頭を振る子どもを抱きしめて、青年は続ける。
「頼りないかもしれない。痛い思いも、怖い思いも……させてしまうかもしれない。それでも。——必ず生きて、家に帰す。送り届ける。それまで、一緒にいる」
日常へ。本来、子どもたちが受け取るべきありふれた毎日へ。
うん、と頷く子どもの頭をぎこちない手つきで撫でる。腕の中の温もりが、あの日に重なった。
込み上げる、胸を焼くような後悔と焦燥。——今度こそ。
約束とは、もう言えないけれど。
——この子どもだけは、帰してみせる。
雨は、まだ降り続いていた。
「シャワーありがとう。次に入るか?」
タオルで髪を拭きながら戻る。ソファで寛いでいたエリスが、傍らの弟を見遣た。
「セージ、先入りな。もう眠いでしょ」
「おー」
セージは珍しく素直に立ち上がり、シャワー室へと消えていく。
入れ替わりにソファに腰かけると、エリスに水がなみなみと注がれたグラスを手渡された。有難く受け取って飲み干す。
ちらりと、奥の部屋へと視線を向ける。そこでは泣き疲れたアミが眠っているはずだった。
彼女を気にしていたアスタを、体が冷えているからと風呂に叩き込んだのはエリスだ。
「……アミは」
「ぐっすり寝てるよ」
「そうか。……エリス」
「うん?」
「ありがとう」
彼の方は見れなかった。隣に座る青年がきょとんとしている気配が伝わってくる。居たたまれなくなってふいっと顔を背けると、堪えきれなくなったのか吹き出すようにエリスが笑いだした。
からからと、楽しそうに声を弾ませながら、アスタの肩をぱんぱんと叩く。
「なぁに、まだ落ち込んでるの。しっかりしなよ。今は君が保護者なんだから」
「はぁい、先輩」
「あっははは!」
シャワーから戻って来たセージが声を上げて笑う兄を見て目を丸くした。
「……楽しそうだな?」
「おかえり。ちゃんと髪を拭きな」
立ち上がったエリスが、慣れた様子で弟の頭をがしがしと拭く。嫌がるかと思われたセージは、大人しくタオルドライを受け入れていた。兄の方はというと、抵抗しない弟に少し驚いたような表情を見せた後、それならばとばかりに楽しそうに思う存分拭きあげていた。
「よし、いいかな。僕もシャワー行ってくるね」
満足そうに笑って、エリスがシャワー室へ向かう。されるがままになっていたセージが、タオルを首に掛けながら気まずそうに舌を打つ。
「セージ」
「あ?」
「助かった。ありがとう」
アスタとエリスが外に出ている間、セージがマグカップの成れの果てを片付けてくれていた。それに、アミに寄り添っていてくれたのも彼だ。
アスタの礼に対して、ぱちぱちと目を瞬かせる姿はどこか幼く見えた。
「あー、別に。……あんたさ」
「うん?」
「あいつと……いや、なんでもない」
言いかけた言葉を呑み込んで、セージはアスタに背を向ける。
「おやすみ!」
「?おう、おやすみ」
寝室へと向かう背中を見送った。挨拶はしっかり残していくところにエリスの教育を感じる。
窓を叩く雨音は激しさを増している。明日には止むだろうか。
ぼんやりと眺めること数分。何か飲むかと立ち上がった時、シャワーからエリスが戻って来た。随分と早い。ぐっしょりと髪を濡らしたままの姿に、アスタは苦笑した。
弟を叱っていたくせに。
アスタの視線に気が付いたのか、エリスが肩を竦めて髪を拭き始める。弟に向けていたそれよりも雑な手つきだった。
「どうして髪を伸ばしているんだ?」
純粋な疑問だった。
動かす手を止めて、数秒。タオルの向こうで、エリスは困ったように笑った。
「——切るのが面倒だからだよ」
「そ……か。うん、似合ってるもんな」
その言葉に、彼は目をぱちぱちと瞬かせた。どこか幼い仕草は、弟とよく似ている。
エリスが小さく首を傾げて、得意げに笑う。
「でしょ?」
「おう」
性別を感じさせない端正な顔立ちに、流れるような長髪はよく似合っていた。
けれどきっと、短い髪でも似合うだろう。
「もう寝よっか。ようやくベッドで寝られるね」
「そうだな。おやすみ」
「うん、おやすみ」
あくびを噛み殺しながら、エリスが寝室へと消えていく。
明かりを消して、アスタも寝室へと向かった。手前のベッドではアミが眠っている。何の気なしに覗き込んで、穏やかな寝顔に安心した。この子どもの、何の憂いもない眠りを願う。
少しズレてしまっていた掛け布団をそっと直し、奥のベッドに潜り込んだ。目を閉じる。身体が泥のように重たかった。
ここまで、色々あった。想定していたこともあれば、想定外のことも。考えなければならないことはたくさんある。この先のことも、これまでのことも。
けれど、まあ。今はしっかりと眠って。考えるのは明日にしよう。
睡魔を意識する間もなくアスタは眠りについた。
夢も見ない程の深い眠りだったと思う。
——目を覚ましたのは、日付が変わった頃合いだった。
微かに音がしたような気がして、アスタは目を開けた。飛び起きそうになる体を抑え、室内の気配を探る。
「……う」
何かに遮られたようにくぐもっているが、アミの眠るベッドの方から小さく呻く聞こえた気がする。
「——アミ?」
今度こそ飛び起きた。掛け布団を跳ね飛ばして、隣のベッドへと駆け寄る。
顔を覗き込んで、一目でアミの異常に気が付いた。
息が荒い。顔が赤い。揺り起こそうとした手は、わずかに顰められた眉に止められた。
体調を崩してしまったことは、すぐにわかった。
わかったが、アスタはそこで動きを止めてしまった。起こすべきなのか、このまま寝かせておくべきなのか。
どうしよう。迷ったのは一瞬。踵を返し、数時間前に青年が消えた扉を叩く。
ノックを三回。さほど待つこともなく、扉が開いた。
長い黒髪をゆるく結んだエリスが、眠気を纏ったまま顔を覗かせた。あくびを噛み殺しながら、小さく首を傾げる。
「アスタ?どうしたの?」
エリス。名前を呼んだ声は、我ながら笑ってしまうほどに震えていた。
「——アミが」
寝起きだろうと変わらず端正な顔から、眠気が吹っ飛ぶ様を見た。寝起きとは思えない俊敏さで、つい先ほどアスタが出てきた部屋に飛び込んでいく。呆けていたアスタの背中を、背後から伸びてきた手が叩いた。振り返ると、眠たげな眼をしたセージが呆れた顔をしている。何してんだ、と言わんばかりの眼差しにはっと我に返ってエリスを追う。
彼は熱でも測っているのか、寝苦しそうに眉をひそめているアミの額に手を置いていた。
その様子を背後ではらはらと見守りながら、アスタは少女に付けられた術具のことを考える。
体調を崩したのは、アミに付けられた術具のせいだろうか。いいや、そんなわけがない。だって、術具は反応していない。だから、大丈夫。
ばくばくとうるさい心臓の音を打ち消すように、耳元で何かが囁く。
——本当に?
「アスタ」
は、と我に返った。振り返ったエリスが風邪だよと告げる。
「かぜ」
知らない言葉を聞いたかのように繰り返すアスタの様子に、紫の瞳がゆるりと細められた。
「だから、大丈夫だよ」
無条件で安心してしまうような、緊張を緩めてしまうような、そんな声だった。
エリスが金色の髪をくしゃりと撫でながら続ける。
「緊張が続いて、雨に濡れて、野宿。で、さっきの喧嘩。気が抜けて、疲れが一気に来たんだね。そこまで熱が高いわけでもないから、このまま寝かせておこうか。セージ、ちょっと僕の鞄から薬持ってきてくれる?」
「おー」
あくびを零しながら踵を返したセージは、小さな黒の袋を手に戻って来た。短く礼を言いながら受け取って、中身を確認している。扉の外からの明かりを頼りに、錠剤を二つ取り出そうとして、はたとエリスが顔を上げた。
「この子、今いくつ?」
「え。いくつ、だろう。えっと」
「錠剤飲めるかな…。ううーん。まあ、そこまで高熱にならなければ大丈夫か。体温計がないのがなぁ」
などとぼやきながら、いつの間にかセージが持ってきていた水の入ったグラスと錠剤をサイドテーブルにセットしている。手慣れているな、と思った言葉は、無意識に音にしていたらしい。椅子を枕元へ動かしていたセージが当たり前だろ、と返した。
「そいつ、医者だぞ」
「えっ」
「あ、こら」
焦ったように振り返ったエリスを凝視する。視線を受けた彼が、バツが悪そうに目を逸らした。
「真似事ができるってだけだよ。……不安?」
「まさか、何でそうなる。すげぇな、お前」
心からそう思った。真似事だろうと、誰かの命を救える術を持っていることに変わりはない。
もう一度すごいなと呟いた声には、隠しきれなかった羨望が滲んでいた。紫の瞳がぱちりと瞬く。
「……そっか」
「何か、できることあるか?」
「なら、タオルを濡らして来てくれる?」
「おう」
荷物からタオルを取り出し、ぐっしょりと濡らす。しっかりと絞って部屋に戻ると、ちょうどアミが目を開けたところだった。熱に浮かされた金色の瞳がぼんやりとアスタを映す。
「……おにいさん?」
「アミ、えっと」
大丈夫か、とどうしてか言えなかった。代わりに、小さな手を握る。ぱちぱちと瞬いた瞳が、嬉しそうに細められる。えへへ、と声が聞こえそうな笑みだった。
「痛いところはある?喉とか、頭とか」
「んー。ないよ」
「そっか。それならよかった。アミ、ちょっとひんやりするよ」
「え?わ、つめたっ」
エリスの手で濡れタオルが額にそっと置かれ、くすぐったそうにアミが身を捻る。よかったと思った。辛そうにしている彼女は見たくなかった。タオルを避けて金色の髪をくしゃりと撫でる。
エリスが同じようにアミの髪を撫でながら言う。
「——まだ夜だよ。おやすみ」
「はぁい」
金色の瞳が閉じられる。ほどなくして、小さな寝息が聞こえてきた。
ほっと息を吐くアスタの肩にそっと手が置かれた。振り返ると、エリスが部屋の外を示しながら口を開く。
「あっちで話そうか」
子どもの眠りを邪魔しないよう、囁くような声だった。頷いて、小さな手を離そうとすると、ぎゅっと握っていた指に力が込められた。そっとアミの様子を伺うが、起きた気配はない。どうしたの、と同じように覗き込んだエリスが、微笑ましいものを見るように目を細めた。
「じゃあ、ここで。手短にね」
「お、おお」
小さな手に握られた指を凝視しながら、こくこくと頷く。
「おーい、聞いてる?」
「聞いてるぞ、聞いてる。うん」
「はいはい、うれしいのはわかりました。このまま看てる?」
「おう。もちろん」
そのつもりだったので、用意してもらった椅子へ移動する。
「今は大丈夫でも、ここから熱が上がってくる可能性もあるからね。僕も一緒に起きておこうか?」
少し考えて、首を横に振る。
「大丈夫。けど……何かあったら、また起こしてもいいいか?」
「もちろん。隣の部屋にいるよ。しばらくは起きているから、明らかに熱が上がってくるか、寝苦しそうにしていたら呼んで。そうじゃなくても、何か気になるようだったら声を掛けてね」
「わかった」
よし、とひとつ頷いて兄弟が出ていく。音に気付きやすくするためか、少しだけ開いた扉の向こうから、弟に就寝を促す兄の声が聞こえてきた。弟は渋っていたようだが、高らかな舌打ちの後に扉の開閉音がしたので、兄が押し切ったのだろう。仲が良くてなによりだ。
静まり返った部屋で、子どもの寝顔を眺める。たまに扉の向こうで人が動く気配がした。物音を立てないように動いているのが伝わってきて、アスタは小さく笑った。
時計の針が一周する頃。控えめなノックの音と共に、そっと扉が開いた。暗闇に慣れた目には眩しい光を背に、エリスが顔を覗かせる。しばらく物音がしなかったから眠ったのかと思っていたが、まだ起きていてくれたらしい。
「アスタ、様子はどう?」
「変わりはないけど……あ」
「うん?……あ」
話し声に気が付いたのか、アミが目を開けていた。エリスがしまった、という顔をしている。
夢でもみているかのようにぼんやりとしていたアミが、そわそわと見守る青年たちを認めると、あれ、と浮かされたように口を開いた。
「……おにいさん?」
「おう、いるぞ」
「……なら、くらくても、こわくないね」
「——そうだな。暗いのは、怖いか?」
「うん。……おばけがいるかもしれないから」
少し恥ずかしそうに教えてもらった内緒話に、アスタは笑みを返した。この子の年相応の姿を初めてみたかもしれない。生憎アスタはお化けを怖がるような子どもではなかったが、遠い昔は一人で寝たくないと愚図ったような覚えがある。
「なら、明かりをつけようか?」
「でも、それだとおにいさん寝れなくなっちゃう」
「大丈夫。大人だからな。いつでも寝られる」
後ろから吹き出す音が聞こえてきた。次いで、笑いをこらえるような声も。ズレたことを言った自覚はあるが、そんなに笑わなくてもいいと思う。アミがそっかぁと納得しているので良いのだ。
「……エリス」
「はいはい、明るくしましょ」
ぱち、と部屋の中が明るくなる。眩しそうに瞬いていた瞳が、とろんと溶けて瞼の向こうに隠れた。規則正しい寝息を確認して、ほっと息を吐く。背後ではまだくすくすと笑う声が聞こえていた。
「……いつまで笑っているんだ」
「ごめんごめん。ずいぶん様になってたじゃない。熱は上がってないね」
タオルの下に指を滑らせて、エリスが安心させるように笑う。赤くなった頬以外は、普段通りの穏やかな寝顔だった。握られていた手は、いつの間にか外れていた。金色の頭をそっと撫でる。それから立ち上がって、固まっていた体をほぐすように伸びをした。
自分のベッドの傍に置いていた銀時計を開けて時間を確認していると、ひょいっと後ろから覗きこまれた。
「随分遅い時間になっちゃったね。アスタ、寝る?」
「いや、もう少し起きておく。お前は?」
「うーん、ちょっと寝ようかなぁ」
ぐっと伸びをして、そう言いながらもエリスはアスタのベッドに腰かけた。そこで寝るつもりかと思ったが、彼はそのままぱたぱたと足をバタつかせている。
「なにやってんだ、お前」
「一周回って眠くないんだよ」
なるほど、と頷いた。気持ちはわかる。雑談でもするかと提案すると、彼はいいね、と笑った。
アミを起こさないように声を潜めて、ベッドに並んで腰かける。
「エリスは、お化けが怖いとか思ったことあるか?」
「お化け?ああ、さっきの話か。ないんじゃないかな」
覚えてないけど、と肩を竦めてエリスが続ける。
「でも、鬼が出るから早く帰ってきなさい、とはセージに言っていたよ。こういうの子どもには効果あるよね」
「鬼?」
「え、うん。鬼。お化けと似たようなものだよ。こわーい鬼が出るから、夜は出歩いちゃだめだよって。言われなかった?」
「いや、ないな。夕方には人さらいが出るから早く帰れ、とは言われたけど」
「その方が怖いよ」
「鬼も大概怖いと思うが」
人も、鬼も、お化けも、子どもにとっては恐ろしいものであることに変わりはない。理解ができなくて、力があって、敵わないもの。自分ではどうにもできないものに畏れを抱くのは、子どもも大人も変わらない。
ふるりと頭を振って、話題を変えることにした。実はひとつ、気になっていることがあったのだ。
「アルスティが花の祝福がありますようにって言っていただろ。あれって何なんだ?」
——花の祝福がありますように。
気軽い挨拶のような言葉には、確かに無事を願う気持ちが込められているような気がした。
「ああ、本当はちょっと違うんだよ。えーっと、あなたに花が降り注ぎますように、だったかな。元々は祝福を祈ることばって聞いたよ。親しい人と別れるときに使うことが多いけど」
「知らなかったな」
「東の方で使われてたんじゃなかったかな。あんまり使わない言い回しかもね」
ウィスタリアの最東部には、瘴気に呑まれたままの町がある。元々はウィスタリアに滅ぼされた国が栄えていた場所だ。瘴気に呑まれ、多くの人が各地へと散った、らしい。東部の出身なのか尋ねようとして、アスタは口を噤んだ。彼ら兄弟が訳ありであろうことはとっくに察している。
そして、彼らが敵ではないことも、とっくに。
「花が降り注ぎますように、か。いいな。今度使うか」
「いいね、使ってよ。アミを送り届けた時にでもさ」
当たり前のように、エリスが言う。その未来が、必ず訪れるものであるように。
そうなればいいと思う。そうでなければいけないと思う。
何かに追い立てられるような焦燥があった。早く進め、少しでも早くと急かすような息苦しさがあった。
それは今でも変わらない。けれど。
けれど、自分の隣に彼がいてくれてよかったと、そう思った。
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