第一章 今、青空の下 1


 雨が、降っている。

 雨は嫌いだ。いや、嫌いというより、苦手という方が正しい。

 幼い頃は、しとしとと静かに降る雨も、視界が効かないくらい激しく降る篠突く雨も、まあ嫌いではなかった。雷を伴った嵐の夜でさえ、何かが始まる前兆のような気がしてわくわくしたものだ。

 それが痛みを孕んだ思い出を呼び起こすようになったのは、いつの頃からか。

 雷鳴に怯えないように強くなるのだと、無邪気に決意したのは、もう遠い昔の話だ。


 そして、今。


 怒号に似た号令が飛び交っている。

 雨音に紛れて響いた銃声に、青年は反射的に身を伏せた。雨に濡れた深い黒色の髪が、肌に付いて鬱陶しい。

 青年の精悍な顔立ちには、隠しきれない焦燥が浮かんでいた。


「……くそっ」


 悪態を吐いて、油断なくあたりを見回す。わずかに引いた軍靴のすぐそばを、銃弾が抉った。


 ——数分前。


 叩きつけるような雨で視界が悪い中。セントラルの隣に位置する町、コロナリア郊外に広がる森の道を走っていた軍用車は突然襲撃され、静かだった森の入口は一瞬にして戦場に姿を変えた。幸いだったのは、周囲に一般人の姿がないことか。

 後ろを走っていた車は木にぶつかって止まっていた。駆け寄って確認するが、中にいたのは運転席で気絶した男のみ。

襲撃者たちに応戦する同僚を横目に、青年は周囲を見回す。上空を飛んでいる飛行物体は、軍が放った探索機型術具。遠隔から監視、万が一の時は回収するために放たれていたのだろう。舌打ちしながら黒色の塊を睨み、背後から斬りかかって来た男を躱して腹に拳を叩き込んだ、ところで気が付く。


「いた!」


 倒れる男の向こう。横転した車の隣に、頭を抱えてうずくまる子どもがいた。

 子どもの名前を呼ぼうとして、彼女の名前を知らなかったのだと口を閉じる。すぐに駆け寄ろうとして、子どもに向かって銃口を向ける男が視界に入った。

 反射的に左手首の腕輪に装着した術具に霊力を流し、身体強化の刻印式を起動する。

 霊力を吸われる感覚と共に、思考の隅でかちりと錠が開く音がした。どくん、と心臓が跳ねる。電流が走るように両脚に力がみなぎるのを感じた。

 動きを止めた青年の様子を隙と見たのか、横からナイフを構えた男が向かってくる。


「どけ!」


 怒号をひとつ。両脚に力を込める。ぬかるんだ地面を蹴って、襲撃者を置き去りに走り出す。術具によって強化された脚力で距離を一瞬で縮め、伸ばした腕で子どもを攫った。

 突然の浮遊感に驚いたのか、子どもが声にならない悲鳴を上げる。


「……っ!」


 放たれた銃弾が、子どものいた場所を抉る様を横目で見ながら、青年は一度身体強化の刻印式を切り、左耳に付けた視覚強化の刻印式を発動する。途端、世界を置き去りにしたように速度を落とした視界の端、転がっていた銃の中から消音器が付いたものを選んで右手で拾った。

 躊躇うことなく照準を合わせ、子どもの耳を腕と手のひらでしっかりと覆って、上空を飛んでいた探索機型術具を一発で破壊する。

 ——これで、青年は軍にとって裏切り者になった。

 迷いはない。後悔もない。停止は一瞬。銃を腰に収めると、再度身体強化の刻印式を発動し、木の陰に隠れるように走り抜ける。

 腕の中の子どもが身を固くしているのがわかる。自分を抱える軍人が守ってくれる人なのか、害そうとしている人なのかわからないのだろう。だが、青年には彼女を気遣う余裕はなかった。


「走り抜けるぞ、掴まっていろ!」


 怒声と銃声が背後から追いかけてくる。

 雨の匂いに交じって血の匂いがした気がして、青年は舌を打った。びくりと反応した子どもに短く謝る。

 木と木の間を縫うように駆け抜け、最短で町を目指す。


「…くしゅんっ」


 気の抜けるような小さなくしゃみが腕の中から聞こえてきた。ずず、と鼻をすする音もする。

 背後を確認しながら一度足を止める。子どもを抱えたまま器用に脱いだ軍服のコートを雨から守るように子どもに被せ、何か言おうとした子どもに構わず再び走り出した。

 それから、どれくらい走り続けていただろうか。

 怒声も銃声も、もう追いかけてはこない。ちらりと背後を確認するが、気配はない。安堵の息を吐いて走る速度を落とす。

 襲撃者の正体、これからの行き先、軍の動向。気にしなければいけないことはたくさんあるが、とりあえず今は逃げることだけを考えることにする。

 もぞりと、腕の中の子どもが動いた。


「……どこいくの?」


 か細い声だった。ともすれば雨音にかき消されそうな声に、青年は短く返す。


「町だ。もうすぐ着く。我慢できるか」


 無言で子どもが頷く気配がした。

 雨は変わらず降り続いている。

 ぽつぽつと家屋が見え始めた。降り続く雨のせいか、夕方に近い時間だというのに人の気配はない。周囲を警戒しながら子どもを雨が凌げる軒下に降ろす。


「……っ、はぁ…」


 発動し続けていた刻印式を解除し、震える両脚を支えながら肩で息を繰り返す。ぎゅ、とコートを握りしめた子どもが、不安そうに見上げてきた。息を整え、膝を折って子どもと目を合わせる。


「——怪我はないか?」


 子どもは何を言われたのかわからない、という表情をして、それからこくりと頷いた。

 全身ずぶぬれだし、金髪がぺっとりと頬にくっついているし、服が少し汚れているが、怪我をしている様子も痛がる様子もない。安堵に息を吐き、彼女の名前すら知らないことを思い出した。

 子どもを怯えさせないように穏やかな声を意識しながら、青年は口を開く。


「俺はアスタ・エーデルワイズ。君の名前は?」


 子どもは、大きな目を丸くして、もう一度、何を言われたのかわからない、という表情をした。

 辛抱強く待っていると、子どもがぎゅっとアスタが被せたコートを握りしめて。


「……アミ」


 固い声だった。アスタはひとつ頷いて子どもの名前を復唱する。


「アミ。——怖がらせて、ごめんな」


 ぐっと、アミが何かを呑み込むように唇を引き結んだ。それから、ふるふると首を横に振る。その右手では、子どもには不釣り合いな鉄の輪が雨水を弾いていた。

 まだ幼い子どもが放り込まれた状況に、怒りがこみあげてくる。

 わけのわからない大人たちに囲まれて、突然戦闘に巻き込まれて。

 恐ろしくないはずがない。怖くないはずがない。


「取り敢えず、ここから離れるぞ」


 ズボンに入れていた銀の懐中時計の蓋を開く。夕方には少し早い時間だが、日が落ちれば雨に濡れた体からはすぐに体温が奪われるだろう。偵察と通信を担っていた探索機型術具を破壊したことで、すぐに後続の軍人が派遣されるだろう。アスタの動向が軍に伝わる前に、距離も稼がなければならないから、コロナリアに滞在するわけにもいかない。宿は近くの他の町で探す必要がある。

 頭の中で地図を開きながら時計を仕舞い、立ち上がろうとして。


「か…は……っ」


 どくん、とアスタの霊脈が跳ねた。思わず膝を付く。手のひらから零れた懐中時計が地面に転がった。

心臓を直に握られたような感覚に冷や汗が噴き出る。


「おにいさん!」


 アミが声を上げる。荒い息の中で大丈夫、と返して自身の右腕に着けられた腕輪を見遣った。

 なるほど、こういうことか。


「……だいじょうぶ?」


 恐る恐る尋ねてくる子どもの腕にも、似た腕輪がある。

 アスタは無理矢理に笑顔を浮かべて頷いた。


「ああ、大丈夫だ」


 アミは何かを言いかけて、けれど口を噤み、服の裾をぎゅっと握りしめた。髪と同じ金色の瞳を逃げるように分厚い雲が覆う空へと向けた。


「……雨、やまないね」


 まるで独り言のような声音だった。その言葉に、青年が何かを返すよりも早く、二人をひとつの影が覆った。

 長い指が転がったままの懐中時計を拾い上げる。

 低く穏やかな声が、雨音を掻き分けて届いた。


「——大丈夫。きっと晴れるよ」


 柔らかな声音だった。そっと手を添えるように。大丈夫だと背中を押すように。寄り添うような声だと思った。

 ばっと弾かれたように振り仰ぐ。相手を確認するより先に、体が子どもを守ろうと動いた。

 子どもを背に庇い、探るように鋭い視線を向ける。右手は反射的に腰に伸ばしていた。過剰とも取れる青年の行動に、その人は気分を害した様子もなく小さな笑い声を落とした。

 黒色の傘の影に隠れて顔立ちがはっきりしないが、同年代くらいの男だった。背中あたりまで伸びた黒髪が雫を含んだ風に靡いている。体つきに合っていないであろう、大きめのコートが印象的だった。


「はい、これ」


 咄嗟に差し出した手のひらに懐中時計が乗せられる。警戒を解かないままに受け取った。


「……ありがとう」

「うん。——君たちは、ここで雨宿り?」


 懐中時計に付いていた泥を払い落としてズボンに仕舞い、膝に力を入れて立ち上がる。同じくらいの背丈だな、とぼんやり思う。

 青年が首を傾げたらしい。傘が小さく傾く。


「傘を忘れたの?」


 子どもに尋ねるような声音だった。


「あー…。まあ」


 経緯を説明するわけにもいかないので、曖昧に頷くと、青年は傘の向こうで小さく笑った。

 それから、脇に抱えていた青色の傘を差しだす。


「これ使って」


 思わず傘に向けた視線を青年に戻し、アスタはきっぱりと首を横に振る。


「気持ちだけ受け取っておく」


 断られることがわかっていたのか、彼は手に持った黒色の傘をおどけるように揺らして見せた。


「気にしないで。嫌じゃなかったら受け取ってほしい。二つあっても使わないし、その子に風邪を引かせる訳にはいかないでしょ?」


 その通りだ。すでに二人ともずぶ濡れで、今更と言えば今更なのだが。

 アスタの足に隠れるように立っている子どもに視線を向ける。震える小さな手と揺れる金色の瞳を見て、心を決めた。


「——悪い。ありがたく、使わせてもらう」


 受け取ると、陰から覗く形の良い唇が笑みを深くした。なぜそんなに嬉しそうなのかと目を瞬かせる青年を置いて、黒の傘がそっと距離を取った。


「きっとそれは、その為のものだったんだろうから」

「は…?」

「うんん。それじゃあ、気を付けてね」


 穏やかな声と共にひらりと手を振って、青年は踵を返した。

 煙るように霞む霧雨の中に、黒い傘が溶けるように紛れていく。

 その背中が雨の中に消えるまで見送って、アスタは一応傘に仕掛けがないか確認し

ながらアミを抱え上げた。


「わっ」

「アミ。行こうか」 


 高くなった視線に目を丸くしていた子どもが、こくりと頷いた。


「うん」


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