第一章 今、青空の下 2
多くの人が行き交う表通り。商店が並び、客引きの声があちこちから聞こえてくる。
「あの店でいいか?」
金髪の少女と手を繋いだ青年が、ひとつの店を指差して尋ねた。
その指の先を辿って店を見遣った子どもが、こくりと頷く。代金を用意しながら、パンを売っている店へと歩み寄った。
「——サンドイッチをひとつ」
「はいよ」
代金と引き換えにサンドイッチを受け取った。包装紙を剥がし、青い傘を大事そうに抱きしめている少女にそれを手渡す。少女が小声で礼を言いながら受け取り、小さな口でかぶりつくのを見届け、アスタ・エーデルワイズは何気ない口調で店主へと話しかけた。
「少し騒がしいが、何かあったのか?」
「ああ、軍人が巡回を強化しているみたいだな。今朝、見かけない奴がいたら通報するようにって通達があったけど、カジェラは乗り継ぎの町だからなぁ。特にクラッスラとセントラルに用がある人達が大勢やってくる。見かけない奴なんてそこら中にいるよ。お客さんだって、この町の人じゃないだろう?」
「ああ。昨夜この町に着いたんだ」
「そりゃあ、大雨の中大変だったな」
店主が肩を竦める。少女がサンドイッチを食べ終えたタイミングでアスタは話を切り上げた。
「あの…」
アスタの足から覗くように少女が顔を上げ、愛くるしい顔立ちに笑みを浮かべた。
「おいしかったよ」
「そりゃ良かったよ、お嬢ちゃん。そろそろまた雨が降りそうだ。気を付けてな」
「ありがとう」
小さく頭を下げ、足元に置いていた旅行鞄を手に店を後にする。
見上げた先は曇天。店主の言う通り、一雨来そうな空模様だった。
隣を歩く少女が、淡い色のワンピースを揺らしながら見上げてくる。
「おにいさん、これからどうするの?」
「駅に行く。昨日言ったクラッスラまで、鉄道が出ているんだ。アミは鉄道に乗ったことはあるか?」
ふるふると小さな頭が横に振られた。そうか、驚くぞ。そう言ったアスタに、アミがわずかに目を輝かせて頷いた。
アスタがアミと出会ってから二日。ずいぶん慣れてくれた彼女と手を繋ぎ、その歩幅に合わせながら町の南側を目指して足を進めた。
アスタの目的地は商業都市クラッスラ。ウィスタリアの南部に位置する交易の町。大陸中から人と情報が集まる大都市である。そこでならば、アスタが求める情報を得ることができるかもしれない。
術士、もしくは刻印士と接触する。
それが、アスタの目的だった。
——人間は、刻印式という技術を持っていた。
付与した無機物を媒介として特定の効果を発揮する刻印式と呼ばれる術式。刻印式が刻まれた無機物が術具である。そして、術具に霊力を通して発動させることができる者たちのことを術士と、刻印式を刻む技術を持つ者たちのことを刻印士と呼ぶ。
アミの腕にある鉄の輪は術具だ。アスタでは外すことができない。無理に外そうとすれば、彼女の霊脈を傷つけるかもしれない。だから、専門家を探す必要がある。
術具に詳しい術士か刻印士に接触したいが、軍の意向に逆らって行動している以上、軍属ではないフリーの術士もしくは刻印士でなければならない。最低条件で難易度が高いが、クラッスラでなら情報を得ることができるかもしれないと考えたのだ。
ただ、移動手段でひとつ問題があった。コロナリアからカジェラまでは道中の宿を利用しながら徒歩で移動したが、アミの体力を考えるとクラッスラまでの移動は現実的ではないし、なにより治安が悪い。クラッスラに入る前の荒野地帯には、商業都市を目指す者たちを標的として金品や積み荷を狙う集団がいると聞いた。軍に見つかる危険性と安全性を天秤に掛け、鉄道を利用することにしたのだ。
カジェラには鉄道の乗換駅がある。ウィスタリアの各地を繋ぐ路線が複数乗り入れているため、鉄道の利用者が大勢行き交うのだ。その中に紛れ込むことができるだろうと思っていたのだが、想定以上に軍の動きが早い。乗客が多いであろう昼過ぎの時間帯を狙ったのだが。
「………わ」
駅が見えてくるにつれて多くなってきた人に、アミが小さく声を上げる。繋いでいた手にわずかに力が入り、アスタはちらりと少女に目を向けた。傘を力一杯握りしめている。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
顔を上げた少女がにっこりと笑う。無理をしているのだと察したが、掛ける言葉が見つからなかった。人が怖いのだろう。自分が狙われていることは、幼い彼女も気付いているのだろうから。
「アミ——」
声を掛けようとして。ぞくりと走った背筋が凍るような気配に、言葉を呑み込んだ。
——殺気か。
弾けるように顔を上げ、少し迷ってジャケットに隠すように佩いた短刀に手を伸ばす。
人混みの中を振り返り、そして。
目が合った。
青色の軍服。同色の軍帽から覗く金髪。頬に傷。なにより、アスタはあの男を知っている。その後ろに控えている軍人も、顔を見たことがある。
追手だ。
舌打ちをひとつ。アスタは戸惑っていたアミを左腕で抱き上げて走り出した。
小さな腕で抱えていた傘が、地面に転がる。
「あ、傘が…!」
「悪い、逃げるぞ!」
傘を気にする彼女に応える余裕はなかった。迷惑そうにみてくる人たちを掻き分けて、人気のない方へと走り抜ける。背後から軍靴が追いかけてくる音がする。
「待て!」
怒声。数拍置いて、アスタの足元で銃弾が跳ねた。アミが小さく悲鳴を上げる。
再度舌打ち。誰がいようとお構いなしか。
あれは軍属の中でも上層部と繋がりが強い部署。いわゆる暗部。たとえ無関係な人が負傷しようと、彼らは気にしない。
「待て‼」
誰が待つか、クソったれ。背後からの怒声に、内心罵る。
アスタの腕の中でアミが首をぐるりと回した。背後に追ってくる男を見たのだろう、小さく息を吞む音がした。あの中にはアミを利用して殺そうとしていた奴もいる。身を縮ませる少女を抱える腕に力を込めた。
「アミ、舌を噛むなよ」
少女が無言でうなずく。人混みから十分距離を取ったところで、左の腕輪に装着している身体強化の刻印式を起動する。霊力を吸われる感覚。どくん、と心臓が跳ねた。背後の奴らとの距離を一気に離すために足に力を込めて。
気付いた。
前方十数メートル先。アスタの行く手をふさぐように、軍服を着た男が銃器を構えている。
「しまっ…!」
挟まれた。即座に身体強化の刻印式を中断。左耳に装着した視覚強化の刻印式を起動する。
左目が燃えるように熱くなり、視界に映る世界が置き去りにされたように速度を落した。
「っ‼」
弾道を遮るように旅行鞄を投げる。同時に、アミの頭を抱えるようにして体を右側に捻った。一瞬後、アスタの左側を銃弾が通過したのを横目で確認しながら、転がるように物陰に飛び込んだ。背後から銃弾が壁を跳ねる音と、罵る声が追いかけて来る。
周囲に人の気配がないか探りつつ、再度刻印式を切り替える。視覚強化から、身体強化の刻印式へ。強化した脚力で路地裏を駆け抜ける。
「アミ、怪我はしていないな!」
「…うん。おにいさんは」
「大丈夫だ。怖い思いをさせて悪いな」
町の外には深い森がある。そこまで逃げ切れば、追跡は困難だろう。最短の道をたどりながら、アスタは自身の失態に唇を噛んだ。
先ほどの殺気。あれは、特定の相手に向けられたものではなかった。
誘い出された。無造作に放たれた殺気に咄嗟に反応してしまったアスタは、彼らにまんまと炙り出されたのだ。彼らがなぜ、アスタたちがカジェラに滞在していることを察知したのかはわからないが、情報を求めてクラッスラに向かうと予測していたのかもしれない。
だが、反省は後。今はまず彼らを振り切るのが先だと、駆ける速度を上げようとして。
「……か…はっ」
どくんと、霊脈が脈打った。心臓が跳ねる。思わず足を止めた。
「こんな、時に……!」
規則正しく流れていた霊脈が乱れ、刻印式に回していた霊力が体内で好き勝手に暴れている。力が抜け、がくんと膝を折った。
落下しかけたアミが小さく悲鳴を上げる。幼い体を抱えるのも限界で、それでも出来うる限りそっと少女を地面に降ろした。
「おにいさん、どうしたの⁉」
心臓の辺りを握りしめて呻くアスタの服を、アミが必死に引っ張っている。泣きそうな表情で走り抜けてきた道を振り返る少女の肩に、水滴が跳ねた。
「あ……」
ぽつり、と。空から落ちてきた雫が、息を整えるアスタの肩でも跳ねる。
——雨だ。
細かな雨粒が、たちまちアスタとアミの体を濡らしていく。
地面を濡らす音に混じって、背後からばたばたと近づいてくる軍靴の音に、アスタは舌を打った。
「くそ…っ」
追い付かれた。左腕の術具を睨む。装着を強要されたこの術具には、霊脈を乱す刻印式が刻まれているらしい。
「おにいさ…」
「下がっていろ」
追い付いてきた軍人は三人。全員いる。別れなかったのか、それとも他にまだ人員がいるのか。
片膝を付いたまま、左腕で少女を庇いながら追手へと向き直る。暴走していた霊脈は一応の落ち着きをみせていた。息を整えながら、じりじりと縮まっていく距離を測る。
頬に傷のある金髪が、無感情に口を開いた。
「辛そうだな」
「お陰様で」
「降伏の意思は?」
「——ない‼」
身体強化術式を最大出力で再起動し、ジャケットの裏に隠していた銃を構えて発砲。金髪には避けられたが、その背後に控えていた背の高い男の肩を貫いた。蹲って呻く同僚には目もくれず、金髪が銃の安全装置を外す。
「ならば死ね」
酷使された霊脈が再び悲鳴を上げていたが、気にせず視覚強化の刻印式に切り替える。構えられた銃を目掛けて放った銃弾が、雨粒を弾きながら狙い違わず銃身を貫いた。衝撃で銃が弾け飛んだ。
「ちっ」
金髪が態勢を立て直し、腰に下げた剣を抜こうとするよりも早く銃口を向けた。金髪が咄嗟に背後へと飛び退る。同時に動こうとしたもう一人も視線を向けて牽制。
一瞬の膠着を見逃さず、追撃を仕掛けようとして。
視界の端で捕らえた光景に、ひゅっと喉の奥が鳴った。
わずかに意識から外れてしまっていた背の高い男が、いつの間にか起き上がり、銃口をアミに向けている。咄嗟に体を捻り、男へ発砲しようとするが、逆に距離を縮めてきた金髪に邪魔をされた。
「く、そ…!」
引き金に掛けられた指の動きが、いやにゆっくりと見えて。
そして。
「——それはダメ」
冷気を孕んで吹き抜ける冬の風のように、冷ややかな声がした。突然現れた気配に、その場のすべてが静止する。それは瞬きひとつの時間だったが、戦況を変えるには充分過ぎた。
静寂に煙のような雨を切り裂く音が響かせながら、ひとつの影が駆け抜けて。
どご、と。
容赦の欠片もなく放たれた回し蹴りが、男の側頭部に叩き込まれた。
「う、わぁ」
思わず声が出るほど鮮やかで痛烈な一撃だった。吹っ飛ばされた男が地面を転がっていく。
呆然と立ち尽くすアミの隣に、とん、と軽やかな音を立ててひとつの影が降り立った。
「大丈夫?」
穏やかな声で気遣いながら、長い黒髪の青年がそっと少女を抱き上げている。強い奴だと思った。動作には無駄がなく、こちらに背を向けながらも一切の隙が無い。
呆けたのは一瞬。はっと我に返り、金髪を牽制しながらふたりに駆け寄る。
アミを片腕に抱いた青年がアスタを見遣る。長めの前髪から覗く紫の瞳がまっすぐにアスタを射貫いた。
「着いてきて」
一言。囁くような声は低く、確かにアスタの耳に届いた。
アスタが小さく頷いたのと同時。青年がアスタと追手達との間に、何かを叩きつけた。空気が抜けるような、切り裂かれるような音がして、投げつけられた発煙弾から白い煙が吹きあがる。
「ほら、はやく」
その声に、背中を押されたように足を動かす。視界が悪い中、前を走る黒色のコートを目印に走り抜けた。
銃声も殺気も、待てと投げられた怒号も煙の中に置き去りにして、細い裏道を進む。人の気配がない道を選んでいるのか、人影すら踏まずにカジェラの町から脱出した。
カジェラの南東には深い森が広がっている。雨粒がぽつぽつと滴る木々に隠れるように身を潜め、二人は息を整えた。はあ、と大きく息を吐いた青年がアスタを振り返る。
「無事かい?」
「ああ」
気遣う言葉に短く言葉を返し、追手がいないこと確認する。背後にはただ木々が広がるだけで、その先にあるカジェラの町すら視認できない。安堵の息を吐きながら、アスタは全身の力を抜いた。
青年が腕に抱えていた少女をそっと降ろした。小さな足がぬかるんだ地面でバランスを崩し、黒のグローブに覆われた手がその肩を支えている。
「アミ」
振り返り、汚れるのも構わず少女の傍に膝をつく。アスタの勢いに目を丸くしている少女には、傷一つない。肺の中が空になるほど深く息を吐いた。
「——よかった」
「おにいさんは、だいじょうぶ?」
怖い思いをしただろうにこちらを気遣う姿に、アスタは苦く笑って頷いた。
「大丈夫だ。また怖い思いをさせてしまったな」
「うんん。だいじょうぶ、だよ」
にっこりと笑う彼女に、今度こそ笑みを返し、アスタは周囲を警戒していた青年へと目を向ける。
見上げた姿に、ふと既視感を覚えた。
背中まで伸びた髪。ぶかぶかのコート。そして、そう。あの時は、黒色の傘を持っていた。
そっと背中を押すように、脳裏に蘇る声がある。
——大丈夫。きっと晴れるよ。
「あっ」
「うん?」
「お前、傘の」
コロナリアで出会った、傘を譲ってくれた青年。あの時と同じように、ふふ、と青年が朗らかに笑った。
「ああ——うん。また会ったね」
傘の中にいた彼は、こんな顔をしていたのか。
性別を感じさせない端正な顔立ち。背中まで伸びた黒髪は、横髪を旋毛の辺りで無造作に結わえている。顕わになった左耳には薄い紅を落とした水晶の飾りが揺れていて。長いまつ毛に縁取られた、夜空を映しとったような色の瞳が印象的な、どこか浮世離れした青年だった。
率直に、綺麗だと思った。
「また助けられたな。ありがとう」
「どういたしまして。二人とも、怪我がなくてなによりだよ」
肩を竦めるようにして青年が笑ったのと同時。その背後の木が、ざわりと揺れた。
反射的に武器に手を伸ばそうとしたアスタを、片手を上げて留めて、青年がからかうように軽やかな声音で笑う。
「早かったね」
「うるせぇよ。どこまで逃げてやがる。探すのに手間取ったじゃねぇか」
悪態を吐きながら現れたのは、短い黒髪の少年だった。鋭い目つきが印象的で、青年と同じ水晶の飾りが右耳で揺れている。彼はアスタとアミを鋭い目つきで一瞥すると、舌打ちせんばかりの口調で。
「ほらよ、あんたらのだろ?」
そういって投げ渡されたのは、アスタが投げ捨てた鞄と、アミが落としてしまった傘だった。
慌てて受け取る。ぞんざいに扱った割には、目立った傷はなかった。事態が呑み込めないまま呆然と礼を告げると、ふんとそっぽを向かれた。その態度に青年が少年の頭をぺしりと叩く。抗議の声を上げる彼を無視して、青年はアスタとアミに向き直った。
「それで、君たちは……。いや、僕から名乗るべきだね」
形の良い唇が、笑みを浮かべる。
それはどこまでも穏やかな、敵意の欠片もない、綺麗な笑みで。
「僕はエリス・ユーフォルビア。——さて、君たちは?」
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