第二章 いつか、胸を張って 4


 燃えるように真っ赤な空が広がっていた。

 本日の宿泊代として買い出しを頼まれていたアスタは、メモを片手に商店を巡っていた。何せ初めての町だ。昨日はすぐにイヴェールに向かったので、地理何てわかる筈もない。案内を頼もうかと思ったエリスには、なにやら用事があるとかで断られてしまった。気を付けてね、なんて手を振って。

 商店街まで出れば全部揃うとは言われたが、しかし。


「——ってもなぁ」


 建物が多いわけではない。道が入り組んでいるわけでもない。

 だというのに、気を抜くと迷ってしまいそうな雰囲気があった。どこか、歓迎されていないような。

 ふと立ち止まる。メモは失くさないように折りたたんでポケットに入れた。

 背後から音もなく近寄ってきた気配へと回し蹴りを一発。手ごたえがあったが、気配はもうひとつある。すぐさま後方へと距離を取って。

 そこにいた人物たちに、すっと目を細めた。


「——ローダン?」


 ローダン・マングルス。逆立った茶髪に三白眼。キリカ・スターチーの指揮部隊に抜擢された同期がそこにいた。隣には後輩であるルード・リンネリスもいる。


「おいおい、心配して駆け付けた友人になんたる仕打ち」

「心配?友人?誰が。吐くならまともな嘘を吐け」


 間違ってもアスタとローダンは友人関係ではなかったし、心配なんてし合う関係でもなかった。上司であるキリカ・スターチーの命令で追ってきたと考える方が余程自然だ。

 本人も無理があると思ったのか、あっさりと白状した。

 実験のことを嗅ぎつけて、追ってきたのだと。


「こっちだって実験のことは知っている。お前が逃げている理由だって見当はついている。お前はお優しくて甘ちゃんだからな。情報を寄越せ」


 元同僚の提案に対して、返事の代わりに鼻で笑った。


「情報の代わりにお前が出せるカードはなんだ?俺が望むものは用意できるか?できないからお前が来たんだろう、ローダン。同期なら信頼するとでも思ったか?」


 ローダンが肩を竦める。その通り、交渉材料として用意できたものは何もないと認めた上で、けれど、と揶揄するように彼は口の端を歪めた。


「同期である俺は信用できないくせに、どこの誰とも知れない男は信用しているんだな?」


 エリスのことだ。やはり知られていた。

 アスタは含みのある顔で微笑んで返す。


「もちろん」


 先輩二人のやりとりを黙って聞いていた少年が肩を怒らせ、勢い込んで訴える。


「実験については大まかにですが聞きました。あんなこと間違っている。先輩だってそう思うでしょう?俺たちにも事情を話してください。協力しましょう」


 若いな、と思った。笑みを崩さないアスタに、ルードがさらに訴え掛けようとするのをローダンが止める。


「お前な。なぜ俺がお前の居場所を突き止めることができたと思う?現総統派の奴らの後をつけたからだ。なら、あいつらはどうやってお前たちの居場所を知った?その理由があの男にないと、どうして言える?」


 その言葉にはっとする。


「待て。あいつらが、もうここに来ているのか?」

「そうだ。居場所が割れた理由を考え……おい!」


 ローダンが何やら言っていたが、もう聞いちゃいなかった。元同僚たちを置き去りに走り出す。

 アスタがスリージエに向かうことになったのは、エリスからの提案があったからだ。それがどうやって居場所を知ったのか。わかりやすい理由を求めるなら、答えはひとつ。

 ——けれど。

 自分でもとても不思議なのだけれど。

 エリス・ユーフォルビアを疑う気持ちは、これっぽっちも湧かなかった。






 燃えるように真っ赤な空が広がっていた。

 かつん、かつん、と。

 路地裏を迷いのない足取りで進んでいたエリス・ユーフォルビアは、ふとその足を止めた。

 どこからか子どもたちが走り回るにぎやかな足音と、弾む声が聞こえてくる。

 ——鬼さんこちら。手の鳴る方へ。

 ふふ、と。声だけが笑みの形を作る。

 紫の瞳を建物の影へと向け、歌うように赤く染まった虚空へと言葉を投げる。


「鬼ごっこって言う遊びらしいよ。知っていた?」


 追い手を鬼として、他の子どもが逃げるのを追いかけて捕まえる。そうして捕まったものが次の鬼になるのだ。東の町ガランサスに伝わっていた遊びだったと聞いた。似たような遊びは、大陸の各地にある。

 ガランサス。瘴気に呑まれた最初の地。そこにはかつて、小さな国があった。きっと、元々その国で生きた子どもたちだって遊んでいたのだろう。


「ねえ、鬼ってなんだと思う?」


 人を喰らうもの。目に見えない脅威。それは悪魔ともお化けとも、怪物とも呼ばれる。

 人を害する力があって、理解ができなくて、決して敵わないもの。自分ではどうにもできないものに、人は名前を付けた。恐怖を形とするために。

 そして、呼び名は数多くあれど共通するのはひとつ。——人ではない。

 僕はね。不気味なほどに柔らかな声が続ける。


「あんたたちを鬼だと思ったよ」


 人ではないと思ったよ。

 夜に沈む陽射しに烟るように彩られ、かつての子どもが笑う。

 それはどこまでも美しく、透明な笑みだった。

 まるで血を纏ってなお鮮やかに咲く、赤く朱く紅い、花のように。


「出てきなよ。それとも、臆病者と呼ばれたい?」


 応えるように影からひとりの軍人が姿を現した。

 青色の軍服。同色の軍帽から覗く金髪。その頬には傷がある。

 アスタから聞いていた特徴。追手の軍人だった。


「彼に付けられている術具に、追跡用の刻印式を仕込んでいたでしょ。ここまで追って来ると思ってたよ」


 アスタの術具に仕掛けられていた刻印式に気が付いたのはクラッスラに着いてから。アスタの動向が軍にバレるのがあまりにも早すぎた。その理由を考えたとき、一番に気になったのが右腕の術具だったのだ。アスタは不自然なほどに術具を隠していたが、四六時中近くにいたのだから盗み見る機会は何度もあった。

 術具に刻まれていた刻印式は二つ。ひとつはアスタが隠そうとしていた方。恐らく彼はこちらしか知らない。もうひとつの、エリスの耳を飾る発信用と同じ刻印式は、存在にも気が付いていないだろう。知っていたら対策を取っていたはずだから。


「お前は何者だ」


 軍人が低く問う。その手には銃が握られていた。

 銃口を向けられた青年は、どこまでも余裕を崩さずに肩を竦めてみせる。


「こそこそ調べていたくせに、名前すらわからなかったの?」

「どれだけ調べても、お前の正体がわからなかった。お前は何者だ。目的はなんだ」


 エリスが喉の奥でくつくつと笑う。それは、子どもたちの前では決して見せない表情だった。


「想像くらいしたら?あの子を助けるためだよ。他に何があるの?」

「信じると思うか」

「信じてもらう必要なんてどこにもないよ。でも、命令のままに子どもを殺しに来たお前と一緒にしないで。うっかり殺したくなる」


 ついうっかり滲んだ殺気をため息ひとつで掻き消して。


「僕が何者でも、何のために動いていたとしても、お前には関係がない。そうでし

ょ?僕から何を聞いたとしても、お前は指示の通りに動くしかない。だって自分じゃ何にも考えられないし、なぁんにも選べないんだから」


 けらけらと、嗤う。

 心の底から、馬鹿にするように。


「見て見ぬふりでもしなよ。知らないふりでもしなよ。聞かなかったことにでもしなよ。全部誰かが悪くて、命令を受けただけの自分はなぁんにも悪くない。そうやって、ほら。僕を殺してみなよ」


 嫌悪に貌を歪めて尚、青年は美しかった。

 残酷に。嘲るように。どこまでも冷めた目で。

 ——嗤う。

 まるでお前のせいだと、罪人を指差す死人のように。


「お前が名乗ったら、名前を教えてあげよう。できる?自分の名前を晒して、その引き金を引ける?」

「——そんな挑発に、乗ると思うか?」

「乗らなくていいよ。こっちは別に、お前の名前になんて興味ないから」


 ぶれる銃口が、男の動揺を示す。優位に立っているのは武器を構える男のはずなのに。気圧されているのは男の方だった。

 その時、一触即発の空気を裂くように、ぱん、と銃声が一回響いた。エリスの雰囲気に吞まれていた男が、はっと空を仰いだ。


「イヴェールと言ったな。俺の部下が店に到着した。今のが突入する合図だ。あの裏切者が外出していることは確認済み。そしてお前はここにいる。あの店が相手だろうと、問題なく制圧できる」


 エリスが目を丸くする。

 その様子に勝ち誇った——というより、安堵でもしたような表情で。


「そばを離れるべきでは、なかったな」


 軍人が引き金に手をかける。この距離だ。外すことはない。わざとらしく足を狙っているから、始末ではなく拘束が目的。エリスの正体も、目的も、彼らは何もわからないから。

 ——わからないのなら。

 彼は初手で、引き金を引いておくべきだった。


「だって。こうでもしなきゃ、お前たちと接触できないでしょう?」


 不安を煽るような声音だった。誰かの背中を、嗤いながら突き飛ばすような口調だった。

 何を思ったか、焦ったのか。思わずといった様子で、男が引き金を引いた。

 ぱん、と消音器で抑えられた銃声がして。


「——は…?」


 銃弾は、エリスの体に掠りもせずに壁を跳ねた。

 呆然とする男に、エリスはいっそ慈愛に満ちた目を向ける。間抜け面だなぁ、と。

 足を引いた。エリスがしたことはそれだけだ。照準も合わせずに、適当に撃ったと言っても過言ではない銃弾が、そもそも当たるわけがない。銃の扱いには慣れているのだろうが、咄嗟に発砲したせいで衝撃も殺しきれていなかった。

 と、冷静に考えればわかるはずのことに、男は思い至らない。

 恐怖で思考が狭まっていることにすら気が付かない。


「あの店が相手だろうと、問題なく制圧できる?——本当に?」


 ひゅっと、引きつれたように息を呑み、男がエリスの横を潜って走り出した。その先には店がある。仲間を心配したのか、それともエリスから逃げようとしたのか。

 黒に呑まれるように溶けていく背中を見送って、青年は愉しそうに嗤った。

 とうに太陽は沈んでいる。


「——さあ、夜が来るよ」






 日が沈み。夜の帳が落ちて。

 エリスの前から走り去った男は、イヴェールという店に辿り着いた。店の裏側から敷地内へと侵入する。

 行く手を遮るように立ち並ぶ木々を避け、やがて広がった場所に出た。

 そこで、見たのは。


「——な」


 地に伏すふたりの部下。鮮やかに咲き誇る薄紅色の花。そして。


「いらっしゃい。良い夜ね」


 淡い月の光を受けて。

 美しく、麗しく、怪しく微笑む。

 この世のものとは思えないほど美しい——紅い少女を。

 ざっと吹き抜けた風が長い髪を舞い上げた。細い指で紅色の髪をそっと抑え、少女が一歩足を進める。気圧されるように、一歩、退いた。

風に舞う花が、月の光を弾いて夜の闇に紅く閃く。まるで鮮血のようだと、頭の隅で思った。

 耳元で、誰かが囁く。

 ——ねえ、鬼ってなんだと思う?

 人を害する力があって、理解ができなくて、決して敵わないもの。自分ではどうにもできないもの。

 人ではない、なにか。


「あら。戻ったのね」


 紅い少女がひらりと手を振った。振り返ると、いつの間に追いついたのか、先ほど

の青年が手を上げて応えていた。ぞわりと、うなじを直接撫でられたような悪寒が走る。殺気だ。

 反射的に動き出すよりも早く、がんっと、首のあたりに強い衝撃があった。

 ああ、なるほど。

 誘い出されたのは自分の方だったのか。



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