第二章 いつか、胸を張って 3


 エリスの妹で、セージの姉だという少女とは、夕食の席で顔を合わせた。

 ルリアと名乗った少女は、弟とよく似た顔立ちをしていた。双子らしい。膝を折ってアミと目線を合わせ、柔らかい声音で話しかける姿は、兄であるエリスに似ていた。


「今日はびっくりした。兄さんが誰か連れて来るなんて、初めてだもの」


 悪戯っぽく目を細め、首の後ろで一つに括った長い黒髪を揺らして、少女が笑う。


「ね、あなたは兄さんのお友達?」

「あー、えーっと」


 ちらりとエリスを伺おうとして、やめた。こういうのは、言ったもの勝ちだって知っている。

 堂々と頷いた。


「そうだ」

「えっ」


 否定すると思われていたらしい。

 意外そうな声が後ろから聞こえてきた気がしたが、一旦無視しておくことにする。


「やっぱり!良かった。兄さんをよろしくね」


 エリスの声は聞こえていたはずだが、妹も聞こえなかった振りをすることにしたらしい。


「ちょっと、ルリア。よろしくって何。よろしくって」

「よろしくはよろしく、よ。目を離すとすーぐどっかに行っちゃうんだから。ちゃんと捕まえておいてね」

「……妹が生意気になった」

「それより兄さん、ちゃんと寝てる?」


 心配そうに尋ねる妹の頭をエリスがわしゃわしゃと撫でる。寝ているよとも寝ていないよとも言葉にしなかったが、長い付き合いの妹には伝わったのだろう。仕方ないなぁという表情で撫でられていた。心なしか、嬉しそうでもある。


「……なに」


 なんとなく拗ねたような表情で取り残されている弟の方を見遣ると、視線に気付いた彼に不機嫌丸出しで睨まれた。


「混ざらないのか?」

「混ざると思うか?」

「混ざりたそうにしているなとは思う」


 見たままを伝えてみると、セージは、ちっと高らかな舌打ちを返してアミを構いに行ってしまった。

 と、よく通る声がエリスを呼んだ。振り返ると、入口のところでシオンが手招きしている。


「——ちょっといいかしら」

「はいはい」


 先に食べていてと言い置いて、エリスがシオンと共に扉の向こうに消える。

 すっと近寄ってきたルリアが、内緒話のような小声で話しかけてきた。


「私ね、少し前からここでお世話になっているの。兄さんって心配性だから、シオンさんのところなら安心してくれるかなって思って。シオンさんって強いんだよ、知ってた?」


 だろうな、と同意する。一目見てわかった。彼女の身のこなしに隙はなく、何の疑いもなく強いのだと感じた。

 不意打ちで挑んでも、返り討ちにされるだろう。やらないが。


「心配性で警戒心の強い兄さんが、あなたのことを信じて一緒にここまで来たのね。これってすっごいことだよ」


 嬉しそうに弾む声が言う。本当に驚いたんだよ、と。


「兄さんとはどうやって出会ったの?いつから知り合い?最近だよね、私知らなかったもん」

「エリスには助けてもらったんだ。ここに来るまでも、何度も助けてもらった」


 出会った時も、その後も。エリスには何度も助けられた。

 優しくて、頼りになる奴だと思う。弟のセージだけでなく、アミのことも当然のように気にかけてくれた。軍は嫌いだと言いながら、軍人であるというだけでアスタを否定しなかった。

 エリス・ユーフォルビアという青年は、公平で、誠実だ。

 兄弟と出会ってからここに来るまで、たぶん、楽しかった。

 やらなければいけないことがあって、考えなければいけないこともたくさんあって、武器を持って追って来る奴らがいる。でも、ひとりではないということが、こんなにも歩きやすいとは思わなかった。


「聞かないんだね、兄さんのこと。私たちに」

「エリスのことは、エリスに聞く。友だちだから」


 自分で言った友だちの響きに少し照れくさくなる。何の含みもなくこの言葉を使うのはいつ以来だろうか。子どもではなくなってから初めてかもしれない。背中がかゆくなるようなむずがゆさと、弾むような面映ゆさがあった。

 双子がよく似た顔を見合わせる。それから、ひとりは面白くなさそうにそっぽを向いて、もうひとりは嬉しそうに何度も頷いた。


「——うん、うん。そうね。その方がいいわ」


 そのタイミングで戻ってきたエリスが、妹の笑顔と落ち着かない様子のアスタを交互に見比べて、憮然とした表情を浮かべた。


「——あげないからね?」

「何言ってんだ?」





 ウィスタリア国軍総司令部上官室にて、報告書を呼んでいたハウレン・ナルキースは、ノックの音に顔を上げた。入室の許可を告げ、入ってきた部下を迎える。


「——すまないね、リリタール。急に戻って来てもらって」


 金髪に頬の傷。クラッスラから急遽戻ってきたばかりの男は、乱れのない敬礼を返した。

 ティアン・レオントがクラッスラから別の町に移動したことを知り、追うために準備をしていたところにナルキースから一度戻れと連絡があったのだ。部下たちにはレオントを追うように伝え、リリタールだけが本部に戻ってきた。


「ナルキース中将。何か問題がありましたか」

「レオント大尉の居場所はわかったのか?」

「はい。クラッスラからはすでに移動しており、恐らくは東——スリージエにいるかと思われます」

「スリージエか。あの町はなぁ…」

「一年前の一件ですか」


 緘口令が敷かれていたはずだが、ヤフランもある意味では関係者だった。


「そうだ。まあ、大丈夫だろう」


 ナルキースは、ふと感じた嫌な予感を振り払うように手をひらひらとさせて。


「言っておかなければいけないことがある」

「はい」

「先日、コロナリアで起きた襲撃の一件。相手はおそらくハイリカムだ」


 実験体である子どもの護送中に起きた襲撃事件。コロナリア郊外で発生したため、オレアンダーの関与も疑われていたが、関わりを示す証拠はどこにもなかった。


「やはりそうでしたか。最近活発に動いているとは聞いていましたが…」

「近々戦闘になるかもな。面倒なことだ」


 ため息を吐く。軍内部は権力闘争。外では反乱分子。自業自得と言われればその通

りだが、少々疲れる。

 加えてティアン・レオントへの対応と、実験の処理もある。目が回りそうだ。


「そろそろ引退かね」

「ご冗談を。トレイト様はまだ幼い。あなたの後ろ盾が必要でしょう」

「そうだな。それに、やり残したこともある」

「やり残したことですか」

「そうだ。お前にも手伝ってもらいたい」


 もう十年以上前のことを、ハウレン・ナルキースは昨日のことのように思い出せる。

 大人たちが嗤う声と、子どもの悲鳴。人はどこまでも悪辣で醜悪なのだと、身を以て知ったあの日。

 自分という人間はどこまでも、自分の為にしか動けないのだと、思い知ったあの日のことを。






 夜。

 店の明かりが消えて、子どもたちも町も寝静まった頃。


「——どこに行くんだ?」


 門に掛けていた手を止めて、黒髪の青年が振り返った。

 空気に溶けるように気配を消していたアスタを見つけると、彼は夜遊びする子どもでも見つけたような、どこか呆れたような様子で。


「寝ていなかったの、アスタ」

「お前もな、エリス」

「僕は散歩だよ。寝れなくってね」


 飄々と肩を竦めてみせるエリスに、誤魔化す気があるのかないのか。多分ないのだろう。


「シオンから聞いた。報酬を支払う必要があるのは、俺も同じだろ」


 報酬。提供された情報と、それから宿代。金銭の代わりに労働で支払ってもらうのだと、女店主は言った。


 ——最近、治安が良くないことは知ってる?たまにね、エリスに用心棒みたいなことをお願いしているの。彼一人で何の問題もないけれど、君にも関係ある話だし。黙っておくのはフェアじゃないでしょう?


 エリスは何も言わないだろうと彼女は言った。アスタもその通りだと思った。だから、そっと抜け出そうとする彼を追いかけてきたのだ。

 夜色の瞳が猫のように細くなる。軽やかな足取りで、彼は門の外へと足を踏み出した。それが、アスタには線をはっきりと線を引いているように見えた。


「ちょっとした運動だよ。僕一人で充分」

「そうだな、知っている」


 彼が強いことは、アスタだって知っている。

 欲しいのは、その言葉ではないのだ。


「だから、俺も行く」


 当然のように隣に並んで見せる。立ちたいのはこの場所だと示すために。

 肺が空になるほど深々と息を吐いて、エリスは長い指をアスタに突き付けた。


「だったら、条件がひとつ。——刻印式は、絶対に使わないで」

「なぜだ?」

「確証はないけど、刻印式は使わない方が良い。聞けないなら置いていくから」

「?わかった」


 まったくもう、とぼやきながら歩き出す背中を追う。夜を溶かしたような黒髪が、今はきっちりとひとつに束ねられて揺れていた。


「アスタ、武器は持っている?」

「銃はもう弾が残り少ないから、使えるのはこれだな」


 ジャケットに隠すように佩いていた短刀を見せる。先を歩いていたエリスが足を止めて、月明かりを頼りに短刀をまじまじと眺めた。正確には、短刀を収めた鞘を。


「ねえこれ、軍の?」

「いや。父の形見だ。どうかしたか?」


 父は十二年前に亡くなった。亡くなる前に、お守りだから持っていなさいと短刀を渡されて、そのまま。家から持ち出せたものはほとんどないから、思い出の品はこれくらいだ。

 形見と聞いてエリスが一瞬しまった、という顔をした。こいつ意外と顔に出るよなと思う。出会ったばかりの頃は常に笑顔を浮かべていた印象が強いから、少しは距離が縮まったのだなとも思った。


「うんん。似ている気がしたんだけど、気のせいかな」

「似てる?」

「うん。僕も似たようなものを持ってるって、それだけの話」


 気付いていたでしょ、とエリスがコートに隠れた背中に手を回す。

 朝日が差し込む、あの部屋での一幕のように。


「そうか」

「そうだよ」


 それだけだった。アスタは追及しなかったし、エリスもそれ以上何も言わなかった。

 何も言わないまま並んで歩き出す。それで、よかった。

 辿り着いたのはイヴェールから少し離れた川岸だった。もう使われていないのだろう。草が覆う端には、錆びついた線路が敷かれている。コルチカムに続いているんだよ、と同じように線路の先を辿るエリスが教えてくれる。

 ふと、脳裏に浮かんだのは懐かしい我が家と。それから。


「アスタ?」

「いや、なんでもない。……あいつらか?」


 橋の向こう。数人の男たちが現れた。闇から抜け出してきたかのように暗い服に身を包んだ、一目で怪しいとわかる男が全部で五人。思っていたよりも少ない。偵察かもねと隣から心を読んだかのような言葉が飛んだ。

 クラッスラまでの道中で相対した奴らと、よく似た服装をしていた。男たちは自分たちの行く手を塞ぐように立ちはだかる青年たちに気が付くと、警戒しながら立ち止まった。動揺がこちらまで伝わってくる。その様子に強くはないと判断した。

 立ち止まった彼らの代わりに、エリスが一歩足を進めた。


「一応聞いておくけど、ここで引き返す気はある?」


 笑みすら含んだ声だった。どこか馬鹿にしたような態度はわざとだろう。

 先頭に立っていた、おそらくリーダー格の男が肩に担いでいたライフルを構えながら、太い眉を跳ね上げる。


「——てめえ、軍人か?」

「まさか、違うよ」

「くそが、何でバレてやがる!」


 色めき立つ男たちを前に、エリスはいつもの調子を崩さずにアスタへと向き直った。


「だめだ、話が通じない。馬鹿はいくら潰しても湧いて出てくるものだね」

「ん?これが初めてじゃないのか?」

「初めてじゃないね。報酬代わりに何回か潰しているんだよ」


 準備運動でもするかのように屈伸して、ぐっと腕を伸ばして。青年はまるでこれから遊びに出かける子どものような顔で笑った。


「でも、ふたりってのは初めてだ。うん、ひとりじゃないってのはいいものだね」


 どこまでも余裕というか、相手にしない青年に業を煮やしたように、何やら叫びながら男たちが距離を詰めてきた。腰を落とし、拳を構えて迎え撃つ。刻印式は使うなと言われたので。

 銃を構える隙も与えず、まずは先頭のリーダー格を沈める。拳一発で倒れ伏した姿に、思わず弱いな、と零した。

 エリスの方はというと、自分よりも体格の良い男を景気よく投げ飛ばしていた。地面に叩きつけた後で体重をしっかりと乗せた踵落としをお見舞いしている。思わず顔を顰めた。あれは、痛い。

 それを隙と見たのか、悠長にライフルを構える男との距離を詰め、アスタは側頭部に回し蹴りを叩き込んだ。めまいを起こしてふらつく体にトドメを刺したのと同時、最後の男の急所を蹴り上げる友人の姿が目に入った。


「うっわ」


 問答無用で地面と仲良くさせられている男に同性として同情する。


「かわいそうに」

「何か言った?」


 戦闘にもならなかった。これは確かに運動が正しい。伸びてしまった男たちをよっこらせと運んで重ね、椅子代わりにしている友人の姿にちょっと引きつつ、一応周囲を警戒しておく。


「……どうするんだ、それ」

「武器を取り上げて放っておくよ。朝までに起きられれば帰っていくだろうし、起きられなかったら捕まるでしょ」

「お、おお。……哀れな」


 朝までには到底起きられないだろう彼らの上から、エリスがぴょん、と軽やかな動作で飛び降りる。呻き声が聞こえた気がしたが気のせいだ。気のせい。


「うん、刻印式は使わなかったみたいだね」

「使うなって言ったのはお前だろ。なんでだ?」

「あとで説明するよ」


 ふわ、とエリスはあくびを噛み殺して。


「帰ろう、アスタ」


 当たり前のように、そう言った。



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