第二章 いつか、胸を張って 2


 イヴェールという店は、スリージエという町の奥に居を構えていた。

 庭に並んだ木々が店を覆い隠している。古びた建物だった。圧倒されていたアスタを横目に、エリスが黒塗りの門を押し開いて、敷地内に入っていく。当然のようにセージがその後に続いた。アミと手を繋いだまま、アスタも後を追う。

 門を越え、導のように敷かれた石畳に足を置いた刹那、ざ、と吹き抜けた涼やかな風が世界を塗り替えた。しんと静まった森の奥深くに迷い込んだのかと迷うような、冷たく澄んだ空気。地面を覆っていた落ち葉が舞い上がっていく様子を思わず見送る。


「おにいさん?」


 くいっと小さな手に引かれて我に返る。なんでもないと返して、入口で待っていてくれている兄弟を追いかけた。


「どうかした?」

「いや、なんでも」

「そう?」


 階段に足を掛けていたエリスが店へと向き直ったのと同時、まるでタイミングを計っていたようにドアが開いた。思わず身構えるアスタを制して、エリスが出迎えるように立つ女性に声を掛ける。


「やあ。——桜が見たいんだ」


 合言葉が必要なのだと事前に聞いていた。今のがそうなのだろうか。聞こえた花の名前にアスタの表情が険しくなる。

 女性はわかっているというように、にっこりと笑った。


「承知しています。奥へどうぞ」

「ありがとう。行こう」


 エリスに続いて店内へと足を踏み入れる。落ち着いた色調で整えられた店内。ほのかに甘い香りが漂ってくる。数人の客が窓際の席で談笑していた。いい店だな、と率直に思った。

 カウンター席の後ろを通り抜けて、店の奥へと足を進める。外見通り建物の中は広かった。迷路のように続く廊下を、悩む様子もなく足を進めるエリスの後ろを歩きながら、いくつかの部屋の前を通り過ぎた。


「——ここだよ」


 エリスが立ち止まったのは、多分一番奥に位置している部屋の前だった。ノックを

三回。ドアの向こうの声を待たず、エリスがドアを開いた。まるで自室のような気軽さで部屋へと入っていく。


「おい」


 その背中を慌てて追いかけて入室したアスタは、はっと息を呑んだ。

 そこは、薄暗く設定された店内や廊下とは対照的に光に満ちていた。バルコニーに続く大きなドアは開け放たれていて、涼やかな風が吹き込んでカーテンを揺らしている。室内にはソファが二つ。間に配置された机の上には空のコップが四つとポットが置かれていた。

 室内には、誰もいない。どうしたのかとエリスに尋ねようとした時。

 ざ、と。

 一際強く吹いた風が、庭に植えられていた大木に咲く花を揺らして舞い上げる。そこで、ようやく気が付いた。

 ——ひとりの少女が。

 舞台の一幕であるかの様に舞う薄紅の花の中に、紅い少女が立っている。

 エリスと同年代か少し年下くらいだろうか。すらりとした体形を包むのは、足首まで覆う空色のワンピース。風に揺れる紅い月のような髪は長く、旋毛の辺りでひとつに結わえている。長い前髪から覗く、夜が明ける空のような瞳が客人を捉えた。横髪が動作に合わせて、柔らかな曲線を描く頬に沿って揺れる。形の良い唇がゆるりと笑みの形を作った。

 世界すら書き換えるように。花が咲き綻ぶように。

 少女が、微笑った。

 ——それはまるで夢のように、美しい少女だった。


「こんばんは、店主。今日も桜は満開か?」


 親し気にエリスが声を掛ける。時間はまだ昼過ぎだから、これも合言葉のようなものだろうか。応えるように、ひらりと少女が手を振った。


「いらっしゃい。良い夜ね」


 柔らかく笑みを含んだ、夜を溶かしたような、心地よい声音だった。


「久しぶりね。エリス、セージ。元気そうでなによりよ」

「久しぶりでもないよ」

「ふふ。エリスとはこの前会ったわね。ああ、そうだ。傘は役に立ったかしら」


 きれいなひと、とアスタの手を握ったままのアミが呟く。その声が届いていたのか、少女が子どもに目を向けてにっこりと微笑んだ。ぴゃ、とアミがアスタの足に隠れる。耳が真っ赤だった。その小さな頭を撫でて、少女へと向き直る。


「はじめまして。アスタ・エーデルワイズだ」


 アスタの影からそっと顔を出して、か細い声がアミです、と名乗る。

 ぱたんと大きな窓を閉めて軽やかな足取りで近づいてきた少女は、膝を折って子どもと目を合わせると、柔らかく微笑んだ。


「シオンよ。よろしくね」


 こくこくと頷くアミにもう一度にっこりと微笑みかけると、少女は立ち上がって今度はアスタと目を合わせた。


「あなたも。エリスが友人を連れて来るなんて初めてだわ。よろしくね」

「……ああ」

「余計な事言わないでシオン。依頼があるんだけど」

「わかっているわ。座って」


 シオンに勧められてソファに座る。アスタとエリスの間にアミがちょこんと座った。セージだけ立ったままで、どうしたと問う前に彼は少女へと向き直る。


「シオンさん、あいつは?」

「厨房にいなかった?買い出しかもしれないわ」


 何の話だと疑問に思ったのはアスタとアミだけらしい。二人で顔を見合わせる。


「わかった。俺は先に戻る。あとで話せよ」

「うん?居てもいいんだよ。いいんだよね?」

「もちろん」


 エリスが確認するように問い、アスタが頷く。けれどセージは首を横に振った。


「オレがいても何もできねぇだろ。いいか、あとで話せよ。絶対だからな」

「わかったわかった」


 苦笑する兄に念を押しながらセージが部屋を後にする。首を傾げるアスタに、多分ね、と前置いて。


「ルリアに説明しに行ってくれたんじゃないかな。急に来たから驚かせただろうし」

「ルリア?」

「僕の妹。かつセージの双子のお姉ちゃん。ここで働いているんだよ」


 悪戯っぽく笑いながら告げられた情報に、アスタは目を丸くした。

 妹がいたのか。

 昨日のセージの言葉を思い出す。——俺たちで慣れているからな。

 あれはそういうことか。同時に、この店を紹介することに慎重になっていた理由も察した。


「あとで紹介するね。それで、シオン」

「人払いはしているわ。君、紅茶は飲める?ジュースもあるわよ」


 向かい側のソファに腰かけたシオンが、心得たように頷きながらポットに手を伸ばす。

 用意されたコップは四つ。ずいぶん準備が良いなと思いながら受け取った。湯気が立つ紅茶を口に運びながら、ふと窓の外へと視線を向ける。

 薄紅の花が風に乗って舞っている。見たことがない花だった。

 アスタの視線を追ったのか、シオンがああ、と夜明け色の瞳を細めた。


「桜よ。名前は聞いたことあるでしょ?」

「桜…。あの花が」


 百年前に滅んだ国を守っていたという花。国とともに木々は焼き払われ、今ではどこにも残っていないのだと言う。滅びの象徴として忌むべきものだと形も色も秘されているから、実際に目にするのはこれが初めてだ。


「あんなにきれいな花だったのか」

「あら、きれいなだけとは限らないわ。恐れられるには、恐れられるだけの理由があるものよ」


 少女が意味深に微笑む。一口紅茶を口に運ぶと、それで、と促した。


「エリスからどこまで聞いているの?」

「喫茶店を営む裏にある、完全紹介制の情報屋。そして、報酬はあなたが指定する」

「ええ、そうよ。金銭を要求するとは限らない。そしてあなたが求める情報を、今この場で提示できるとは限らない。それは理解しておいてね」

「ああ。エリスからも言われている」


 アスタの言葉に、シオンがぱちりと目を瞬かせ、すました顔で紅茶を啜るエリスへと視線を向ける。

 何がおかしかったのか、小さく吹き出して、ころころと少女は笑う。理由がわかっているのか、エリスがじっとりと睨みつけた。


「……シオン」

「ええ。そうね、ごめんなさい」


 こほん、と咳払いをひとつ。切り替えるように少女は小さく首を傾けた。さらりと、紅い髪が揺れる。


「——さて、聞きたいことは何かしら?」

「何でもいいのか」

「もちろん。どんな話でもどうぞ」


 何を聞こう。エリスには、たいていの質問には回答が返ってくるだろうから、遠慮なく聞くと良いと言われている。信頼できるのかと問うたアスタに、彼はできると即答した。ならば。

 深呼吸。跳ねる心臓を抑えて、アスタは口を開いた。

 この数日間に起きた出来事を。昨夜、エリスに語ったこれまでのことを再び辿る。一度エリス相手に話したからか、すらすらと言葉が出てきた。足りない部分はエリスが横から補足してくれた。

 最後まで聞き終えて、彼女はちらりとアスタの右腕を見遣った。装着された術具や発作については話さなかったというのに、何かを見通すように夜明け色の瞳が細められた。


「……なるほどねぇ。先に言っておくけれど、私は刻印士でも術士でもない。解析ぐらいしかできないのよ。ね、アミちゃん。それ、見せてもらってもいいかしら」


 ちびちびとジュースを飲んでいたアミが問うようにアスタを見上げる。頷いてみせると、ぴょんとソファから降りて右手を差し出す。細く、白い指がそっと鉄の輪を撫でた。

 視界の端で、エリスが鋭く目を細めるのを見た。

 ありがとう、とシオンが手を引く。はあいと笑ってアミはアスタとエリスの間に座り直した。


「——なるほど。分離術式ね」

「分離術式?」

「ええ。元々は汚れたものを綺麗にするために使われていた刻印式よ。容器に刻印式を刻むことで、中身からの汚染を防ぐこともできるから、毒性のあるものとか、危険物を運ぶ時にも使われていたわ」


 よどみない説明に、エリスと顔を見合わせる。


「そんな刻印式、聞いたことないよ」

「当然よ。百年前に失われた刻印式だもの」

「百年前……東の国か?」

「そう。今では名前すら消された、ウィスタリアが最初に滅ぼした極東の国。あの花が咲いていた国でもあるわ。今ではガランサスと呼ばれている地域ね。聞いたことはあるかしら。その国では優秀な術士や、刻印士がいた。刻印式は元々この国で生まれたの。彼らは適応範囲も広く、様々な術具を使いこなしていた。今使われている刻印式は、ほとんどここから流れてきたものね」

「その話は聞いたことあるよ」


 何か考え込んでいたエリスが頷いた。


「極東の国で使われていた刻印式には、魔法みたいなものがあったって。未来を視るとか、不老不死になるとか、世界すら滅ぼす力があるとか。その国が滅んだことで、刻印式の技術は大幅に後退したんでしょ?軍が躍起になって術士や刻印士を確保しようとしているのも、百年かけてもその国の技術に追いつけなかったから。自業自得だよね」


 こほん、とアスタは咳払いした。言い過ぎたと思ったのか、エリスが肩を竦める。


「……眉唾物の刻印式は置いておいて。これを外す方法はあるのか」


 それが一番知りたいことだった。彼女は頷いた。


「あるわよ」


 優雅な動作で紅茶を口に運びながら。

 あまりにもあっさりと、彼女はそう言った。


「こんなもの、いくつも作れるわけじゃない。あってもスペアひとつでしょうね。けれど、刻印式の適応者を探す為に、何度も試す必要がある。つまり、取り外しするための鍵があるの。ほらここ。わかりにくいけど、これが鍵穴ね」


 示された部分を覗き込む。言われてみれば確かに、凹みがあった。鍵穴に見えなくもない。


「術士か刻印士を探していたみたいだけど、無理矢理外すと刻印式が暴発しかねないからやめておきなさい。正規の方法で外すことをお勧めするわ」

「鍵か……。あるとすれば、軍だろうな」

「でしょうね。ひとつ、心当たりがあるわ」


 その言葉にアスタは顔を上げた。シオンは相変わらず笑みを浮かべたまま、ひとつと立てた指を振る。


「今軍に所属している刻印士で、ここまでのものを編み上げる技量を持つのは一人だけ。名前は、アヤメ・クロコス」

「クロコス?」

「あら、知り合いだったかしら」


 いや、と考え込む。アヤメという名は聞いたことがない。

 ただ、クロコスという名は知っていた。軍人だった父の死後、アスタ——ティアンの前に現れ、父の友人だからと後見人になってくれた人。それが、ラティルス・クロコスという人物だった。

 そこまで親しかったわけはない。最低限のやりとりしか交わさなかった。だけど。

 穏やかに話す人だった。朗らかに笑う人だった。——どこか、悲しそうな眼をした人だった。

 娘がいると言っていた。それが、彼女なのかもしれない。詳しくは話さなかったが、娘の話をしている時は、慈しむような、愛おしさに満ちた眼差しをしていた。

 そうだ、彼は。

 あの人は、エリスにどこか似ていたかもしれない。

 ちらりと見遣った先で、黒髪の青年が首を傾げた。ふるりと首を横に振る。


「——ところで、刻印士の情報なんて機密中の機密をどうやって知ったんだ?……あ、いや。情報源を明かせるわけないか。悪い」

「少し前までここにいたのよ、彼女。だから知ってる。軍に戻ってからは連絡を取っていないから、さすがに今どうしているかは知らないわ」


 シオンが肩を竦める。


「……そうか」

「その人は、実験に加担するような人なの?」

「目的によるでしょうね。納得できないのなら、何があっても意思を曲げることはない。そういう子よ。だけど、それがどうしても必要なことなのであれば、彼女は成し遂げようとするでしょう。彼女が悪人でないことは保障するけれど、あの子には譲れないものがある。願いと言い換えても良いかもしれない」

「……無関係の子どもを巻き込んででも、成し遂げたいものがあるのか」

「そこは彼女に直接問うと良いわ。私が代弁するべきことではないから」 

「鍵が破棄されている可能性は?」


 この疑問には、エリスが答えた。


「ないんじゃないかな。きみとの交渉材料として残していると思う。君の目的がアミを助けることだって向こうも察している。なら、鍵は向こうが切れる最大のカードだ」


 そうね、とシオンが同意する。


「問題は、こっちが切れるカードが少ないってことか。実験について口外しないこと、だと難しいな。向こうを黙らせられるくらいのものを見つけないと」

「ああ、それについては多分大丈夫だと思うよ」

「は?」

「多分ね。切り札ってやつだよ」


 アスタが詳しく聞こうとするより早く、エリスはシオンに向き直った。追及されないようにしているようにも見えた。


「ねえ、シオン。聞いてもいい?」

「あら、君は別料金よ?」

「実験の目的は瘴気の浄化。分離術式は、本当に瘴気を浄化できるの?」


 その言葉に、シオンがまるで猫のように瞳を細めた。それからふるりと首を横に振る。


「——無理よ。この刻印式では、百年大陸を蝕み続けた瘴気は浄化できない」


 頭が真っ白になった。弾かれたように立ち上がる。


「な、んだよ、それ!そんな、それなら、この子は!」


 激情のまま悲鳴のように叫ぶアスタに、紅色の少女は静かに諭すような眼差しを向けた。


「落ち着きなさい。分離式は物と物を分かつ刻印式よ。不純物である瘴気を分かつことはできるかもしれないけど、消すことはできない。だけど、分離術式だったら瘴気に呑まれずに済むでしょうね。理論上の話だから確証はないし、霊力をかなり消費するだろうから長時間の滞在は無理。多分、実験の本当の目的はそっちじゃないかしら。瘴気の中にどれくらい滞在できるかの実証。——あの子が。アヤメ・クロコスがどこまで想定して、関わっていたかは知らないけど。まあ、そもそもの話、子どもに使わせるものでないことは確かね」


 彼女の声は、どこまでも凪いでいた。いっそ冷たいと感じるほどに。

 ぽん、と肩を叩かれた。

 見なくてもわかった。エリスだ。そういえば、彼はずいぶん落ち着いているなと思いながら視線を落として。

 ——違う。

 紫の瞳は冷ややかだった。凍てつくような眼をしていた。

 そこには、死人のように表情のない貌があった。

 息を呑む。さっと室内の温度が下がったような気さえした。見えない手が首に掛かるような、抜身の剣を喉に突き付けられたような、そんな殺気が空気を塗り替えていく。

 ぞっとするほど美しい氷の相貌が、酷薄に嗤った。


「————」


 形の良い唇が、音のない言葉を紡いだ。何も聞こえなかったのに、何故かわかった。

 彼は今、恨みを吐き捨てた。誰かを呪ったのだ。


「エリ……」


 ぱん、と。

 両手を打ち合わせる音と共に、室内に満ちていた殺意が霧散する。

 合わせた手の向こうで少女が涼やかに微笑んだ。


「彼女を巻き込まなかったことは褒めてあげるわ」


 深々と息を吐きながら、肩に乗せられたままの手を叩いた。顔を上げたエリスは、夢から覚めたような表情をしていた。


「……ごめん」

「いや、いい。……大丈夫か?」


 力が抜けたようにエリスがソファに座り込む。釣られたようにアスタも腰を下ろした。

 シオンが言った通り、アミにはあの殺気を向けないように気を配っていたのだろう。何が起こったのかわからないというように、アスタとエリスの間でぱちぱちと大きな目を瞬かせている。それでも保護者達の様子がおかしいことは察したのか、きょろきょろと二人を見遣って、それから空気を塗り替えるようにはい、と元気よく手を上げた。


「はい、アミちゃんどうぞ」


 わからないながらに空気を読んだ子どもの意図を察したシオンが、笑みを含んだ声で続きを促す。


「あの、瘴気って、なんですか!」


 アスタはエリスと顔を見合わせた。そういえば、不安を抱かせないためにアミにはほとんど説明していなかった。くすりとシオンが笑みを零す。


「過保護なお兄さんたちね。——瘴気、毒の霧、死の煙。色々と呼び方はあるけれど、つまりはとっても危ない霧ってことよ。近づくと死んでしまうから、ちゃんと調べられないの。どうして瘴気が生まれたのか、どうすれば消えるのか、何もわかっていない。ただ、ひとつわかっていることは、百年前にひとつの国が消えてしまったことをきっかけに、瘴気は生まれたということ。人と人が殺し合った場所で生まれたものだから、呪いとも言われているの」


 そう。この世界は呪われている。

 数百年前までこの大陸に数多く存在した国は、戦火の果てにウィスタリアというひとつの国にまとまり、やがて毒の霧に侵された。多くの血を流し、多くの命を踏み躙り続けた代償に、呪詛に穢され続ける呪われた大地。呪われた国。

 それが、このウィスタリアという国の有様だ。


「えっと、呪いってなあに?」


 無垢な声が、無邪気に問う。

 アスタが口を開く前に、エリスが金の髪を撫でながら答えた。


「——ひどいことをした人に、ひどいことがありますようにって、願うことだよ」

「ひどいこと?」


 そうだよ。エリスの声は穏やかだった。痛みを孕んだ瞳を、堪えるように細めて繰り返す。

 ひどいことだよ。


「いいよって、言ってあげないの?」


 ゆるしてあげないの。子どもの透明な目に、青年はまるで刺されたような表情を見せた。

 優しい子どもの頭を、今度はアスタが撫でる。


「言えないことも、あるんだよ、アミ」


 どうしたって赦せないことはある。

 だって、ムカつくじゃないか。腹立たしいじゃないか。なくしたものはもう戻らないのに。

 だったらせめて、同じだけ。いいや。それ以上に苦しんでくれ。苦しんで死んでくれ。お前さえいなければ。呪うとは、きっとそういうことだ。

 叫び出したいほどの、泣きわめきたいほどの激情を、知っている。

 アスタの裡には、あの日から燻り続ける怒りがある。握りしめたままの拳がある。

 ——そうか。

 エリス、お前もそうなのか。


「ほかに、聞きたいことはある?」


 すべて見透かしているかのような笑みを浮かべ、シオンが小さく首を傾げる。紅い髪がさらりと揺れた。

 切り替えるようにひとつ息を吐いて、エリスが切り出した。


「ねえ、どうして実験の場にコルチカムが選ばれたんだと思う?」

「どういう意味だ?」

「おかしいと思わない?なんでコルチカムなの?セントラルに近い町ではなく、はじまりともいえる国があった場所でもなく。なんでコルチカムだったの?」

「さあ、それはわからないわ。だけど、意味があってもなくても、軍が急いでいるのは確かよ」


 かつん、とカップをソーサーに戻して、シオンが長い足を組んだ。


「軍の動向についても教えておきましょう。ヴィレンス総統の容態が悪化して、後継者争いが激化しているらしいわ」

「容態が悪化?そんな年齢だっけ?」


 いいや、と首を振る。ヴィレンス総統に直接会ったことはないが、遠目に姿をみたことはある。

すらりとした体を軍服に包み、真っすぐな茶色の髪をゆるく束ねていた。精悍な顔つきは年よりも若く見え、息子であるトレイトに似ているなと思った。


「まだ四十代だったはずだ」

「病気?」

「さあ。あの人は敵が多いからな」


 だろうね、とエリスが肩を竦める。

 ウィスタリア国軍総統ヴィレンス・カーパス。大陸に存在した最後の国、ハイリカムとの戦いで戦果を上げ、現在の地位に就いた男。

 ハイリカムとの戦争は十五年前に始まった。ハイリカムも軍事によって国土を拡げた国だった。数年に渡って続けた国境線での睨み合いに終止符を打ったのは、たった一発の銃声だったと言われている。どちらが撃ったのか、そもそも本当に銃声なんてあったのか、真相はもうわからない。殺し合いの火蓋は切って落とされ、戦争は三年続いた。戦力で優っていたウィスタリア軍だったが、先代の総統が病気で倒れ、戦況が傾いた場面があった。絶体絶命のその時にヴィレンスが見事な采配で立て直し、勢いそのままに勝利へと導いたとされている。その功績を以って後継者争いを制し、ヴィレンスが総統の座についた。

 それが今から十二年前。——ああ、そうか。

 あの日から、もう十二年も経ったのか。

 戦争が終結する数カ月前に、アスタの故郷であるコルチカムは瘴気に呑まれたのだ。


「争いが好きだねぇ。外と争い、身内と争い。血みどろで結構なこと」


 エリスが侮蔑と嫌悪が滲む声音で続ける。


「一年前のタンジーでの内乱の影響も残っているっていうのにね。この国は問題だらけだ」

「……内乱」


 呟いた声が聞こえたのか、エリスが目を瞬かせた。


「そうか。忘れていたけどアスタも軍人だったね。参加してたの?」

「忘れるなよ。参加していたぞ。……何も、できなかったが」


 一年前のことを思い出す。ハイリカムを名乗る武装集団は戦争が終結して十年以上経っても残っていて、彼らが潜伏していたタンジーの町で、国軍とぶつかったのだ。その戦場に、術士であるアスタも参加していた。残党といっても数が多く、激しい戦闘になると思われた内乱は、しかしわずか二日で終結することになる。なぜなら。


「土砂崩れが起きたんだっけ?」

「それは……っ」

「?」

「——あ、いや。なんでもない」


 言いかけた言葉を呑み込んで、不審に思われることを承知で目を逸らした。エリスは不思議そうな顔をしていたが、何か察してくれたのかそれ以上追及はされなかった。

 ふたりのやりとりを眺めていたシオンが苦笑する。


「ウィスタリアは武力で以って大きくなった国よ。彼らは戦って奪い取る方法しか知らない。それがたとえ、身内であってもね。気を付けなさい。彼らはすぐに、次の敵を探すわ」


 最後の言葉は、エリスに言ったようだった。何かに気が付いたように目を見張って、彼は神妙に頷く。

 彼らのやり取りに、アスタは踏み込みすぎかもしれないと思いながらも口を開いた。


「——あなたも、軍が嫌いなのか」

「私も?ああ、…いいえ。私は彼らと敵対していないし、これからもする予定はない。意味がないから」


 シオンの回答に、エリスが反応した。


「意味が必要?」

「私にはね。エリス、君には要らないでしょう。理由があれば充分よ。君は君の理由で、彼らを呪った。それだけの話でしょう?」


 エリスが軍を、軍人を嫌う理由。明言を避けるような会話だったが、ふたりには通じたのだろう。

 エリスが考え込むように視線を下げる。


「この実験の背景には、ヴィレンス総統の容態悪化が関係している。でも多分、それだけじゃない。誰かの思惑は、他の誰かの企みを隠しているものだから」


 紅色の少女は美しく微笑んだ。夜明け色がアスタを映して。


「さて、聞きたいことがあるの。アスタ・エーデルワイズ。あなたの目的はなに?どうして見ず知らずの子どもの為に命を懸けているの?」


 懸けているの。懸けたのか、ではなく。今この時も。

 何故かはわからないが、この少女はすべてを知っている。そんな気がした。


「……そんなものを聞いてどうする」

「君の選択と、覚悟の理由。そんなものではないと思うけど?」


 思い出すのは、十二年前。そして、一年前の出来事。

 軍の英雄、だなんて。最も似つかわしくない肩書を得てしまった日のことを。


「俺は、守ると言った人を守れなかった。走り出すべき時に、立ち止まった。戦うべき時に戦えなかった臆病者だ。選んだことすら貫けなかった。大事なものは全部取りこぼした。この手にはもう、なにもないんだ」


 だからこそ。今度こそ。全部自分の自己満足で、押し付けだと、わかっている。わかっているけれど。

 それでも、守りたいと思う。今度こそ、殺させない。奪わせない。その為に、今度こそ走り出すと決めたのだ。——すべては自分の為。あの日を取り戻したい、自分の為だ。

 選ぶと決めたひとつを握りしめて、アスタはまっすぐに告げる。


「俺は、俺がしようとしていることが間違いだとは思わない。誰かにとってはどんなに必要なことなのだとしても、命ってのは大切にされるべきもので、誰かに理不尽に奪われて良いものじゃない。綺麗ごとだとしても、俺はそれが正しいと信じている」


 初めて会った夜。焚火の向こうで、エリスはこう言った。

 ——どんな事情があるにしても、大人が子どもを傷つけていい理由なんてないからね。

 ああ。そうだな、エリス。俺もそう思う。

 そうだったらいいなって、俺も思うよ。そうするべきだって、心からそう思う。

 誰も守れなくて、何も成せなくて。大事なものを零し続けてここまで来た。

 だからこそ、ただ息をしているだけの毎日なんて嫌だった。

 せめて。


「せめて、自分が正しいと信じたことには、胸を張りたいんだ」


 走り抜いたその先で、あの子にひとつだけでも胸を張れるように。


「——いいじゃない。そういう馬鹿は嫌いじゃないわ」


 シオンが笑う。子どものような笑顔だった。


「あっきれた……」


 エリスは紫の瞳を細めて仕方なさそうに笑っていた。まるで、眩しいものでも見るように。

 どこか羨むような声音だと思ったのは、気のせいだろうか。


「おにいさん」


 不安に揺れる金の瞳が、アスタを見上げる。ワンピースの裾をぎゅっと握りしめていた小さな手をそっと握った。正面の店主へと向き直る。


「報酬は、何を支払えばいい」


 紅色の少女は、目を眇めて微笑むと、不思議なことを言った。


「もう貰っているわ」


 アスタはきょとんと目を瞬かせ、エリスを見遣る。彼はふるふると頭を振った。


「僕じゃないよ」


 シオンは意味深な笑みを浮かべているだけ。答えてくれそうにはない。


「……本当に?」

「本当よ」

「なんというかこう、ズルをしている気分なんだが。だったら、もう一つ、依頼を受けてくれるか。もちろん、報酬は支払う」

「ええ、もちろん。高いわよ?」

「構わない。アミの両親を探して欲しいんだ」

「ああ、なるほど。いいわよ。探しましょう」


 ほっと息を吐く。エリスが半分出すよと冗談交じりに言った。

二人のやりとりに小さく笑って、シオンが軽やかな動作で立ち上がる。


「店の上に空き部屋があるわ。今日は泊まって行きなさい。エリスが場所を知っているわ」


 どうする、というように伺うエリスにアスタはひとつ頷いて了承を示した。


「じゃあ、アミ。行こうか」

「うん」


 エリスがアミを連れて部屋を出ていく。後に続こうとした時、耳元に花が掠めるような囁きに呼び止められた。

 振り返ったアスタに、紅色の少女は謡うように告げる。


「忘れないでね、アスタ・エーデルワイズ。誰かが誰かの道行を呪うように。誰かは誰かの未来を祝福する。いつだって、君のことは君自身が選ぶのよ」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る