第二章 いつか、胸を張って 1
——にゃあ。
小さな白い生き物が愛らしく鳴く。恐る恐る伸ばされた手が、そろそろと白い毛並みに触れて、その柔らかな温もりに固かった表情が綻んだ。
ふわふわ、と嬉しそうに弾む声。戻るか近づくか、迷っている間に気配に気が付いたのか弾かれたように顔を上げた。せっかく緩んでいた表情には緊張が満ちていたが、そこにいるのが誰かを認識すると、彼は安堵したようにぱっと目を輝かせた。
「みて!」
警戒されなかったことに内心でほっとしながら、その傍らに膝を付く。足元で丸まった白猫が、新たな人間の登場ににゃあ、と一声鳴いた。少し離れたところで毛並みを整えていた黒猫も近寄って来る。
「野良か?」
「うん」
ひとつ頷いた後で、自信なさそうに付け加えられる。たぶん。
「この辺り多いもんな」
言いながら周囲をぐるりと見回す。誰もいない町の端っこ。細く流れる川と、ぽつぽつと色とりどりの花が咲く河川敷。町の中心へと走る線路には、日に数度、忘れた頃に列車が走る。初めて見た時には歓声を上げたのだが、今ではもう見慣れてしまって帰宅の時間を図る時報替わりである。
「——お」
青い空から浮き出てくるように、巨大な鉄の塊が線路に沿って近づいてくる。夕方には早い時間だが、この時間に帰ると約束しているのだ。まだまだ遊びたい気持ちはあるが、怖いくらいに真剣な目で父が約束だと繰り返すので、絶対に守ろうと決めている。
勢いを付けて立ち上がり、名残惜しそうに白猫を撫でている彼の名前を呼ぶ。ほら、と差し伸べた手に、少しだけ小さな手が重なった。
見送るように鳴き声がふたつ。ばいばい、と二匹に手を振った。
「帰ろう」
「うん!」
帰ろう、と弾む声が返す。
ふたり、しっかりと手を繋いで家に帰るのだ。
——それが、夢だと知っている。
がく、と車体が揺れた衝撃で夢から引き戻された。肘掛に付いて支えにしていた手であくびを隠しながら、ごしごしと目を擦る。
「目、擦っちゃだめだよ」
反対の席から飛んできた声に顔を上げる。エリスがゆるりと笑っていた。その手にはクラッスラで購入した書籍がある。その隣ではセージがこくりこくりと舟を漕いでいて、アスタの隣ではアミが次々と移り変わる景色に目を輝かせていた。うたた寝する前と変わらない光景。
「よく寝ていたね、もうすぐ着くよ」
「……おう」
バツが悪くなってそっと目を逸らす。特に悪いことはしていないのだが、何となく気まずさがあった。察したのかエリスがくすりと笑う。こほん、と咳ばらいをひとつ。居ずまいを正す。
「あ、おにいさん起きた」
窓の外の景色に釘付けだったアミが振り返って弾む声で言う。途端に吹き出したエリスを一睨みして、誤魔化すように小さな頭を撫でた。えへへ、と嬉しそうに笑みを零す子どもは、駅で列車を見た時から歓声を上げて年相応にはしゃいでいた。すごい、でっかい、とぴょんぴょん跳ねながら繰り返す姿に、自分が初めて列車を見た時のことを思い出した。
だからだろうか。久しぶりに昔の夢をみた。ただ無邪気に笑って、遊んで。そんな日々が明日も来るのだと信じて疑わなかった頃の夢。
ぐぐ、と伸びをひとつ。窓の外へと視線を向ける。木々が並んでいた列車の外には、ぽつぽつと家屋が見え始めていた。
目的地はスリージエ。大陸の東南部に位置する小さな町。大部分が瘴気に覆われてしまった東側で、唯一平穏を保っている町だ。その町にイヴェールという店があるのだと、エリスは語った。懇意にしているという情報屋。頼りになると思うよ、と続けた彼の言葉を信じて、クラッスラを発つと決めた。
エリスの言葉に、嘘はないと信じている。だがひとつ、気になることがあった。
寝ようとしていたアミとセージを呼び寄せ、スリージエに向かうと告げた時、地名を聞いたことがなかったアミは首を傾げていたが、セージはぎょっと目を剥いていた。嘘だろ、と焦ったように兄に詰め寄り、大丈夫だよと宥められ、セージはだけどと言い募りながらも渋々納得しようとしていた。
様子が変わったのは、どこか伺うようなエリスの一言を聞いてから。
——ねえ、セージ。アスタは良い奴だと思わない?
お、褒められた、と暢気に思う間もなく、悲鳴のような声が部屋に響いた。
——にいさん!
はっと息を呑んだエリスがごめんねと零し、状況がよくわかっていないアスタとアミを置き去りに、話はそこで終わってしまった。
兄弟の間に何があったのか気にはなるが、それは彼らの話だ。アスタにはアスタの事情があるように、彼らには彼らの事情がある。頼って欲しいと思える程、今の自分に余裕がないことはわかっている。
「アスタ、どうかした?」
「いや、なんでもない。……お」
ざざ、とノイズと共に降って来た案内の音声が、目的地への到着を告げた。
「さ、降りるよ。忘れ物はない?」
慣れた様子でエリスが子どもたちを促す声を背に、荷棚に載せていた二人分の旅行鞄を下ろした。片方をエリスに渡し、アミに靴を履けと告げる。はあい、と返って来た素直なお返事に頬を緩めた。
兄弟の後に続いて周囲を警戒しながら列車を降りる。終点まで来た人はほとんどいなかったらしい。列車はこのまま折り返してセントラルへ向かうという。次が最終だよ、という案内を背に駅を出た。
アスタはスリージエに来たことはない。これが初めてだ。
瘴気に呑まれた東側にありながら、澄んだ空気が満ちていて、呼吸のしやすいところだと思った。初めてなのに、懐かしさを感じる空気があった。見回す限り人はそんなに多くはない。穏やかで、静かな町だった。
スリージエの北東にはコルチカムという町がある。——あの日から瘴気に呑まれたままの、アスタの故郷だ。
立ち止まってしまったアスタの背中を、エリスがぽん、と叩いた。
「こっちだよ」
慣れた様子のエリスが手招く。セージは待たずに先を歩いていた。きょろきょろと物珍しそうに辺りを伺うアミを促し、兄弟の後を追いかけようと踏み出して。
視界の端に、薄紅の花弁が舞ったのを見た気がした。
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