第二章 いつか、胸を張って 5
「——なに、この状況」
何度か道を見失いそうになりながら、やっとのことで戻った店は、不気味な程静かだった。
建物の中に入らず、裏へと回ったことに、特に理由はない。強いて言うならば、勘だ。
桜の木が咲き誇る場に辿り着いて、店主と友人と、倒れている刺客として追ってきていた男とその部下たちの姿を認めて。なるほどと納得した。エリスが何かしでかしたな。
ふてぶてしく笑ってアスタを迎える友人に、倒れ伏している軍人たちを示して端的に告げる。
「説明」
「おっと、なんで僕?」
「説明」
「はぁい」
ひょいひょい、と手招かれて近付く。避ける間もなくそっと右腕を取られた。
「ちょっ」
「これにね、受信用の刻印式が仕込まれてる。覚えてる?これと同じ似た奴だよ」
ぴん、とエリスが耳を飾る術具を弾く。
「……まさか。これ、この術具は…」
霊脈を乱す刻印式が刻まれている。そう聞いている。確かに効果だってあった。
アスタの動揺を見抜いたようにエリスが肩を叩く。
「腕の良い刻印士だと、ひとつの術具に複数の刻印式を刻めるって聞いたことがある」
それから、ちらりと再度術具に視線を落として。
「僕たちの動きが、軍にバレるのが早いなって疑ってはいたんだよ。カジェラから移動したことは知られていても、必ずクラッスラに向かうとは限らない。なのに、こいつらはすぐに追いかけてきた。こっちの動きを知る方法があるのかなって。その後、クラッスラでこいつを見た時に、術具を持っているのを見たんだ。それであの子か、きみか。どっちかに居場所を伝える術具を持たされているのかなって予想が付いた。寝ている時に確認させて貰ってね。きみの術具に発信用の刻印式が刻まれてるってわかったんだ。だったら、ちょっと利用させて貰おうかなって思って」
そこで一度言葉を切って、術具に添えられていた手が離れていく。
「アスタがいたら接触してこないと思ったんだ。僕のことをこいつらは知らないから、十分警戒しているだろうし。それに、もう一組の方もきみに接触したがっているってわかってたし。別行動をすれば動きがあるかなって」
「……そうだな、俺の方にも接触があった」
「アスタの術具がある以上、撒くことはできないから、準備を整えた上で迎え撃つべきだって思った。だから、イヴェールに行くことを提案したんだ。情報収集のためも、勿論あったけど。…シオンはね、強いんだよ。妹を安心して任せられるくらい。だから、アミのことをお願いした。多分軍がやってくるだろうから、強硬手段に出るようだったら叩きのめしてって」
「突然無茶苦茶言うんだもの。困るわよねぇ?」
くすくすと笑う少女。まさかと思うが、彼女が軍人たちを全員叩きのめしたのだろうか。
「そうよ。そこの金髪だけはエリスが気絶させたけど」
花のような笑みで肯定する少女と、叩きのめされた男たちを交互に見遣る。倒れ伏す彼らがいなければ、ここで戦闘があったとは思えない程に場が乱れていない。強いことは察していたが。
彼女には逆らわないでおこう、と決意するアスタを、風で掻き消されそうなほど小さな声が呼んだ。
「……勝手なことをしたのは、わかってる」
ごめんなさい、と。
まるで怒られるのをわかっていて言い訳する子どものような彼の表情を見て、アスタは吹き出した。
先に言っておいてくれよと、思わないでもなかったが。エリスの立場ではわからなかったのだろう。居場所を知らせる刻印式をアスタが承知の上で所持しているのか、それとも何も知らないのか。当然だ。アスタも同じ立場なら、同じように疑う。
その上で、エリスは多分、アスタが知らない方に賭けてくれた。
彼が大事にしている妹のいるこの店に連れてきたのは、そういうことだろう。
「なんで笑うの…⁉」
「いや、うん。言い訳する子どもみたいで」
「はあ⁉」
楽しそうに成り行きを見守っていたシオンが、ぱんぱんと手を叩いた。
「ほら、喧嘩は後にしなさい。こいつどうするの?」
顔を見合わせる。とりあえず、足蹴にでもしそうなエリスの襟首を捕まえておくことにした。
「何かなこの手は」
「いや、別に。起きたみたいだぞ」
身じろぐ気配に、視線を落とす。
エリスから手を放し、転がったままの男の傍らにしゃがみ込んだ。
「どうも、こんばんは」
「貴様は……」
「答えろ。あの子の腕輪の鍵は持っているか?」
男が一瞬悩むような表情を見せたのは、あの子が誰を示しているのかわからなかったからだろう。身体を起こして、首を横に振る。
「俺は持っていない」
「あのねぇ。聞いたところで素直に答えるわけがないでしょ」
冷え冷えとした目のエリスが、落ちていた銃を拾って慣れた手つきで安全装置を外すと、持ち主へと向けた。
軽い動作だった。その手に持っている物が、命を奪える凶器なのだと思えない程に。
「僕ね、わりと短気なんだ。思わず撃っちゃったらごめんね」
「おいっ」
「鍵の意味を聞く前に、持っていないって答えたってことは、心当たりはあるんでしょ。で?鍵はどこ」
図星だったのか、男が生唾を呑む。迷うように目を伏せて、それを振り払うように顔を上げた。
「その前に、ひとつ聞きたい。なぜ、お前たちはあの子どもを助けた」
男の問に対して口を開こうとした時、隣の殺気が増した気がしてアスタは慌ててエリスを制止に掛かった。
「ちょっ、待て待て。撃とうとするな」
「安心して、殺したりはしないから。でも、立場ってものをわからせる必要があると思わない?」
「思わねぇかな!」
堪忍袋の緒がぷっつり切れそうな彼をまあまあと宥める。ついでにその手から銃を抜き取った。安全装置を戻して再度男の前にしゃがみ込む。背後でエリスがそっぽを向く気配がした。
「大人は子どもを守るもんだろ。お前らが何を考えていようと、どんな目的を持っていようと、子どもを利用して、殺そうとして良い理由にはならない。俺はそう思う。それが正しいと信じている」
「……大体ね」
吐き捨てるような口調で、エリスがその後を続けた。
「お前らの事情なんて知らないし、どうでもいいけど。大人の都合で子どもが利用される。どんな理不尽な目に合っていても、助けてもらえないのが当たり前。そんなの正しいわけがない。正しいなんて認めない。絶対に」
焚火の前で聞いたときよりも、強い思いが乗った声だった。
あの時は、星に願いをかけるような言葉だと思った。そうだったら良いと、そうでないと知りながら祈るような、そんな言葉だと。
だけど、そうか。
あの時も今も、エリスは、怒っていたのか。
「……偽善だな」
「そうだな。でも、俺たちは間違ったことを言っていない」
本当はそんな簡単な話ではないのだろう。誰かにとっての正しさが、誰にとっても正しいとは限らないのだから。正しいから間違いではないということもない。正しいだけでは救えないものだってある。
だからこそ。正解がないからこそ、自分が胸を張れるものを選ぶと決めたのだ。誰に指を差されようと、自分自身が正しいと信じるものを。
同じものを正しいと信じてくれる人だって、ちゃんといるのだから。
「というか、誰かに迷惑しか掛けられないあんた達が何を言ってんの?人のこと言ってる暇があるんなら、我が身を顧みた方がいいんじゃない?」
「棘が!言葉に!棘が!」
「嫌いだから仕方ないよね?」
じとっと睨みつけると、軍嫌いの友人は肩を竦めた。よくもまあ、こいつの信用を勝ち取れたなと思う。
「はいはい、黙ってまぁす」
二人の様子を見ていた男が小さく笑った。
「なるほど。確かにあの人が託した奴だ」
「あの人?」
首を傾げるアスタには答えず、すまなかったと軍人が頭を下げた。
「お前を疑っていた。自分の命惜しさに、子どもを人質に取って交渉しようとしているのかと」
不快に思う前に納得した。そう思われるのも仕方ないかもしれないと。
だが、隣の友人はそうは思わなかったらしい。如何にも不愉快ですといった調子で鼻を鳴らす。
「みんながみんな、お前みたいな腰抜けばっかりだと思わないでくれる」
「…………」
「ごめんごめん、黙ってます」
本当は少し嬉しかったりするのだが、話が進まなくなるので黙っておく。
「俺の名はヤフラン・リリタール。これで、お前の名前を聞く資格は得ただろうか」
男の——ヤフランの視線の先にはエリスがいた。が、彼は黙っていると言った言葉の通りに、にっこり笑って何も言わない。わざとだ。だが、それで良いと思った。わざわざ名乗ってやる必要なんてない。
「待て。言わなくていい」
「いや、いいよ。名前くらいは教えてあげる。エリス・ユーフォルビア。お仲間に報告できるよよかったね」
舌打ち。エリスのことは極力伏せておこうと思ったのに。エリスだって、アスタの意図を察していたはずなのに。どうせ、アスタが合流する前に、名前を名乗ったら教えてあげるとでも言ったのだろう。
「……アスタ・エーデルワイズと、今は名乗っている」
別に本名が知られてしまっても良かったのだが、口にしたのは偽名の方だった。
この一言で偽名だと理解したのだろうに、エリスはやっぱり何も言わない。ただ、意地っ張りの子どもを見るような目で見られた。なぜだろう、一瞬で立場が逆転してしまった気がする。
「アスタ・エーデルワイズ……?」
「?どうかしたか」
ヤフラン・リリタールの様子がおかしい。アスタの顔をまじまじと眺め、何かに納得したようにひとつ頷いた。
「なんだよ」
「……いいや。アスタ・エーデルワイズ、エリス・ユーフォルビア。鍵の在りかについては知っている。その前にこれまでの経緯を話させてほしい。エーデルワイズ、お前が知らないこともある筈だ。だが、これから話すことには、俺の予想も含まれる。俺が知る情報も、恐らくすべてが正しいわけではない。それを踏まえて聞いてくれ」
「……なんでこいつこんなに偉そうなの?」
「エリス、しっ」
事の発端は、現総統であるヴィレンス・カーパスの容態が芳しくないと知らされた
ことだったらしい。
「次代の総統位を狙って、トレイト・カーパスを担ぐ派閥と、キリカ・スターチーを担ぐ派閥とで権力闘争が怒っているのは、お前たちも知っているだろう。トレイト側には、現総統の側近たちが固まっている。彼はまだ幼く、傀儡にできるからな」
トレイト・カーパス。現総統の一人息子で、現在は若干十四歳。
アスタは、一度だけ彼に会ったことがある。茶色の髪の、柔和に笑う、どこにでもいる普通の少年だった。
「派閥の大きさとしては、現総統派の方が優っている。だが、トレイト・カーパスは総統に押し上げるには若すぎる。世襲制ではあるが、年齢を考えればキリカ・スターチーが継ぐのが当然だからな」
「そりゃあそうだ。だが、現総統派はそれじゃあ納得しなかったんだろ?」
「ああ。キリカ・スターチー側が文句を付けられない程の功績を立てればいい。そう考えた。だが、武功を立てようにも敵がいない。ハイリカムの残党狩り程度では足りないと、上は考えた」
ヴィレンス・カーパスと同じ方法は使えなかったわけだ。
拳を握りしめた。話の流れが読める。文句のつけられない程の功績。それは。
「瘴気を利用しようと考えたのか」
「そうだ。瘴気の浄化実験の開始。瘴気への対策を持っているとアピールすることで、主導権を握る。それがこの実験の意図だ。結果を出す必要はない。相手よりも優位に立っていると、そう示すことが重要。だそうだ」
ハウレン・ナルキースの言葉が蘇る。
——今回成功しなくても良い。何度失敗しようと、最終的に世界を救えれば、それで良いのだから。
何が世界を救う、だ。くそったれ。
「瘴気の浄化、奪われた大地の奪還を掲げた実験。それは表向きの話だ。実際は、瘴気の中で自由に動けるようになることを目的にしていた」
やはりそうか。エリスと視線を合わせる。
だが何故。瘴気に影響されない術具の使用実験であるのなら、そう表明しても良いはず。子どもを実験体と呼びながら、目的の部分だけ秘匿したのは何故だ。
「ああ、お前たちも気付いていたか。浄化と偽ったのは、瘴気を武器として利用することが目的だったからだ。瘴気を人工的に発生させ、未だ燻る火種への対抗手段とする、それが最終目標だった」
耳を疑った。瘴気を武器と利用する。そう言ったのか、この軍人は。
できるわけがない。瘴気は、あの呪いは。人の手に余るものではない。
いいや。人の手でどうにかできるものだとしても、武器だなんて、そんな言葉で扱っていいものでは、ない。
「——ふざけるなよ」
がん、と何かを殴りつけるような音がした。なんだろう、と我に返って、気が付く。
なるほど、アスタは無意識に近くの木に拳を叩きつけていたらしい。同じように怒気を纏っていたエリスが、その気配を霧散させ、目を丸くしてこちらを見ていた。
衝撃で木の葉がひらひらと舞い、呆れた顔のシオンが振り払っている。
「——続けて」
アスタが謝罪を口にする前に、エリスが冷たく先を促した。
「術具を起動できる者を見つけるために、セントラルの孤児やタンジーの町から逃げてきた子どもたちが集められ、保護の名目で利用された。あの子どもは、その一人だ」
「……いろいろ言いたいことはあるけど、先にひとつ聞かせて。あの子のご両親は?無事なの?」
アミの両親について、彼女に直接聞いたことはなかった。聞けなかったのは、アスタの弱さだ。
少し考えるように目を伏せた後、ヤフランは首を振った。
「わからない。資料には、タンジーに瘴気が発生した際に保護された子どもだと記されていた。親族の欄は空白になっていたから、生死は不明。恐らく探していないのだろう」
あ、と思った。
その話は。
「タンジーに瘴気?一年前の話でしょ?あの日に起きたのは、土砂崩れじゃなかったの?」
エリスは、決して声を荒げたりしなかった。けれど、その視線は鋭く、その声は震えていた。
説明をしようとしたヤフランを遮って、アスタは口を開いた。
「その話は、俺からさせてくれ」
自分の口で話したかった。
もしかしたら、ずっと聞いてほしかったのかもしれない。誰かに。誰でもいいわけではないけれど、誰かに。
あの日のことを。何もできなかった、あの日のことを。
「一年前。タンジーの町で起きたのは、土砂崩れじゃない。あの日、ハイリカムが拠点としていた場所の付近から、瘴気が発生したんだ」
恐ろしいほどの速度で広がった毒の霧は、町を、人を呑み込み。戦場は混乱に陥った。
当時、貴重な術士として戦場に立っていたティアン・レオントは、軍人や町の住人だけでなく、ハイリカムの残党たちも同じように逃がした。呑み込まれるぎりぎりの場所で声を張り上げて、指示を飛ばして。
そうして、見たのだ。
ひとりの軍人が、瘴気の中へと足を進める姿を。
彼を知っていた。——ラティルス・クロコス。
後見人の名前を叫んで、駆け寄るティアンに気が付くと、彼は振り返って微笑んだ。泣いているような笑みだった。
——君たちは、間違えないでね。
クロコスは止める間もなく瘴気に呑まれた。そして、瘴気の浸食は止まり——どころか、瘴気そのものが一日をかけて消失した。
ラティルス・クロコスが戻ってくることは、なかった。
「戻った後、出した報告書はもみ消された。それどころか、瘴気が発生したってことも、それが消えたってことも、なかったことにされた」
瘴気の広がりは早かったが、消えるのも早かったため、被害は想定されていた程ひどくはなかった。混乱はあったが、軍の動きが迅速で、すぐに落ち着いた。今思えば、軍の動きが早すぎた気もする。
そして、敵味方関係なく救おうとしたティアン・レオントは、まるで英雄であるかのような扱いを受けることになった。——突然の土砂崩れから、敵も味方も救った人格者であると。恐らく軍による情報操作。緘口令を敷こうと漏れ出る噂を、別の話題で塗り替えようとしたのだろう。冗談ではない。話を聞いたときには、大暴れでもしてやろうかと思った。
それはともかくとして。以上の経緯を経て、ティアンが上層部を怪しむのは当然だった。
そして、十二年前のことも。
だって、ずっとおかしいとは思っていたのだ。軍人だった父が、なぜ軍を離れたのか。なぜ、セントラルから離れてコルチカムへと居を移したのか。
コルチカムが、故郷が瘴気にのまれた、あの日。本当は何があったのか。
疑い、調べていたティアンは、口封じとして今回の実験の片棒を担がされることになって。一年前の件があったから、軍が瘴気を浄化する方法を持っていると疑わなかったけれど。
それでも、確信した。——答えは得た。
「それが、俺が巻き込まれた理由だ」
深く息を吐く。話してしまった、と思ったし、ようやく話せた、とも思った。
黙って聞いていたエリスが、激情を堪えるように深く、深く息を吐く。
何かを言いかけて、けれど言葉にならなかったように唇を噛む。その目には、義憤に駆られただけではない痛みがあった。
「……エリス?」
なんでもないと言うように首を横に振る彼は、そういえば何故軍人を嫌っているのだろう。嫌う、というよりは恨んでいるに近いのかもしれないが。彼と軍との間に、何があったのだろうか。
アスタの話を引き継ぐように、ヤフランが口を開く。
「一年前に亡くなったクロコスには、養女がいた。彼女の名前はアヤメ・クロコス。軍属の刻印士だ。彼女があの子どもと、お前に付けられた腕輪を作った」
アヤメ・クロコス。出てきた名前にエリスと顔を見合わせる。
「上層部の命令か?」
「それだけではない。彼女には、別に目的がある」
シオンも言っていた。あの子には、譲れないものがあると。
「彼女は、この実験を利用して上層部を嵌めるつもりだ」
本当なら、とヤフランは語った。
キリカ・スターチー側へと情報を流し、実験が始まる前に拘束してもらう手筈だったのだと。上層部の企みを白日の下に晒し、一年前の件にも追及する。それがアヤメの目的だった。
聞いて納得する。ローダンたちが実験のことを知っていたのはこのためか。
「お前が護衛役に選ばれたのは、お前が上層部を探っていたからだが、もうひとつ。ある人の推薦だ」
「ある人?」
「ナルキース中将」
飄々と笑う姿が脳裏に浮かんだ。
「まさか!」
「事実だ。アヤメ・クロコスもナルキース中将も、お前なら実験を認めず、あの子どもを守るだろうと考えていた。子どもを犠牲にするつもりなんて、なかったんだ。だけど、実験の話がハイリカムに漏れていた。実験が始まった理由のひとつは、元々ハイリカムと再衝突が起きてもおかしくないだったから。そんな状況下にこんな火種を投げ込んだんだ。もういつ内乱が起きてもおかしくはない」
昨晩の男達を思い出す。クラッスラの周辺でもハイリカムの残党がうろついていた。
「コロナリアで襲撃してきたのはハイリカムの連中だったらしい。お前以外にあの場にいた者は全員殺された。お前が子どもと共に逃げたのは英断だったな」
全員殺された。その事実に、ぐっと唇を噛みしめたアスタの背中をエリスが叩いた。
「自分が残っていれば、なんて考えちゃダメだよ、アスタ。君以外にあの子を助けようとしていた人はいる?守れた人はいる?あの子を守るために、その場を離れたのは間違いじゃない」
「……わかってる。なあ、アヤメ・クロコスはどこにいるか知っているか?」
「セントラルにいる。裏切りには気が付かれていないだろうから、自由には動けるはず。……俺が知っている情報はここまでだ。お前と子どもの鍵は軍が管理しているが、アヤメ・クロコスがマスターキーを持っている。彼女と接触しろ」
「もう一つ聞かせろ。お前たちはあの時、あの子を殺そうとしていたな。今日もそのために来たんじゃないのか」
「上からの命令だった。お前と子どもを始末しろと。あの時、裏でナルキース中将が動いていることを知らなかった。ここに来る前に、ナルキース中将に助力を頼まれた。今回は殺すつもりで来たわけではない。お前の位置を補足したことを上に報告していたために、来なければいけなくなっただけだ」
「——結局、お前は上の言いなりってわけ」
エリスの声が冷たい。棘どころか氷だ。
「軍人というのは、命令を遵守しなければならないもの。今まで何度も手を汚してきた。今回も同じだ」
ヤフラン・リリタールという軍人は、強い意志を以てエリスを見据える。
「お前たちが子どもを守ろうとするように、俺にだって守らなければいけない子がいる。俺は、あの子を託された。どれほど間違いを重ねようと、託されたものを守り抜かなければならない」
アヤメ・クロコスのことだと直感した。紫の瞳は、昏く濁っていた。
隣に立つエリスが殺気立ったのがわかった。けれど、何も言わない。言えないのではなく、言わない。握りしめた刃を振り下ろさないために、彼は何も言わないのだ。
アスタの裡に、握りしめたままの拳があるように、エリスの裡には、握りしめたままの刃がある。
代わりにアスタが口を開いた。彼の言い分はわかる。アスタは、自分が信じるものを正しいと信じている。だけどこの人は、自分の行いが間違っていると知っていても、それこそが正しいと信じたのだ。彼の言うあの子を守るために。
「ヤフラン・リリタール。お前はそれが正しいと信じたんだろう。お前にとって巻き込まれた子どもは——アミは、犠牲にしてきた多くの命のひとつで、お前の言うあの子の方が大事なのかもしれない。だけど、アミにとってはたった一度だけの人生だ。お前達の思惑のために生まれてきたわけじゃない」
ヤフランの目は静かだった。それでも、と思っているようにも見えた。
「そうだ。その通りだ。——すまなかった」
「謝る相手が違うだろ」
「そうだな。全てが終わったら、必ず謝罪する」
刺すような殺気をにじませながら、ようやくエリスが口を開いた。
「あの子が会いたくないって言ったら、絶対に会わせないから」
「——ああ」
軍人が立ち上がる。倒れ伏した部下たちを見遣って苦笑した。
「そいつらは連れていく」
「……ねえ。そいつら二人とも、あんたの部下?」
何かが引っ掛かったような表情で、エリスが倒れた部下たちを指差して尋ねる。
「そうだが、どうかしたか?」
「……いいや、なんでもない」
「上はうまくごまかしておく。ナルキース中将も協力してくれるだろう。その腕輪がある限り、誤魔化し続けることは難しいだろうが」
そう言い残して、ヤフランはふたりの部下を引きずって店を後にした。
沈黙。安堵に息を吐いて、アスタはシオンを振り返った。
「アミは、店の中か?」
「ええ。ルリアとセージが一緒にいるわ」
「……そうか」
ほっと息を吐く。エリスが平然としていたから、大丈夫なのだろうとは思っていた が。
そのエリスは言葉を探すように目を泳がせていた。
沈黙は一瞬。
アスタとエリスの頭を軽く叩いて、シオンが笑う。
「おなかがすいたわね。ごはんにしましょう。エリス、お願いしてもいい?」
「……はいはい、宿代ね。いいよ」
「そうだ。買い物ならルリアとセージに頼んだから、気にしなくていいわよ」
買い物を頼まれたところから仕組まれていたのか。じろりと睨んでおくと、エリスは悪びれずに笑って答えた。
「ごめんって」
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