第二章 いつか、胸を張って 6
「お前、手際良いな」
キッチンに立つエリスの背後から、ひょいっと手元を覗き込む。
驚かせないでよ、と全く動じることなく返しながら、その手は淀みない包丁さばきで野菜を切り刻んでいる。
「慣れているからね。手伝ってくれないの?」
「料理は無理。わからん」
「洗い物は任せるからね。シオンと話はついた?」
軍の動きは想定内だったとはいえ、無関係のシオンを巻き込んでしまったのだ。彼女は気にしなくていいと笑っていたが、バツが悪そうにしていたエリスの頭を押さえて二人で謝った。その様子に、少女は心底楽しそうに笑っていたが。
——頼るべき時に、頼るべき人を頼れるのは、間違いではないわ。
ここにいる間は守ってあげる、と美しい少女は鮮やかに笑ってそう言った。
「ああ。居場所はバレてしまったが、あの男の話を信じるなら猶予はある」
「信じていいの、アレ」
「……信じても良いと…違うな。信じたいなって、俺は思う」
エリスが顔を上げた。何を考えているかいまいち読めない瞳がじっとアスタを映す。
それから、ゆっくりと笑った。仕方ないなって、そんな風に。
「まあ、また来ても返り討ちにすればいいか」
「おう。店主に守られっぱなしって訳にもいかねぇからな。俺たちなら勝てるだろ」
「……アスタ、そういうとこどうかと思う」
「あ?」
「なんでもない!ってちょっと、お酒紛れてる。買ってきたの誰!」
買い物袋から出てきた瓶にエリスが眦を吊り上げる。まったくもう、とぶつぶつ呟きながら間違えて飲まないようにする為か、離れたところに置いていた。
「エリス、酒は飲まないのか?そういや、お前いくつだ?」
「十八。アスタは?」
「十九だ。……本当に年下だったかぁ」
同年代か年下と予想していたが、当たっていたらしい。
ウィスタリアの成人は二十歳だが、飲酒は十八歳から可能だ。
「酒は飲んだことあるのか?」
「ないよ。飲みたいとも思わないかな。強いかわかんないから、酔っぱらうわけにもいかないしね」
無防備になるわけにはいかない。そう言っているようにも聞こえた。
なるほど、とアスタは思う。子どもたちを気遣う穏やかさと、視野の広さ。そっと背中を押して送り出すような在り方に、年上のようだと感じることもあった。
彼らから両親の話を聞いたことはない。セージとルリアを育てたのはエリスなのだろう。寝ているところに近付いたアスタにみせたエリスの過剰な反応に、彼のこれまでを見た気がした。
治安が良くないのは、彼らが住んでいるであろうコロナリアだけではない。内乱があり、瘴気に呑まれた町からの移民がいる。なにより、ウィスタリアに侵攻された国の民は、それでも同じ土地の上に生きている。諍いの種はどこにだって埋まっている。きっと、珍しくもないことなのだ。
アスタだって、眠りが浅い自覚はある。アミと二人で行動していた時は、一瞬だって安心できなかった。気を抜くことなんて、できるわけがなかった。
けれど。
エリスが。自分以外に、アミを守ってくれる誰かが居て。安心を得たのは確かだ。
だから、エリスが安心して過ごせると良い。彼に貰った安心を、少しでも返せると良い。なんとなくそう思った。
——思ったの、だが。
「誰!アスタにお酒を飲ませたのは!」
「エリス、手合わせしよう。お前強いだろ」
「しないよ。ちょっと、こら!引っ張るな!」
「いいだろ、少しだけ。最初っから強いって思ってたんだ。一回戦ってみたかったんだよ」
「聞いて?戦闘狂みたいなこと言い出したんだけど」
なーなーと駄々を捏ねる子どもみたいに、アスタがエリスの腕を引っ張る。
食後に出された飲み物に、酒が混じっていたらしい。故意ではなく偶然。誰が悪いわけでもないから、誰かを責めるわけにもいかない。酔っ払いに絡まれながらエリスが深々とため息を吐く。
アルコールが混じっていたとわかった瞬間に、子どもたちの飲み物を確認したが、彼らの手にあったのは間違いなくジュースだった。アミはぽかんとしていて、セージはあきれ顔。ルリアは面白い人ねぇ、と楽しそうに笑っている。
「……アスタお酒弱かったんだね。なんか意外」
「弱い?俺が?お前より?」
「いや、僕じゃなくて…。うん、いいや。寝よ。部屋戻ろうか酔っ払い」
「?手合わせは?」
「しません!セージ、ルリア。アミのことお願いしてもいい?」
何が楽しいのか、にこにこと笑う酔っ払いをあしらいながらエリスが立ち上がる。頼りになる彼の妹はすっかり可愛がっているアミの頭を撫でながら頼もしく頷いた。
「ふ、ふふ。うん。まかせて」
「……早く寝ろよ」
ぶっきらぼうに言うセージは、昨夜のことも、先ほど軍が来たことも察しているのだろう。ごめんねと謝る代わりに、エリスは頭を撫でる。すぐにやめろと払い除けられた。
「おやすみ、おにいさん。エリスさん」
「うん、おやすみ。ほらアスタ、戻るよ」
「おう。おやすみ。……おやすみ?」
昨夜はアスタとアミ、エリスと双子という部屋割りだったが、今夜はアスタとエリスが同室になることにした。子どもたちは一日で仲良くなったみたいだし、なにより酔っ払いの世話をさせる訳にはいかないので。
その酔っ払いは子どもの様に袖を引きながら、にこにこと楽しそうに笑っている。
「強いヤツと戦うのも、強くなるのに必要なんだって。だからさー」
「もう充分強いでしょ」
部屋に戻り、ほらとエリスは水を渡す。受け取ったアスタは、そのままゆらゆらと揺れた。
「実戦はあるけど、手合わせはしたことはあんまりねぇんだよ。やる相手がいなくて」
「へぇ。君って交友関係広そうだと思っていたけど。水飲みなよ」
まさか、とアスタは笑い飛ばした。
「ねえよ。俺友だちいねぇもん」
「…そっか、一緒だね。水飲みな?」
再々促して、ようやく酔っ払いが水を口にする。
「だからさー。なーなー」
「はいはい、今度ね。……アスタは強くなりたいの?」
アスタがきょとんと目を丸くした。無防備な表情だった。
それから、そうだなぁと笑う。滲むように。もうここにはないものを想うように。
「強くなりたかったんだ。守るために」
「……そっか。それが、君の原点なんだね」
「そうだな。……せめて、あの子に胸を張りたいって思ったんだ」
向かいのベッドに腰かけながら首を傾げるエリスに、アスタは誇らしげに答えた。
「俺の、最初の友だち」
でも。零れ落ちるような声が笑った。
「もう胸は張れねぇなぁ」
「どうして?」
「何もできなかったから。俺さ、父さんが軍人で。子どもの頃は、正義の味方みたいに思っていたんだ」
でも、そうじゃなかった。あの戦場で——タンジーの町で、アスタは何もできなかった。
アルコールで緩んだ思考の中で、アスタは言葉を零す。
「仲間を守る為。より多くの人を守る為。そんな言い訳ばっか並べて、銃を握ろうとして。でも、戦えなかった。術具を使えなかった。味方を守る為だけにしか、俺は動けなかった。俺さ、覚悟がなかったんだよ。殺される覚悟はしてた。だけど、殺す覚悟なんてなかった」
仲間を守るためにあの戦場に赴いた。戦場というものを。戦うということを。恨まれるということを、わかっていなかった。敵も味方も殺し合うあの場所で、アスタは何もできなかった。
臆病者と罵られたのだと、アスタが苦笑する。その通りだと。
英雄なんかじゃない。そんなものにはなれなかった。
だって、そう。そうだ。そもそも、今まで一度だって、誰かを守れたことなんて、なかったのに。
強くなれば守ることができるなんて。そんなものはどこまでも理想で。勘違いで。思い上がりだったのだ。
黙って聞いていたエリスが、アスタの手からコップを取り上げた。
「——殺せない奴は臆病者?なあに、それ」
青白い炎を宿した瞳が、アスタを映す。
「軍の価値観を、戦場の価値観を、否定する気はないよ。だって僕は、戦場に立ったことなんてないんだから。でもね。どんな経緯で戦場に立ち、どんな思いで武器を握っていたのだとしても、それは戦場に立った彼らの選択だ。彼らは、彼らの意思で戦った。君は君の、彼らは彼らの譲れないものの為に戦った。違う?」
瞬きひとつで、揺らめいた炎を掻き消して。
「君は君が信じたもののために、その戦場で戦ったの。殺すことだけが戦うってことじゃないって、僕は思う。戦場のことはわからなくても、譲れないもののために戦う気持ちは、僕にもわかるから」
エリスは、ふたりの子どもの手を引き続けてきた兄の顔で笑ってみせた。
「それにね、アスタ。多くの敵を殺して誇る誰かより、臆病者だって言う君の方を、
僕は信じる」
「………」
「君は多くの人の命を救ったんだよ。じゃなきゃ、いくら軍の情報があったからって、英雄だなんて呼ばれない」
そうでしょ、と言われたって、アスタが素直に頷けるわけがない。
頷いていいはずがない。頑なに首を振るアスタに、エリスは子どもに言い聞かせるような口ぶりで繰り返した。
「君は、人を救ったんだ」
「——それでも、俺は」
言いかけた言葉は静寂に溶けた。
限界が来たアスタは、ぱたりとベッドに倒れ込んでそのまま眠りに落ちていく。
それを、苦笑半分で見守って。
「……明日二日酔いにならないといいけど」
やっぱりお酒は飲まないでおこう。
よっこらせ、とアスタをベッドに押し込む。しかめっ面の寝顔を見下ろして、エリスはゆるりと紫の瞳を緩めて笑った。
「おやすみ、良い夢を」
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