第二章 いつか、胸を張って 7



 そして、日付が変わった頃。

 アスタは心臓を握られたような衝撃で目を覚ました。弾かれたように飛び起きる。全身が痛い。内臓がせり上がってくるような吐き気に口を押さえて嘔吐く。冷や汗が噴き出して、体温が一気に下がったような感覚に自分が上を向いているのか、下を向いているのかさえわからなくなった時。

 ぱっと、視界が明るくなって。

 そっと、背中に触れる手があった。


「——アスタ」


 氷のように冷たい掌と、すっと耳に入ってくる静かな声にパニックを起こしかけていた思考が引き戻される。

 背中に触れていた手から、暖かいものが流れてくるのを感じた。それは暴れまわっていた霊力を宥めるように抑え、緩やかに流していく。全身の痛みが引いていき、霞んでいた視界が戻ってきた。


「……エリス?」


 友人を呼んだ声は掠れて震えていた。応えはない。

 やがて、波が引くように発作が収まり、アスタはゆっくりと顔を上げた。緊張を解いて息を吐くエリスと目が合う。


「落ち着いた?」

「ああ。……その」

「水を持ってくる。眠れそうなら寝てなよ」


 言い置いて、部屋を出ていくエリスを、止められなかった。

 気付かれていると、知っていた。腕輪の刻印式を見たと、彼自身が言っていたのだし。

 気付いていて、その上で何も言わないのだと、知っていた。それはエリスの優しさ で、確かに引かれていた一線だった。

 その線を、エリスは越えて手を差し伸べてくれたのだ。

 くるりと仰向けに態勢を変えて、額に手を置く。心臓はばくばくとうるさいが、すぐに落ち着くだろう。

 眠れそうには、なかった。

 エリスが戻ってくるのと同時に体を起こす。


「大丈夫?」

「おう。悪かったな」

「気にしないで。水飲めそう?」


 受け取った水をごくごくと飲み干す。


「ありがとな、エリス。すぐに落ち着いたのは、お前が何かしてくれたんだろ?」

「霊脈が暴走してたから、整えただけ。言っておくけど、応急処置だよ」


 ほう、とわからないまま頷く。


「医者ってそんなこともできるのか」

「できるわけないでしょ。僕は一応、術士でもあるからね」

「俺も術士だが、そんなことできないぞ」


 純粋に凄いなと思った。どうやったら霊脈を整えるなんて芸当ができるのかさっぱりわからない。

 感心するアスタに対して、エリスは複雑そうに口をへの字に曲げた。


「エリス?」

「よく……」

「うん?」

「よく、信用できるね。何も話してないのに」


 気まずそうにエリスが目を逸らす。

 ああ、と納得する。アスタがエリスについて知っていることは多くない。二人の兄であること、コロナリアに住んでいたこと、医者の真似事ができること。アスタが彼に対して抱く印象の大半が、推測したことでしかない。昨夜のことだって、事情があったとはいえ何も言わずに画策していた。

 だけど。


「何でも話してくれることが、信頼の証だとは思わない。お前は確かに何も言わないけど——嘘も言わない」


 何も言わない代わりに、エリスは行動で示した。子どもたちを大事に思っていると。それから、軍人であると知っていても、アスタのことを何度も助けてくれた。

 エリス・ユーフォルビアという青年が、優しいひとだと知っている。

 紫の瞳が揺れる。ゆっくりと瞬いて、それからふいっと逸らされた。


「——そうだ。それ、見てもいい?」

「話逸らすの下手か?」

「うるさい」


 腕まくりして右腕を差し出す。ここまで来たら、躊躇も何もない。


「見たんじゃなかったのか?」

「ちらっとね。言ったでしょ、これにはふたつの刻印式が刻まれているって。見たいのはこっち。ちなみに、発信用の刻印式は裏側の方ね」


 エリスが示したのは術具の表側だった。隙間から覗くと、確かに表と同じように刻印式が刻まれているのが見えた。


「知らなかった」

「嵌める前に気付かなかったの?」


 呆れたように言われた。あの時は感情のままに動いたので確認せずに装着してしまった。何か察したらしいエリスの目が冷たい。こほんと咳払いで話を変えることにする。


「何かわかったか?」

「うーん。アスタはこれ、なんて説明された?」

「霊脈を乱す刻印式だって言われたぞ」


 繰り返されれば、命の保障はないとも言われたが、そちらは黙っておく。


「これ、霊脈を乱す刻印式なんかじゃないよ。そもそもそんな刻印式、聞いたことない。もしそれが開発されていたとしても、ここに刻まれているのは違う」

「断言か。なんでわかる?」

「アスタの症状から推測はしていたけど、見てわかった。これは刻印式として成立していない。構造的にないといけないはずの場所に刻印がないんだ。霊脈が乱れているのは、発動できない刻印式に強制的に霊力を通しているせいで、霊脈が狂っているんだよ」


 刻印式には基礎構造があることは聞いたことがあった。成立していない刻印式に霊力を通すとどうなるか、アスタは知らない。適応範囲外の刻印式を扱うと霊脈を乱すとは聞いたことがあるのだが。


「霊脈が狂う?適応外の刻印式とは違うのか?」

「違うよ。たぶんだけど、アスタ、他にも術具持っているよね?それに霊力を通す時に、この不完全な刻印式が霊力の流れを妨げていたんだと思う。普通なら、術具を複数身に着けていても装着者が発動する術具を選択できる。だけど、この刻印式は成立していないからこそ、選別できなかった。循環するはずの霊力が留まってしまった結果じゃないかな。発作は霊力を使う度に起きていたんじゃない?」


 はてなを浮かべるアスタの頭に、ぽすっと手刀が落とされた。


「アスタの発作は、体内を流れる霊脈を無理矢理せき止めた結果起きたものだってこと。ほら、血液だって、流れが悪くなると体に異常が出るでしょ?術具を使えば使う程、霊脈と体に負担がかかって発作が起きやすくなる。術具を使った後じゃなくても、発作が起きるようになっているのはそういうことだろうね」

「わかったような、わからないような?」


 ただ、エリスがアスタに刻印式を使うなと言った理由は分かった。

 昨夜の時点で、彼はここまで推論を立てていたのか。


「でも、適応外の刻印式を使った方が早かったんじゃないのか?あれも霊脈を乱すって聞いたことがあるんだけど」


 アスタの適応範囲は広いが、軍はそれを知らないのだから。


「弾かれはするけど、強制的に霊力を流し続けることで発動自体はできるんだ。適応っていうのはね、安全に発動して扱えるって意味なんだよ。えーっとね、鍵で例えようか。刻印式を錠、霊力を鍵だと考えて。型の合う鍵だけでしか錠は開かないでしょ。だけど、ピッキングとかで無理矢理開くことはできる。適応外の刻印式を使うのは、そういうこと。無理を通し続ければガタが来る。傷が付く。そして、無理矢理こじ開けて起動した刻印式は、閉じることもできずに発動し続ける。暴走する刻印式はやがて術士を殺すんだ。適応外の刻印式を使うなって言われているのは、術士の身を守るためだよ」


 ほうほうなるほど、と頷いて拝聴する。

 はるか昔に似たような説明を受けた気はするのだが。


「適応外を使わなかったのは、君の身の安全を保障するため……。いや、適応外の術具なら、他の術具と区別ができる。意識して発動しなければ命には関わらない。だから使わなかったのかもしれない」

「そーなんだぁ」

「何で知らないの。適応のことなんて基本中の基本だよ」

「座学は嫌いなんだよ」

「どうせ、刻印式の基本構造も知らないんでしょ」

「よくわかったな!」

「胸を張るんじゃない!知っているって大事なんだよ!例えば、そうだね。近い効果を持つ刻印式の構造はよく似ているから、初見でも効果を推測しやすいんだ」


 へー、と生返事。ジト目が返ってくる。表情豊かでなにより。


「……特に、反対の効果出力を持つ刻印式は酷似しているんだよ。受信と発信。吸引と反発。あとは……ああ。ごめん、ここまでにしようね」

「呆れられた気がする!」


 よしよし、と頭を撫でられた。子ども扱いもされている気がする。

 仕方がない。体を動かす方が好きだったのだから。


「話を戻そうな!えっと、術具が成立していない刻印式でないとしたら、ナルキース中将は何故霊脈を乱す刻印式だなんて言ったんだろう。そのまま言っても良かったと思うんだけど」

「……霊力を使いさえしなければ、発作にはつながらないからね。だけど、そう言っておけば、装着した後に術具を発動しなければいいって油断するでしょ?現にアスタは遠慮なく術具使っていたみたいだし」

「あー、なるほど」

「でもまあ、本当のことを知っていても、君は術具を使っていただろうけど」

「それは……どうだろう」

「使っていたよ。きっとね」


 買いかぶりすぎだ。アスタはただの臆病者でしかない。

 まっすぐに向けられる眼差しに、居たたまれなくなって目を泳がす。


「乱れた霊脈が臓器に負担をかけているんだよ。心臓にもね。このまま霊力を使わなければ、落ち着いていくと思う。いい?絶対に刻印式を使わないで」

「はーい。善処しまーす」


 睨まれた。


「わかってるの。死ぬよ」

「わかってるさ」


 死ぬと告げられても、アスタはどこか他人事のように落ち着いていた。だろうな、と納得する。

 自分の身体だ。誰よりもわかっている。

 わかった上で、それでもアスタは選ぼう。たとえ、死ぬことになったとしても。

 ——もしも再び、その時が来たなら、迷うことなく走り出すのだと。

 やっぱり、部屋を片付けておいてよかった。


「ほら、話。話変えようぜ!」

「あのねぇ……。まあいいや。もう寝なよ、落ち着いたでしょ」

「目が覚めた」


 まったくもう、と言いながら、明かりを消したエリスが反対のベッドに戻っていく。

 寝るのかと思ったが、エリスは壁に寄りかかるようにしてアスタに向き直った。付き合ってくれるらしい。


「アスタが興味ない話をしてあげよう。大地にも霊脈が流れているって話は聞いたことある?」

「なんでだよ。そうなのか?」

「その方が眠くなるでしょ?龍脈って言うんだって。昔、東にあった国ではそれを利用して国を守っていたって聞いたことがある」


 おとぎ話とか、言い伝えとか、そんなものだろうか。

 昔、家でまとめた本を見たような気がする。読んだことはないが。


「聞いたって、シオンに?」

「なんでシオン?父にだよ。寝るときに…話し、て…」


 エリスがふいに言葉を止めた。どこかぼんやりと宙をみつめている。

 何かを探すような、迷子のような表情をしていた。


「……エリス?」

「あ、うんん。何でも……いや」


 言い淀んで、ベッドの上、膝を抱えるように態勢を変えた。まるで、泣くのを我慢する子どものように。

 うつむいたエリスの横顔を、黒髪が隠す。


「覚えていないんだよ、子どもの頃のこと。今みたいに、ふっと思い出すこともあるけど。……覚えているのは、両親の顔と、自分の名前。それから」


 言いかけた言葉を、なんでもないと呑み込んで。

 顔を上げたエリスは、暗闇の中でもわかるほど穏やかに笑った。


「あの子たちとは血が繋がってないんだ。あの子たちが赤子の時に出会って、僕が育てた」


 子どもの頃の記憶がないこと。セージとルリアとは血が繋がっていないこと。

 多分、話すつもりなんてなかったであろう、彼の秘密。

 手渡された信頼をそっと受け取って、噛みしめて。アスタはゆるりと目を細めて笑った。


「——おまえ、ほんとうにすげぇなぁ」


 僕が育てた。そう言うということは、両親とは一緒にいられなかったのだろう。

 一人で生きていく大変さは、アスタも知っている。その上で、自分よりも小さな子どもたちを守って、育てて。医者の真似事ができるほどに勉強して。弟妹達を守るために、大人と戦えるほどに身体を鍛えて。

 凄いなと、思った。心からそう思った。


「……アスタもすごいと思うけどね、ある意味」

「?何か言ったか」

「何も。もう寝よう。明日も忙しいよ」


 言いながら、エリスはベッドに潜り込み、こちらに背を向ける。眠気は未だ遠かったが、アスタも横になった。

 あのさ、と静寂を破るようにエリスが尋ねる。


「——アスタはさ、アミを送り届けたらどうするの?」

 ああ、と思った。お互い、踏み込まなかったところだ。当たり前のように彼女を家に届ける話をして。だけど、その先はどうするのか。

 アミを送り届けて。その先。

 その先、なんて。

 言葉を返せないアスタに、エリスは密やかに笑ったようだった。


「アスタ、考えておいて。君はその方が良い」

「お前は?」

「僕は、ずっと前から決めているよ」


 肩越しに振り返った紫の瞳は、どこまでも凪いでいた。


「——あの子たちに、安心できる場所を。僕にはずっと、それだけだ」


 その瞳を、よく知っている。

 ——覚悟をした人の、目だ。








「おかえりなさい」

 出迎えた声に、ヤフラン・リリタールは足を止めた。

 目を覚ました部下たちと別れ、報告の為に上官室に向かっているところだった。

「……アヤメ。ここにいたのか」

 黒髪を耳の下でゆるく纏めた、軍服の少女。アヤメ・クロコスだった。

 まさかここで会えるとは思っていなかった。自由に動けるだろうと推測していたが、セントラルにいるとは。

「なんでここにいる?」

「実験が中止になったからよ。あなたも聞いているでしょう」

 肩を竦める少女。コルチカムに向かう予定だったところが中止になったのだろう。

 一年前の一件から監視下に置かれているはずだが、今その気配はない。自分がいるということでお目こぼしされているのか。彼女の機嫌を損ねて、最終的に困るのは上層部のほうだから。

 ともあれ、彼女の目的を考えれば事件の中止は困る筈なのだが、アヤメは愉快そうな笑みを浮かべている。

「イヴェールで、ティアン・レオントと接触したんでしょう。シオンさんに追い返されたのね」

「ああ」

 接触しようとしたという事実作りの為で、少人数だったとはいえ、そんな言い訳の余地もないほどに叩きのめされた。

「当たり前よ。あの人に勝てると思っていたの?」

 黒色の瞳には呆れたような色がある。少し自慢げでもあった。

 彼女が、ある女性に憧れているのだと零したのはいつだったか。それがあの紅色の少女だとは思わなかったが。

「どうせ一年前のリベンジも兼ねていたんでしょう?本当に軍人って野蛮よね」

 チクチクと刺してくる様子が、先ほどのエリス・ユーフォルビアと名乗った青年に重なった。

 あの、目を引かれずにはいられない美貌の青年。

 冷ややかな眼差しと、隠しもない嘲笑を浮かべながらも一切損なわれない美しさ。あれは苦労してきただろうと思う。

「——で?同行者の素性はわかったの?」

 は、と我に返る。返事をしようとして、後ろから歩いてくる背の低い軍人に気が付いた。

 軍帽を目深にかぶった彼が通り過ぎるのを待って、人気のない場所へと移動する。

「エリス・ユーフォルビアという名らしい。何か目的があるのか、巻き込まれただけなのかははっきりしないが」言葉を切る。何故子どもを助けたのかと尋ねたヤフランに、エリスという青年は言った。

——そんなの正しいわけがない。正しいなんて認めない。絶対に。

あの眼差しに、あの言葉に、嘘はなかった。

「……そう。ティアンと少女の敵ではないのね?」

「彼はティアン・レオントに誠実に接していた。目的はわからないが、彼らの敵ではない」

 軍の敵ではあるかもしれないが。

 アヤメがほっと肩の力を抜く。乏しい表情に、安堵を浮かべて。

「——そっか」

 長時間姿が見えないと疑われる。戻ろう、と彼女を促そうとして、ふと気になった。

 実験を利用して、総統派の上層部を嵌めること。それがアヤメの目的だと聞いた。

 だが、何故。危険を冒してまで、彼女が動こうとする理由は、なんだ。

「アヤメ」

「なにかしら」

「お前の目的は、なんだ」

「目的?決まってるじゃない」

 アヤメ・クロコスは笑う。

 どこまでも、凪いだ目で。

「帰るのよ」

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