第三章 そんな、夢をみる
アスタが起きると、すでに隣のベッドには誰もいなかった。
昨夜のことは、ちゃんと覚えている。今まで酒に酔ったことはなかったのだが、随分な醜態を晒してしまった。発作を起こした後のことも記憶にある。エリスには礼を言わないと。
着替えて階段を降りると、開店前の店内ではアミと双子が朝食を食べていた。
「おにいさん、おはよう!」
「おはよう、アスタさん。よく眠れた?」
「ああ。あー、昨日は悪かったな。情けないところ見せちまった」
「あんた、あんな風に笑ったりするんだな。意外だった」
トーストに噛り付いていたセージが、からかうでもなくそう言った。
自覚はある。自分でも、あんなに笑ったのは久しぶりだと思う。気が緩んでいたのだろうか。緩んでいたのだろう。ぱんぱんと頬を叩く。
「赤くなるよ?」
「お」
朝食が乗ったトレイを持ったエリスが、後ろに立っていた。いつの間に。
「おはよう、アスタ。二日酔いは大丈夫?」
「大丈夫だ。昨日はありがとう、色々助かった」
「面白いものが見れたからいいよ。はいこれ、朝食。そっちで食べて」
「ああ、助かる」
ありがたく受け取って、セージの隣の椅子を引く。何故隣に来るのだと言わんばかりの目を向けるセージを、向かいに座るルリアが諫める。彼女の隣に座るアミはすでに朝食を終えていた。
トーストに嚙り付いていると、コーヒーを片手にエリスがやってきた。
「もう食べたのか?」
「さっきね」
隣のテーブルに着いたエリスが、小さくあくびを零す。やはり眠れなかったのだろうか。悪いことをしてしまった。酒を飲んだのは事故だったが、そのせいで彼はアスタと同室で眠らなければいけなくなってしまったのだから。
視線に気付いたのか、紫の瞳を瞬かせて、エリスが苦笑する。
「寝たよ、ちゃんと」
「本当か?」
ほんとほんと。返って来る言葉は軽い。
エリスの視線が、すっとアスタの背後へと向けられた。つられて振り返ると、シオンが階段を降りてくるところだった。
「おはよう。アスタ、体調は問題ない?」
「おはよう。大丈夫だ。昨日は迷惑をかけた」
「いいえ。ちゃんと確認していなかった私にも非があるわ。子どもたちが間違って飲んでしまわなくて良かった」
昨夜は、即座にエリスが確認していた。本当ならアスタも確認する側に回らなけれ
ばいけなかったというのに、情けなくもアルコールに敗北した。
「ところで、今日の予定は決めているの?」
「決めていない。アヤメ・クロコスと接触する方法を考えないと」
アヤメ・クロコスがセントラルにいる以上、できれば彼女の方から接触してきてくれると助かるのだが、難しいだろう。
「どうかした?」
「ええ。さっき友人から連絡があったの。ネレーイスという町は知っている?」
セントラルから北東に位置する町の名前だったはず。スリージエからはカリプタスという町を挟んだ北側に当たる。ハイリカムが現在も潜伏していると言われているタンジーに近い町でもある。
「ネレーイスに住んでいるのだけど、不穏な気配がするって言っていてね。一応伝えておこうと思って」
「不穏な気配?」
「ええ、ジニアは…ああ、ジニア・リンネリスって人なのだけれど。勘が良い人だから。気にしておいて」
「リンネリス?」
ルードと同じ家名だ。親族だろうか。エリスも何か引っ掛かったらしく、何かを思
い出すように首を傾げている。
「急いでいたみたいだから、詳しい話は聞けなかったの。また私から連絡しておくわ」
「わかった。店にいる。何か手伝うことはあるか?」
シオンが答える前に、エリスが手を上げた。
「僕はちょっと書庫が見たい。預けていたものがあるでしょ?」
「ああ、それなら奥の方に仕舞っているわ。一緒に行きましょう」
「ありがとう。アスタが一緒でもいい?」
「もちろん」
「アスタも、それでいい?」
事情がよくわからないが、とりあえず頷く。
書庫というからには、何か調べものでもあるのだろうか。いや、預けていたものと言っていた。付いていっても良いということは、アスタが知っても構わないことなのだろう。
「今日は定休日だろ。オレは掃除でもする。アミ、お前はどうする?」
「アミも手伝う!」
「なら、私も一緒に。いいでしょ、シオンさん」
「ええ。よろしくね」
数日で仲良くなったものだ。アミも随分明るくなったし、こちらの表情を伺うような様子もなくなった。食べ終わったトレイを持って、厨房へと消えていく子どもたちを見送る。
シオンはすでに朝食を終えていたらしい。朝食を終え、エリスと並んで食器を片付ける。それから、楽しそうな声を背に、奥の部屋へと向かった。
シオンと始めて顔を合わせた部屋の奥に、もう一つ扉があった。仕掛けがあるのか、かちゃかちゃと鍵を弄っている少女の背中から、窓の外へと視線を移す。
薄紅の花が、ひらひらと舞っている。陽の光を受けて、花は美しく咲き誇っている。綺麗だと思う。不吉だと畏れられている花だとはとても思えない。
「——なあ、あの花って焼き尽くされたんじゃなかったのか?」
「うん?ああ、一本だけ残っていたのよ。そのままにしていたら、切られてしまうでしょう?何も悪くないのに。だから、私がここにいる間くらいは隠しておこうって思ったの。今は不吉を招くと言われているけれど、あの花は、元々は祝福の象徴だったのよ」
ぎい、と華奢な手のひらが分厚い扉を押し開く。
書庫と呼ぶだけあって、そこには天井まで埋め尽くさんばかりに本棚が並んでいた。隙間なく本が詰め込まれている。専門書やら語学書やら図鑑やら。ちらりと見えるだけでもジャンルは幅広い。
「……図書館みたいだな」
本好きにはたまらない場所だろう。
「アスタは、本はすき?」
「いや、体を動かす方が好きだな」
本を読んでいると眠くなるのだ。エリスが声を立てて笑う。だろうね。
迷路のように並ぶ棚の間を縫って、シオンが迷いのない足取りで奥の本棚へと向かう。そこから一冊の本を取り出すと、これでしょうとエリスに手渡した。
礼を言って受け取ったエリスが、ひとつだけ置かれた机の上に丁寧な仕草で置いた。
それは背表紙も表紙もない、古ぼけた本だった。本というより、手帳の方が近いのかもしれない。慎重な手つきでめくるページに描かれた文字は、手書きのように見えた。
「……エリス、それは?」
「父の手記だよ。もしくは研究資料。覚えてはいないんだけど、これを読む限り、父は極東の国について調べていたみたいでね。失くしたり誰かに知られたら困るから、シオンに預かって貰っていたんだよ。あの国について調べることは禁止されているし」
アスタも瘴気について調べていた時に、極東の国についても情報を集めていた。だが、軍部にも目ぼしい資料はなく、ただそこに存在していたことしかわからなかった。不自然なほどに情報を消された国。知ることすら禁じられた国。瘴気が生まれた、最初の国。
肩越しに振り返ったエリスが、悪戯っぽく目を細める。
「気になるでしょ?昨日の話で思い出したんだ」
「俺も見ていいのか?」
「うん、もちろん」
当たり前でしょ、とエリスが頷く。本を扱う手つきで、彼がそれをとても大事にしていることはわかる。昨夜、両親について明言しなかったが、恐らくもう亡くなっているのだろう。だとしたら、この本は形見のようなものだ。そして書かれている内容は禁じられているもの。それを見ても良いと、当然のように手招いてくれた。
「……ありがとな」
「うん?何か言った?」
「何も」
ひょいっと隣からページを覗き込む。そこには、手書きの地図があった。ウィスタリアの大陸が簡易的にだが、正確に描かれている。地名が記されていない代わりに、円形の線が大陸に沿うように引かれていた。円の中を無数に枝分れしているが、出発点も終着点もなく循環している。がたがたと揺れている線を、細い指がそっと撫でた。
子どもの頃のことを覚えていないとエリスは語った。父親の書記をめくる彼は、まるで夢でみた光景を追う子どものように、柔らかな笑みを浮かべている。思い出を持たない彼にとって、両親の足跡を感じられるものを手にすることは、きっと特別なことなのだろう。
ふいに、父のことを思い出した。瘴気に呑まれて帰ってこなかった、あの広い背中を。
優しい声が、蘇る。
——守ってあげなさい。
「アスタ?」
「……いや。何でもない。それは、大陸の地図か?」
「そう。昨日話したでしょ、大地に流れている霊脈のこと。龍脈と呼ばれる大いなる力の流れ。これは、その流れを記しているんだって。ここに書いてある」
「ほーう?」
「あ、興味ないな」
そんなことはない。座学は嫌いだし、全て理解できているとは言えないが、知ることは大事だとどこかの誰かが言ったので。
ふーん、とエリスがどこか照れたように紙面へと向き直り、次のページをめくる。そこには、大きな円の中にみっちりと幾何学模様に似た線の連なりが描かれている。——刻印式だ。
「ええっと、極東の国にあった刻印式だって」
シオンが話していた。極東の国は桜の木で囲まれていたと。その木には、古代の刻印式が刻まれていたのだという。桜の木は龍脈に沿って植えられ、その力を利用して刻印式を発動させていた。
「そんなことできるのか?」
「霊力を直接注ぐほど強い効果は得られないが、その代わり持続的な刻印の発動が可能になる、って書いてある」
「そうか。人が刻印式に注げる力には限りがあるけど、龍脈が循環した力の流れなら、継続的に霊力を供給できる。そういうことか?」
「たぶんね」
「刻印式の効果はなんて?」
「ええっとね。祝福を祈るための。そう書いてある」
祝福を祈る。抽象的だが、優しい術式だと思った。たとえその国が、戦火に焼かれたとしても。
「祝福……まさか」
「エリス?どうした?」
「うーん…、いや。ちょっと気になって」
「?まあ、わかったら教えてくれ。それよりさ、この刻印式知っているような気がするんだよな」
少し考える。刻印式の構造なんて気にもしていないのに、引っかかるということは、何度も見たものだろう。身体強化、視覚強化の刻印式が似た構造しているとは思えないし、とまで考えて、思い至った。
「これだ、これ。ほら、銀時計の内側に」
ポケットから銀時計を取り出し、開いて見せた。蓋の裏側には刻印式に似た模様が刻まれている。以前、試しに霊力を込めようとしたこともあったが、霊力が通らなかったのだ。その為、これは刻印式ではないのだろうと思っていたのだが。
「あれ、ちょっと違うか?」
「いや、同じだよ。ここ、最初の霊力を通すところと、最後の起動するところが抜けているんだね」
「へー。だから、霊力が通らなかったんだ」
「……良かったね。そうじゃなかったら、今持っている術具と同じように発作を起こしているよ」
「あっ」
おバカと言わんばかりの呆れた目を向けられた。知らなかったのだから仕方がないだろうと反論しようとして、知ることは大事なのだと言われた言葉を思い出して押し黙る。
エリスは、それ以上何も言わなかった。
「……その時計は、どこで手に入れたの?」
「母の形見だよ。父に渡されたんだよ。お前が持っていなさいって」
エリスが短刀の話をした時と、同じ表情を浮かべた。気にすんなと伝える。母はア
スタが生まれてすぐに亡くなって、写真で顔を見たことがある程度。刻印式を調べていた学者だったと聞いたことがあるが、よくは知らない。
「アスタって東の方の出身なの?」
「いや、セントラルだ。母の故郷は知らない。父はコルチカムだったはず。俺も瘴気に呑まれるまではコルチカムにいたんだ」
「——え?」
ばっと、勢いよくエリスが顔を上げた。紫の瞳が、愕然と見開かれている。
おかしなことでも言っただろうか。確かに、コルチカム出身者は珍しいかもしれない。瘴気から逃れたとなれば、さらに。あの日、コルチカムを覆った瘴気は、恐ろしい速度で町を呑み込んでいった。死者や行方不明者はかなりの数に上ったという。
何かを言いかけるように薄く唇を開き、音にならなかった言葉が虚空に溶けた。衝動的に伸ばされた手がアスタの腕を掴む。
「うお、どうした?」
「あ……。ごめん。えっと——大丈夫?」
「うん?何が?大丈夫だぞ」
「あ、うん、そう。そうだよね。ごめんね」
動揺がこちらにも伝わってくる。力を失くした手がぱたりと落ちて、耐えるように強く握られる。
それから、困ったように笑ってもう一度、ごめんねと言った。
「なんでもないよ。ごめんね。続き見よう」
聞いてくれるなと、その背中が言っていた。気を取り直すようにぺらりとページをめくる。
気にはなるが、エリスを困らせたいわけではない。先ほどと同じように、横から本を覗き込む。
描かれた刻印式の上に、文字が書かれていた。
二つの声が、重なって読み上げる。
「——呪い?」
「お邪魔しま―す」
「わぁあ!?」
突然現れた声に、エリスとふたり飛び上がった。ばたんと本を閉じる。
奥にいたシオンがひょいっと顔を覗かせた。
「あらルリア、どうしたの?」
「手紙が届いてたんだけど…。え、なに、どうしたの?」
「いやいやなんでもない、なんでもないぞ!」
きょとんとしているルリアに対して、自分でも不自然なくらいに手を振って誤魔化す。首を傾げながら、ルリアが手に持っていた手紙をシオンに手渡した。
「直接投函されたみたい」
白い封筒には何も記されていなかった。宛名も、差出人も、消印もない。
ふむ、とひとつ頷いた彼女は、中身を検めることなくアスタにそれを渡した。訝しがりながら受け取って、慎重に封を切った。
「誰から?」
本を机の上に置いて尋ねるエリスに、手紙をひらりと振ってみせた。
「——お呼び出しだよ」
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