第三章 そんな、夢をみる 3


 エリスはコーヒーを飲みながら二人の話を聞いていた。

 若い子だな、と思う。ルード・リンネリスは確か十七歳か。なら仕方ないのだろうか。エリスは、普通の十七歳がどんな感じなのかはわからないけれど。

自分とひとつしか変わらないことは置いておく。

 雷の音を掻き分けて届く二人の会話に、エリスは密やかに嗤った。協力。信用。  ——馬鹿らしい。

 彼らは軍人だ。ヤフラン・リリタールが語ったように、彼らは軍人なのだ。上官からあの子を殺せと命令が下った時、彼らはどうするのか。間違っていると反発するか。命令に従うか。正しくないと思うのなら、自分の意思を貫き通せるか。選択のその時、一瞬だって迷わないか。

 裏切る可能性を抱え込んでまで、彼らの意を汲んであげられるほど、今のアスタに余裕はない。

 アスタ・エーデルワイズは物語の英雄ではない。すべては守れるだけの力はない。それだけの強さがないから、彼はたったひとつを選んで守ると決めたのだ。

 エリスは知っている。守ると決めたものを、守り続けるためには、選ばなければいけない。

 エリス・ユーフォルビアは、この名をくれた子どもたちを守るためにその他すべてを敵と定義した。何者にも心は許さない。語らない。本当のことなんて話さない。

 ルード・リンネリスには多分理解できないだろうなと思った。自分が正しいと信じたことだけが正しいと思っている。納得を得られると思っているのだろうと、そこまで考えて、首を振った。軍人を一括りにして酷評してしまうのは、自分の悪い癖だ。

 アスタ・エーデルワイズが軍人と知りながら、歩み寄ることができたのは、彼がアミという子どもを守っていたからだ。最初から今まで、彼はアミを守る姿勢を崩さなかった。軍に所属しながら、軍に利用されようとしている子どもを、守っていたからだ。文字通り、命を懸けて。


 ——命ってのは大切にされるべきもので、誰かに理不尽に奪われて良いものじゃない。綺麗ごとだとしても、俺はそれが正しいと信じている。


 ああ、そうだね。アスタ、僕もそう思うよ。

 同じように思う人がいて。その為に戦える人がいるのだと。そういう人がいるのだと、知れて良かった。

 その人が、アスタで良かった。


「……なんてね」


 ため息をひとつ。じくりと痛んだ胸の傷をそっと抑えた。雨の日はこの傷が痛むのだ。

 盗み聞きを切り上げて、描いてもらった地図を見る。胸に抱くのは好奇心と——多分、クソみたいな義務感。

 地図に書かれた印の配置に、既視感があった。記憶に刻んだ地図と目の前の地図を照らし合わせて。


「——やっぱり」


 どくどくと、心臓が鳴る。

 父の本に記された龍脈の流れ。細かく分岐した龍脈の合流点と、瘴気が発生した場所が一致している。 発生時期も、東の町を始まりにして龍脈に沿うように順に並んでいた。唯一時期が外れているのはコルチカムだが、これは例外だ。エリスは、それを良く知っている。

 龍脈の流れは、東の町を起点とすると二つに分岐していた。片方はスリージエへ。もう片方は北へと向かい、さらに分岐している。瘴気の発生はこちらに沿っていた。

 流れを追いかけていた指が止まる。は、と息を詰めた。


「……まさか」


 次は——この町だ。

 上げかけた悲鳴を呑み込む。心臓が早鐘を打つ。

 落ち着け。だとしても、すぐに何かが起きるわけではない。

 だが、心臓を冷たい手で撫でられたような悪寒が走った。

 大丈夫だと思う心と裏腹に、妙な胸騒ぎに追い立てられるようにエリスは立ち上がった。がたん、と大きな音を立てて椅子が倒れる。

 アスタと合流しようと店から出て。


 ——にゃあ。


 なにかに呼び止められるように足を止めた。

 雨に煙る道の先。黒い、小さな、生き物がいた。

 その口が、笑みのように吊り上がって。

 弾けた。






「——は?」


 濃紺の霧が、空を呑み込むように立ち昇る。

 思考の停止は一瞬。アスタ・エーデルワイズは、この光景を知っていた。一年前と同じ。十二年前と、同じ。

 ——瘴気。

 こんな近くで。こんな時に。思考を絡めとろうとする疑問を振り切って、アスタは隣で事態が呑み込めていない後輩の名前を叫ぶ。


「リンネリス!」


 瘴気は爆発的に広がるのではなく、滲むように空気に溶けていくのだと聞いた。

 タンジーやコルチカムのように、人が逃げられない速度で広がるのは稀だと。だから、避難が早ければ巻き込まれる人を少なくできる。ルードなら、軍の勅命として避難指示を出せる。

 だけど。


「逃げろ!」


 子どもがいた。ボールで遊んでいた子どもが、降り出した雨を避けるためにか、軒下に移動していた。広がっていく瘴気の、すぐそばだ。

 ゆっくりと、だが確実に近づいてくる死の気配をまとった霧を前に、パニックになっているのか子どもは動かない。ボールをぎゅっと握りしめて立ちすくんでいる。

 幼い顔が、恐怖に歪む様を、見た。

 その瞬間、アスタは弾かれるように走り出した。迷わず身体強化の術式を発動し、死の霧に呑み込まれる寸前で子どもの細い腕を掴んだ。思いっきり引き寄せて、勢いのままルードへと投げる。


「!?」


 呆然としていたルードが、反射的に子どもを受け止めたのを確認するのと同時、ありったけの声を振り絞った。


「走れ!」


 叫んだ声に押されるように、唇を噛みしめたルードが、子どもを抱えて走り出した。

 アスタは、子どもを投げた反動で背後に倒れていく。態勢を整える間もなく、瘴気に呑まれていく。

 背後から迫る、圧倒的な死の気配。深い暗闇に招かれるように、腹の底から冷えるような感覚が忍び寄る。

 ——あ、死んだ。

 頭の隅で、妙に冷静な自分がそう思って。備えるように目を閉じる。


「アスタ!」


 ぐいっと腕を掴まれた。はっと目を開けると、泣きそうな表情のエリスが見えて。

 その瞬間、ふたりは濃紺の霧に呑まれた。

 そうして。

 ぽん、ぽん、ぽん、と。

 持ち主の手から離れたボールが転がり、やがて霧に呑まれた。







  ※※※




 悲鳴があふれる町の中を、ルード・リンネリスは走っていた。

 子どもは、騒動を聞きつけて出てきていた軍の人間に預けた。身分証を示し、瘴気が発生したことを伝えて避難誘導を依頼もしてある。動揺しながらも、彼らはすぐに動いてくれた。

 人の流れに逆らって走りながら、手のひらサイズの板の形をした通信用術具を起動する。ルードが軍内で重宝されていたのは、通信用の術具が使えるからだ。一方的な伝令ではなく、双方やりとりが行える術具が発動できるのは、現状ルードだけである。対になる術具はローダンが持っていた。

 ぶつ、とノイズが走り、一拍置いて先輩の声が聞こえてきた。


「——ルード!お前、今どこにいる⁉」

「カリプタスです!」

「はあ⁉お前、何を勝手に…!」

「瘴気が発生しました!」


 息を呑む音が聞こえてくる。それから、向こうでいくつか指示を飛ばす声が聞こえた。

 避難のために走る人を避けながら、ルードは見たことを伝える。突然発生した瘴気。子どもを助けるためにティアン・レオントが瘴気に呑まれたこと。それから、彼を追って同行者である青年も濃紺の霧に飛び込んでいってしまったことを。


「まさか…⁉待て、ルードお前、何をしようとしている!」

「避難誘導を……っ!」


 ぶつ、と通信が途切れた。霊力が切れた訳ではない、何かに阻害された感覚があった。

 はっと足を止めた。ティアン・レオントと別れた場所の近くまで戻って来ていたらしい。

 視界を紫の霧が埋める。悲鳴が大きくなる。断末魔だ。

 空気を、世界を塗り替えるように広がる霧に、人が呑まれていく。悲鳴が埋もれていく。助けなければ。手を伸ばさなければ。そう思うのに、足が動かない。指先ひとつ、動かない。

心臓がどくどくと跳ねる。首をじわりじわりと絞められているように、息ができなくなる。

 霧が目前まで迫る。逃げなければと思うのに、縫い付けられたように足が動かない。見えない手に首を絞められているかのように息が苦しい。


「………ひ…っ」


 知っている。これは、恐怖だ。悲鳴すら上げられない。必死に息をすることしかできない。

 死ぬ。ここで死ぬ。

 助けて、と。ほとんど無意識に口から零れ落ちた。

 ——誰か。


「何やってんだ、お前!」


 ぐいっと、強い力で腕を引かれる。力強い声がルードを叱咤した。


「逃げるぞ!」


 死地から引きはがすようにぐいぐいと引く腕に、よろめきながら足を動かした。

ルードだって軍人だ。若くとも、経験というものが乏しくとも、命のやりとりをしたことはある。修羅場というものをくぐったこともある。だけど。

 だけど、これは。


「……地獄だ」


 ここに、地獄がある。

 悲鳴に混じって。轟く雷鳴に混じって。

 霧に溶かすように、誰かが囁いた気がした。

 ——お前ら、みんな。







 同時刻。イヴェールの書庫で。

 本をめくっていたシオンは、何かに気が付いたようにふと顔を上げた。


「——あら」


 持っていた本を、エリスから預かっている本の隣に置く。保管していたのがシオンだけが開けられる棚の中だったので、再び彼女に預けていったのだ。

かつかつと窓際に歩み寄り、閉ざされていた窓を開け放つ。吹き込んできた風が、紅色の髪を揺らした。

 いつの間にか雨が降り出していたらしい。木々の隙間から落ちた雨粒が、地面を濡らしていた。

 す、と少女はある方角へと視線を向けた。——北へ。カリプタスの町がある方角へ。


「嫌な風ね」


 ぽつりと呟いた声は雨音に紛れた。嫌な風だ。血の匂いが混じっている。

 朝早くにカリプタスへと出かけたふたりを思い出す。それから、彼らから託された子どもたちを。

 何事もなければ良いと思いながら、何事もないわけがないと知っている。

 嫌な予感というものは、往々にして当たるものだから。


「……ジニア、家にいるかしら」


 吹き込んだ風が、本のページをぱらぱらとめくる。振り返ったシオンは、本へと目を向けて。

 そこに書いてあった文字に夜明け色の瞳を眇めた。


「——呪い、ね。まさしくその通りだわ」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る