断章 ——ティアン・レオント


 父は中央支部に所属していた軍人だった。

 父は時々帰ってこない日があったけれど、アスタは——ティアンは父を尊敬していた。母は早くに亡くなって、ほとんど覚えていない。父は、母のことを多く語らなかった。ただ、形見だと銀時計を手渡した。

 身の守り方を教わったのも父だった。早くから刻印式が扱えることも、適応範囲が広いことも父は気付いていた。知られないようにしなさいと忠告しながらも、誰かを守れる人になりなさいと、言い聞かせるように言われていた。

 コルチカムに引っ越すことになったのは、七歳の時。

 ティアン・レオントは、あの子と出会った。たったひとりの、大切な友だちと。

 出会った時のことを、今でも覚えている。

 どこまでも晴れ渡った、高く、遠く、青い空の下。父親の影に隠れるように、あの子はそこにいた。ひとつ年下の男の子——レン・ファレノシス。

 レンは両親から離れようとせず、物音ひとつにも怯えるように身を竦めていた。一目見て、友達になりたいと思った。そう父に伝えると、父はティアンの両肩に手を置いて、真剣な目で言った。


 ——守ってあげて。


 はじめましてと差し出した手を、おずおずと握り返した自分より少し小さな手を。その温かさを。はじめましてと、返ってきた声を。

 警戒心の強いレンと仲良くなるのは大変だったが、初めて笑ってくれたときは本当に本当にうれしかった。


 ——守るよ。


 覚悟も、強さも、何もかも足りなかったけれど、本気だった。

 本気で、守るよと、そう言った。

 近所に引っ越してきた一家には、父が帰れない日に何度もお世話になった。穏やかに笑って迎えてくれたお父さんと、優しい声で名前を呼んでくれたお母さんと、次第に無邪気に笑ってくれるようになったあの子と。

 ティアンは、あの家族が好きだった。だけど、彼らが何かから隠れるように過ごしていたことに、幼いティアンも気付いていた。

 気が付いていたのに、何も変わらず今日と同じ明日が来ると、信じていたのだ。

 あの日。コルチカムが瘴気に包まれた日。安全なところまで連れて行ってくれた父に、ティアンは言ってしまった。レンがいないと。はっとその言葉で足を止めてしまった父は、一家を探しに行くと踵を返した。追いかけることは、できなかった。誰かの断末魔と悲鳴と怒号と絶叫を聞きながら、蹲ったまま長いようで本当は短かった時間を過ごした。助けを求める声が、ずっと耳に残っていた。

 コルチカムで助かったのはほんの数人。ティアンは、生き残ってしまった。 ティアンはずっと、この時のことを後悔している。

 もしもを考える。夢を見る。

 ティアンがもし、何も言わなければ。もしあの時、止められていたなら。

 ああ、でもそれは、あの子たちを見捨ててと言うようなものだ。あの子を守ると言ったのは、俺だったのに。俺が、走り出さなければいけなかったのに。その罪悪感はティアンの心の奥に根を張って、絶えず責める。

 父を死に追いやって、助けを求める人たちを見捨てた。

 一年前のタンジーでも同じだった。戦えなかった。それだけではない。瘴気に呑まれるクロコスを止められなかった。恐ろしい速度で広がる死の霧を前に、助けを求める人たちに手を伸ばすことも。

 もっとうまくできていたのなら。あの場所にいたのが、他の誰かなら。

 何かが違っていたのだろうか。もっと多くの人が救われていたのではないか。

 お前のせいだと、声が言う。

 よくも見捨てたなと、声が言う。

 ティアン・レオントの裡には、今も握りしめたままの拳がある。答えのない疑問がある。

 どうしてと、思う。ひとりだけ残されてしまった。何もできなかった。——できなかった、のに。

 それでもあの日から遠く。彼らの顔も、声も、もう霞がかったように朧気で。尊敬していた父も、優しかったあの人達も、守りたかったあの子もいなくなって、約束を知る人はもうティアンしかいないけれど。

 ——せめて、あの子に胸を張れるように。

 ティアン・レオントが生き残ってしまった意味はあるのだと、言えるように。

 ただそれだけ。

 それだけが、自分が生きていても良い理由であると、ティアン・レオントは定義したのだ。


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