第三章 そんな、夢をみる 4


 ぽつぽつと、雫に頬を叩かれて覚醒した。

 視界が暗く霞んでいる。何度も瞬きを繰り返していると、髪を伝って落ちてきた雨粒が目に入りかけて顔を振った。その動きに気が付いた誰かが、ぱっと顔を覗かせた。


「アスタ、気が付いた?」


 エリスだ。

 気を失っていたらしい。倒れたアスタをエリスが抱えている。

 整った相貌が泣きそうに歪んでいる。掴まれた腕が痛い。


「無事?無事だね?痛いところはないね?」

「落ち着けエリス、強いて言えば腕が痛い」


 ごめん、と力が緩められた。何があったのかと記憶を辿って、瘴気に取り込まれたのだと思い出す。はっとあたりを見回すと、完全に瘴気の中にいるのか、濃い霧が広がっていてほとんど何も見えない。すぐそばのエリスだけが、やけにはっきりとしていた。

 体を確認するが、おかしなところはない。思いっきり掴まれた右腕が痛かったが、それだけだ。むしろ、何かに守られているような感じさえある。こう、薄い膜で覆われているような、そんな感じ。

 瘴気の中にいるというのに、そんな馬鹿な。触れたら死ぬ、それが瘴気だ。死の霧だ。


「間に合って……よかった」


 アスタを抱える腕が震えている。長い髪に遮られて表情が見えない。ただ、うつむいた彼の胸元が、淡く発光していることに気が付いた。


「……エリス、お前」

「ごめん、話はあと。立てる?歩ける?」


 アスタの視線の先に気が付いたのだろう。困ったように下がる眉をみて、何も言えなくなった。

 エリスに引っ張られるようにして立ち上がる。少しめまいがしてふらついたが、すぐにそれも無くなった。腕を掴んだまま心配そうにのぞき込んでくるエリスに、大丈夫だと告げる。


「方向はわかるのか?」

「うん、こっちであってるはず」


 手を引かれて歩き出す。ぱしゃぱしゃと水たまりを踏んで進んでいく。前は見えない。アスタがどれくらいの時間気を失っていたかは定かではないが、夜にはまだ早い時間のはず。だというのに、霧の中は星も月もない夜のように暗く道を閉ざしていた。

 帰り道を見失った迷子の気持ちに似た心細さを感じて、腕を掴んでいるエリスの手を取った。驚いたのか肩を揺らしながらも、彼は拒否したりしなかった。


「エリス、走るか?」

「ダメ。焦らない」

「うっす」


 静かすぎる。この町の人は無事に避難できただろうか。

 空気が重苦しい。静かなのに、物音ひとつないというのに、気配がある。視線を感じる。殺気ではない。じとりと睨みつけられているような。暗闇に眼が浮かんでいるような。そんな、本能みたいなところに鋭く刺さる恐怖。


「深呼吸。息を止めない」


 鋭い声に、はたと我に返った。いつの間にか息を止めていたらしい。慌てて深く息を吸って、大きく吐く。うん、落ち着いた。


「エリス、お前は大丈夫なのか」

「大丈夫。僕から離れなければ、君も大丈夫だから」


 返って来たのは、落ち着いているがどこか余裕のない、押し殺した声だった。


「エ——」


 呼びかけようとした声が途切れる。何か、聞こえた。

 人の声だ。いくつも重なって、連なって、何かを言っている。言葉としては聞き取れない。だが、何かを伝えようとしている。訴えている。

 誰かを。


「アスタ」


 立ち止まってしまったアスタをエリスが呼ぶ。離れそうになった手を、しっかりと握り直して。


「なあ、エリス。なにか、なにか。聞こえて」

「聞こえない。聞こえないよ、アスタ」

「聞こえる。エリス。聞こえるんだ。誰かがいる。誰かが、誰かを」

「アスタ」


 くいっと、手を引かれる。まっすぐに視線を合わせて、彼はきっぱりと言い切った。


「アスタ。誰もいないよ」

「そ……、う、だな」


 頷く。誰もいない。わかっている。いるわけがない。

 声なんて、聞こえない。


「それよりも。ねえ、アスタ。余裕があるなら少し話そうか」


 あ、と思った。まずい気がする。声が冷え切っている。


「知らなかったよ、アスタ。君って考えなしに行動する馬鹿だったんだね」


 怒っている。もしかしなくても激怒である。


「怒ってない。呆れてる。さっきの行動は何?自己犠牲のつもり?死んでたよ。かもしれない、じゃない。死んでいた。意味は分かるよね?」

「……わかります」


 お説教が始まった。再び手を引かれながら、まるで親に叱られる子どもみたいな気持ちで歩く。


「刻印式も使ったね。使わないでって言ったのに」

「うん。ごめん」

「あのさ、気付いていなかったと思ってる?あの時、アスタ、死んでもいいって思っていたでしょ」


 はっと頬を叩かれたような気がした。副作用について説明された時のことだ。

 ——違う。

 死んでもいいと思ったんじゃない。

 死ぬことになったとしても、選ぼうと思ったのだ。走り出すべき時に、迷わないように。自分の命よりも優先するべきことを。今度こそ、約束を嘘にしないために。


「死んでもいいじゃない。死ぬことになったとしても、それよりも、あの子を家に帰すことを優先しようって思ったんだ」

「だったら、何を置いてもあの子の元に帰らなきゃいけないんじゃないの。君が死んだらアミはどうなるの? 」


 その通りだ。アミを家に帰すことを一番にするのなら、あの時の行動は間違いだ。これっぽっちだって正しくない。弁解の余地もない。だとしても。


「でも、でもな、エリス」

「なに」


 振り返った紫の瞳は、だってだってと言い訳を並べる子どもを見る親のように、呆れと柔らかさを宿していた。そのことに、自分でも驚くほどほっとした。


「あれは、駄目だったんだ」


 瘴気に吞み込まれそうになっていた子ども。あんな風に、あんな顔で。あの時あの子も吞み込まれたのか。そう思うと、駄目だった。自分で選んだことも、決めたことも、状況も。全てを放り出して体が動いてしまった。


「俺、コルチカムの出身だって言っただろ」

「——うん?」


 疑問の声。なんで今それを言うのかという疑問の声。それでも、耳を傾けてくれているのがわかる。


「あの町で発生した瘴気は変だった。瘴気の広がる速度がはやくて、多くの人が亡くなった。家も、父親も、瘴気に呑み込まれたんだ」


 多くの命が失われた。多くの悲劇があった。きっとこれも、いくつかあった悪夢のひとつなのだろう。


「それだけじゃない。友だちも、そこにいた。ひとつ年下の男の子。家の近くに越してきて、親同士が仲良かったんだ。仲良くなってからは毎日のように連れ出して遊んでいた。何があったのかは知らないけど、ずっと何かに怯えていて、俺が守るよって約束した」


 声も、顔も朧げな友達。何枚か撮ってあったはずの写真は、瘴気に沈んでしまったから。


「あの子も、あの子の両親も、帰ってこなかった」


 もう十二年も前の話だ。記憶というものは曖昧で、頼りなくて、積み重なるように消えていく。けれど、守れなかった約束も、自身の無力感も、罪悪感も、忘れられない。忘れるわけにはいかない。


「さっきの子どもに、あの子を重ねたんだと思う。気付いたら身体が動いていた」


 夢を見る。瘴気から逃げるあの子に、必死に手を伸ばす夢だ。

 一度だって、手が届くことはなかった。


「実験のことを知った時、こんなこと間違っていると思った。巻き込まれてしまった子どもを助けることが正しいと信じたんだ。俺は、アミに、大人の理不尽に怯えていたあの子を重ねてしまった。——ああ、そうだ。やり直しなんだ。ずっと俺は、やり直したいって思ってるんだ」


 あの日あの時。もう一度、選ぶことが出来たなら。今度こそ、走り出すのに。

 エリスは何も言わない。ただ、アスタの手を握って歩いている。


「さっきのことは、ごめん」

「なんで謝るの」


 だって、話していて気が付いてしまった。アスタが死んでしまったらアミを守ってくれる人がいなくなる。そんな当たり前のことを考えなかった理由に。


「——お前なら、託せると思った。甘えようとした」


 言いながら、どうしようもなく身勝手すぎる言い分だと思った。お前に託せると思ったから。きっと後はどうにかしてくれるから、自分は死んでもいいと思った、なんて。もしも自分が言われたらぶん殴る。言い訳にもならない。最低だ。

 軽蔑されると思った。それは嫌だなと、勝手なことも思った。


「………エリス?」


 けれど恐る恐る顔を伺ったエリスは、愕然とした表情を浮かべていた。まるで自分こそが酷いことを言ってしまったみたいな、誰かを傷つけたことを悟ったような、後悔に満ちた顔をしていた。

 それをみて、アスタはようやく、ようやく馬鹿なことをしたと心底思った。間違えた、とようやく気が付いた。

 ごめん、と。

 堰を切ったように言い募る。


「——ごめん。ごめんなさい。エリス、俺。俺は」

「待ってアスタ。謝らないで」

「……エリス?」

「謝らないで。……ごめん。ごめんね、僕に君を責める資格はない」


 ふるふると、頭を振って。

 はああああああ、と肺を空にでもするのかという程深い、深いため息が聞こえた。


「アスタ」

「はい」

「さっきみたいなことは、もうやらないで」

「うん。——でも、約束はできない、かもしれない」


 間違えたと気付いた。けれどきっと、それでも。

 それでもきっと、アスタは動いてしまう。動いてしまうと、知っている。もう二度と後悔しないために。


「だろうね、もう!英雄にでもなるつもりなのかな、この男!」


 曲がりなりにも軍の英雄と呼ばれているアスタに対して、エリスはそんなことを言う。

 それからね。呆れたような、仕方がないなというような、柔らかな声が続けた。


「——信じてくれたことは、ありがとう。でもね。誰かを守ると決めたなら、自分の手で。誰にも任せない。心を許さない。その他すべては敵と定めて戦う。僕はそうするべきだと思うし、そうしてきた」


 双子のことだろう。彼らを守るために戦い続けてきたエリスの声は、どこまでも真っすぐで強かった。


「だからといって、君の選択を間違いだと言うつもりはないよ。馬鹿だし身勝手だとは思うし言うけど。何が正しいかなんて、誰にもわかんないんだから。助けようとした君を賞賛して、見捨てる選択肢を取る僕を責める人だって大勢いるだろう。今回は助かったからなんて、結果論の話をする気もない。だから、この話はここまで。その上で」

「はい」

「誰かのために、体を張る。命を懸ける。それは、誰にでもできることじゃない。自分よりも誰かを、なんて。きっと多くの人が憧れる在り方だけど、本当にそう行動できる人は多くない。それはきっと、立派な行動だ。尊重されるべき行いだ」


 そんなことはない。そんな風に言ってもらえる人間ではない。反論の為に口を開いたアスタを遮って。


「咄嗟の行動にこそ、その人の在り方が表れる。大人は子どもを守るものだと君は言った。アミを、さっきの子を、救うために動いたその行動こそが、君の本質だ。君は、君の信じる正しさを貫ける人だ」


 そっと背中を押すように、子どもの頭を撫でるような優しさを持って。


「——君の強さを、僕は尊敬する」


 ——ああ。

 心が震えるとは、こういうことか。

 言葉も出ないアスタの方は決して見ようともせず、エリスが照れ隠しのように声を荒げる。


「してたんだけどね!さっきので減点!反省しなさい!」

「うっす」

「あと、アミは君がおうちに連れて帰ってあげるんだよ。僕は君たちの味方で、その為の手伝いはする。でも、それだけは絶対に任されてやらない。君が選んだんだから、君が果たしなさい」

「——うん」


 もう一度頷いた。うん。必ず。


「まったくもう、なんで年上に説教しなきゃいけないの!」

「実はお前の方が年上なんじゃねぇの?」

「反省!」


 くすくすと笑う。瘴気の中にいるというのに、なんとも緊張感のない空気が漂っていた。

 けれど、気が付いている。アスタの手を握っているエリスの手が、震えていることを。背を向けている彼がどんな顔をしているのかはわからない。わからないけれど、その手を離してはいけない気がした。

 いい歳したふたりが、仲良く手を繋いで瘴気の中を歩いている。とんでもない状況だなぁと思う。アスタはこの状況に慣れつつあった。エリスはたぶん、ずっと緊張している。

徐々に瘴気が薄くなっていく。じっとりとした空気も晴れて、息がしやすくなった。雨は激しくなっているが、体にまとわりつく何かを洗い流されているようだった。

 はやる気持ちを抑えて、歩いて、歩いて。ふたりは瘴気を乗り越えた。

 晴れた視界に、アスタはほっと息を吐く。助かったのだ。緊張が解けて、肩の力が抜けたのを感じた。 もう大丈夫だと、何の根拠もなく思って、助かったことに安堵している自分に驚いた。

 振り向こうとしたアスタの手をエリスが引っ張る。振り向くな。そう言われた気がした。

 そこで、はたと気が付く。お礼を言っていない。


「エリス」

「なに」

「ありがとう、助かった。本当に。——本当に、ありがとう」


 細い肩が揺れる。立ち止まった彼の隣に並んだ。エリスはどこか泣きそうな顔をしていた。


「どういたしまして。こんな無茶はほどほどにしてね」


 やらないでとは言われなかった。言っても無駄だと思われているのだろう。正解。

 瘴気の中から出ることが出来たとはいえ、背後には変わらず死の霧が広がっている。ふたりは追い付かれないように歩き続けながら、何かを振り払うように言葉を交わし合った。


「——ねえ、その男の子って、どんな子だったの」

「警戒心が強くて、何かに怯えていて。寂しそうな眼をした子だった。それから、本を読むのが好きで、仲良くなってからは、木の陰で一緒に本を読んでたりしたんだ。俺は勉強が苦手だから、あいつに色々教えてもらったこともある。負けず嫌いなところもあって、意外とずけずけ物を言うやつで、しょっちゅう口喧嘩したりして。それから。……ああ、そうだ。嘘が嫌いなやつなんだ」

「うん」

「嘘に…なったから、あいつ、怒っているかなぁ」

「うん?君の友だちは、そんな子なの?」

「違う。……違うけど、でも」

「それからね」

「………」

「僕の意見だけど。結果がどうであれ、君の言葉でその男の子は救われたんじゃないかな。守るよって。君の味方だよって。そう言葉で示される。それだけで、救われることだってあるんだから。君に心を開いたのなら、きっとそういうことだよ」


 僕の意見だよ、と念を押すように伝えて、エリスは暗く閉ざされた空を仰ぐ。


「何もなくても、何かしてくれなくても。手を繋いでそこにいてくれるだけで救われる。そんなことだってあるんだから」


 噛みしめるように。彼はそう言って滲むように笑う。

 そうして。


「——おお。本当に来やがった」


 そこに、男がいた。繋いだままだった手を放してふたりは身構える。

 黒色の車のボンネットに寄りかかった男は、整った顔立ちに飄々とした笑みを載せた。肩にかかる程度の長さで雑に切ってある髪を鬱陶しそうに払って、黒の瞳を鋭く笑みの形に細めて。

 長身で細身だが、適当にあわせたような服装の下に、鍛えられた体躯があることは一目見てわかった。しなやかだが、肉食獣のような男だ。


「誰」


 警戒心を剥き出しにしたエリスが誰何する。男はひらりと手を掲げた。敵意がないことを示すように。


「ジニア・リンネリスだ。シオンの依頼でお前たちを迎えに来た」


 わずかに警戒を解いたアスタとエリスに向かって、ジニアがくいっと親指で車を示した。


「詳しい話は後だ。乗りな」


 顔を見合わせる。どうする、と目で相談。悩む暇はない。

 とりあえず、乗り込むことにした。

 名前だけは知っている正体不明の男の車で連れてこられたのは、カリプタスの北部に位置する町、ネレーイスだった。町に到着したのは夕暮れ時。カリプタスに瘴気が発生したことが伝わっているのか、ざわつく町中を抜け、ネレーイスの中心に居を構える診療所の前に車が停まった。


「……診療所。あなた、医者?」

「そうだよ、エリス・ユーフォルビア。お前と同じだ」


 どうぞとドアを開けながら、ジニアが手招く。その後に続きながら、ぱちりとエリスが目を瞬かせた。


「なんで、それを」

「言っただろ、シオンの依頼だって。お前らのことは聞いている。詳しい事情は知らねぇが、お前らを匿えってのが、あの娘からの依頼だ」


 案内された先には、診療所の名にふさわしい内装をしていた。丸椅子に分厚い本が積み上がった机。机の前に置かれた椅子の背もたれには白衣が掛けられていた。エリスが興味深そうに部屋の中を見回している。


「何か飲むか?つっても、なんにもねぇな」

「あ、いや。お気遣なく」

「そうか?ああ、今日は上の部屋を貸してやる。泊っていけ」


 上の階はジニアの居住スペースになっているらしい。空き部屋があるからと言われたが、エリスは首を横に振った。


「そこまで世話になるわけにはいかない」

「スリージエに戻るつもりか?街道はすべて封鎖されているぞ。瘴気の浸食が停まるまでは通行止めだ」


 けど、とエリスが渋る。お世話になろう、と声を掛けようとして。

 どくん、と心臓が跳ねた。息ができない。身体を支えられずに足が、がくりと折れた。何かがせり上がってくる感覚に口を抑える。喉を焼いて掌に吐き出したそれは、どす黒く鉄の匂いがした。

 ——ああ、血だ。


「アスタ⁉」


 振り返ったエリスが目を剥く。ふらりと身体が傾いていくのがわかっているのに、

力が入らない。倒れるなと、どこか他人事のように頭の隅で思って。

 そこから先、記憶はない。

 


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