物語のはじまりに



 世界を救いたいのだと、彼は言った。



 街が寝静まった夜。久しぶりに尋ねた友人の家で、乾杯したところだった。

 唐突な友人の言葉に、ラッセ・ユーフォルビアは目を瞬かせた。


「——は?」


 たっぷり十秒。

 沈黙の後にラッセはもう一度言った。


「は?」

「だから、世界を救いたいんだよ」


 一言一句同じ言葉を告げる友人に、ラッセは頭を抱えた。軍に入ると決めた時もそうだったが、突拍子もないことを突然言いだすのだ、この男は。


「それは、あれかな?東の方から広がっている、瘴気のことかな?」

「そう!」


 元気のよい返事が返ってきた。


「………アスティってば、もう酔ってる?」

「失敬な。まだ一口しか飲んでないぞ」

「君弱いもんね……」


 自分の分のグラスを口に運ぶ。カラン、と氷が涼やかな音を奏でた。

 ラッセが手土産に持参したウイスキー。美しい琥珀色が明かりに揺れる。口当たりも良く、香りも芳醇。うん、当たりだ。


「おーい。聞いてる」

「聞いてる聞いてる。で?なんで急にそんなこと言い出したのさ」


 よくぞ聞いてくれました、とでも言うようににやりと笑って、アスティはぐいっと身を乗り出した。詰められた分だけ、ラッセが身を引く。


「うわっ」

「あれ、原因はなんだと思う?」


 あれ。つまりは瘴気。大陸を蝕む死の霧のことだ。

 ひとつため息を零して、ラッセは立てた指を目の前で振ってみせた。


「百年前に滅びた東の国。そこが原因だって言われてるみたいだけど」

「信じてるか、それ」

「さあ」


 ラッセは肩を竦める。もう一口ウイスキーを口に運ぼうとして、ふとその手を止めた。

 どこまでも真っすぐな眼差し。アスティ・エーデルワイズは真剣な顔をしていた。

 ——ふむ。


「それは、友人として聞いているのかな?軍人としてではなく」

「もちろん」


 はあ、ともう一度ため息をひとつ。グラスを置いた。それなら、酔ってする話ではない。対面のアスティも居住まいを正している。


「東の国は、ウィスタリアが滅ぼした。その呪いが瘴気だって言われているけど、だとしたらおかしいよね。ウィスタリアが滅ぼした国は、東の国だけじゃあない」


 殺した相手を、呪うなという方が道理に合わない。殺した相手に、恨まれないわけがない。

 要は罪悪感だ。恨まれても仕方がないと思っているから必要以上に畏れる。だからこそ、名前すら奪おうとしたのだ。


「つまり?」

「恨み?呪い?そんな曖昧なものより、もっとわかりやすいものがあるでしょ」


 ぴん、とラッセは自分の左耳を飾る石を弾いた。薄い紅を落とした水晶の飾りは術具だ。


「刻印式。それ以外ある?」


 ラッセは片肘を付いてにっこりと笑う。

 アスティがひくりと頬を引きつらせた。


「……怖えよ?」

「うるさいな。それで?どうして僕にこの話をしたの」

「刻印式が原因じゃないかってのは俺も同意だ。——瘴気はどんどん広がっている。このままじゃ、この世界は滅びちまう。でもさ、刻印式が原因なら、刻印式で対応できるんじゃないかなって。刻印式はお前の研究分野だろ?瘴気を晴らして世界を救う。そのために、優秀な学者であるお前に、協力してもらえないかなーって」


 だと思った。

 無言で手刀を黒髪の上に落とす。


「痛い!だめ!?」

「いいよ。やろうか」

「………うん?」

「何その顔。いいよ、って言ったでしょ。おだてなくても協力するよ。どうせもうソニアには話しているんでしょ」


 にやにやしながらマリーと書斎の方へ向かった彼女の姿を思い出す。元々研究熱心な彼女だが、最近は特に開発に力を入れていた。ラッセの耳を飾る術具も、刻印式の縮小化に挑戦したのだと得意げに笑う彼女の試作品でもある。


「あとラティルスにも話してある」

「嘘でしょ、僕最後?拗ねて良い?」

「悪い悪い。中々会えなかったからさ」


 肩の荷が下りたのか、アスティは晴れやかな笑顔でグラスを持ち上げている。


「まあ、瘴気で滅びる前に自滅しそうだけどこの国」


 他国と戦争を繰り返し、侵略してきたのがウィスタリアという国だ。いずれ大陸を制したとしても、奪うことしか知らない国はまた新しい敵を探す。外にいないのなら、内で。

 そうやって、やがてはすべてを滅ぼしつくすだろう。


「でも、みんながみんな自業自得なわけじゃない。死ななきゃいけないほど悪いことをしたわけじゃない。お前がこの国に思うことがあるのは知ってるよ」

「思うことがあるのは僕じゃなくて君でしょ、アスティ」


 手に持っていたグラスを置く。対するアスティは言いかけた言葉を飲み込んで、代わりのようにアルコールを口に運んだ。


「君の言葉が嘘だとは言わないよ。だけど、それだけが本心じゃないでしょ」

「………そりゃあ、うん。まあ」


 アスティは決まり悪そうに目を逸らしながら、ちびりちびりとグラスを傾けている。頬がほんのり赤くなっていた。どうやらもう酔いが回ってきているらしい。


「当ててみせようか?ひとつは名誉を取り戻すため。あの国の名誉を取り戻すためには、瘴気を晴らさなきゃいけない。あれがある限り、あの国は呪いの国だから」


 アスティが無言で机に突っ伏した。予想していたのでグラスをそっと避ける。


「……俺そんなにわかりやすい?」

「うんん。前に言ってたからね。自分たちの故郷だけが悪く言われるのは納得いかないって」

「……そんな話したっけ?」

「してたよ、酔いつぶれた時にね」

「……俺もう酒やめる」

「無理でしょ。それ何回目?」


 声を立てて笑う。アスティは酒癖が悪いわけでも、毎度毎度酔い潰れるわけでもないのだが、身内で飲むと高確率で最初に潰れる。眠り込むか、ぽろぽろと取り留めもない話を始めるか。あの時は後者だっただけだ。


「故郷のことで苦労してきたもんね、君たち」

「お前もだろ」


 東の国を故郷に持つ。

 アスティとマリー。それからラッセが知り合ったのはその共通点があったからだ。

 といっても、あの国が滅びたのはもう百年くらい前になるから、祖先がそうだった、という話なのだが。

 そうなんだ、くらいの感想しか持たなかったラッセと違って、彼らのご両親は随分苦労してきたらしい。


「僕は君たちほどあの国に思い入れはないからね」

「俺も思い入れがあるわけじゃねぇよー。けどさー、ムカつくんだよ。ムカつくだろ。ムカつかねぇ?」


 ぐらぐらとラッセの肩を掴んで揺らす彼は、昔言っていた。

 極東の国。滅ぼされ、名前すら奪われ、呪いに侵された国。

滅ぼされて尚、土地を、名を、歴史を穢され続けていることに腹が立つ。真っすぐな声で、真っすぐな目で、彼はずっとそう言っていた。勝者が歴史を塗り替えるのが常だとしても、何も思わないわけではない。不条理に対して間違っていると叫ぶことは、間違いではないだろう。

 だけどそれだけではないことも、ラッセは知っている。


「はいはい懐くな懐くな。だから世界を救うんでしょ。滅ぼすんじゃなくて——帰るために」


 ぐらぐらが止まった。アスティの黒色の瞳が、不意に揺れる。

 静寂が落ちる。

 何か言おうと口を開いて、けれど結局言葉を呑んで。何度も何度も同じ動作を繰り返して。

 ゆっくりと顔を上げたアスティは、透明な表情をしていた。


「……本当にいいのか?」

「いいよ。僕だって、あの国を見てみたい。思い入れはないけど、興味はあるよ。学者としてね」


 頬杖を突いて、ラッセがゆるりと笑う。


「里帰りのついでに、世界を救う。ふふ、最高じゃない?」

「うん——うん」


 嚙みしめるように何度も頷くと、アスティはまっすぐに目を合わせて、滲むように微笑んだ。


「俺たちならきっと、世界だって救えるさ」








 ※※※


 ごぼり、と。

 喉から嫌な音がした。熱いものが込み上げて口の中に広がるが、吐き出す気力ももうない。唇の端からぽたりと地面に落ちる。

 ひゅうひゅうと息をするたびに音がする。

 全身が痛かったような気もするが、もう感覚はない。ただ、とても静かだった。

 力の入らない腕で、離れないように抱きしめていたはずの温もりも、もう感じられない。


 ——ソニア。


 呼びかける声すら音にならない。返る声があるはずもない。


 ——ああ、死ぬのか。


 ラッセは回らない頭で考える。

 ようやく取り戻した平穏は奪われた。軽やかに笑いながらラッセの隣にいてくれた彼女も。友人たちは逃げれただろうか。きっと大丈夫だ。きっと。

 術具のお陰で瘴気に呑まれることはなかったが、血を流しすぎた。そう待たせることなく、ラッセも彼女の後を追うことになるだろう。待っていてくれるだろうか。一発二発殴られるかもしれない。その後にきっと泣いてしまうだろう。

 だって、心残りがある。

 

 ——レン。


 薄れていく意識の中で、ただ、あの子のことを想う。

 

 ——レン。ごめんね。ごめんね。


 奴らが振り撒いた瘴気は、すぐに町を呑み込む。奴らの命を奪うこの霧は、あの小さな背中を隠してくれる。

 これは、呪いだ。ここに至って、ラッセはようやく理解した。刻印式によって引き起こされた厄災であることに間違いはない。だが、その始まりは間違いなく呪いであり、恨みだ。

 お前らみんな、死んじまえ。

 単純だからこそ強い想いが、呪いを生んだ。だけど、レン、君は。

 霧の向こうに消えていった小さな背中へ、届きもしない言葉を重ねる。

 いきなさい。

 生きて。生きて、生き抜いて。——どうか。

 眦を暖かなものが伝う。瞼の裏に、大切なひとたちの笑顔が消えていく。

 

 それが、最期だった。







 ※※※



 世界を救いたいのだと、言った。

 その結果が、これだ。



「………あぁ」


 アスティ・エーデルワイズはひとり、瘴気の中を走っていた。

 視界が暗く霞んでいる。瘴気の中は、夜でもないのに暗く、重く、渦巻く悲鳴の中にいるようだった。 いつもは静かな町に飛び交っていた怒号も、絶叫も、霧に隠されたように消えていた。見慣れた町並みを歩いているはずなのに、決して足を踏み入れてはいけない場所を進んでいるような拒絶感と恐怖。

 コルチカムは、瘴気に呑まれた。アスティが無事でいるのは万が一の時の為にと友人に渡されていた術具のお陰だ。刻印式への適応範囲が広いことに感謝するべきなのか、亡国の血を引く証明でもあるこれを恨むべきなのか。

 この瘴気は奴らの仕業だろう。泡を食って逃げ出す軍服姿を見た。

 ここまでするとは思わなかった、というのは言い訳だろうか。

 こんなことになるとは思わなかった、というのは泣き言だろうか。

 ——後悔している。

 考えなければよかった。思いつかなければよかった。手伝ってなんて、言わなければよかった。

 世界を救うなんて、そんなこと、できるはずがなかったのに。


「ラッセ!ソニア…!」


 彼らの大事な子を危険に晒した。アスティがこの事態を招いたというのに、何もできなかった。

 それなのに君のせいじゃないと笑ってくれた友人たちを、守ると決めた。

 決めた、のに。


「聞こえるか!どこにいる⁉」


 レンには胸に刻んだ刻印式が。ラッセとソニアには術具があるはず。逸る心を大丈夫だと何度も言い聞かせながら瘴気の中を走り回り、アスティは湖に辿り着いた。

 ここは特に霧が濃い。思わず足を止める。前どころか、自分の身体すらみえないほどの闇。

 噎せ返るような悪意。血と、死の匂いがここにはあった。

 手に握りしめていた術具の端にヒビが入った。これ以上耐えられないと悟ったアスティは、くるりと踵を返そうとして。

 ——ぽつり。

 広げた傘の先から滴る雨粒が地面を叩くような。

 こっちだよ、と。囁く、誰かの呟きのような。

 渦巻く怨嗟の中から届いた音に引かれるように、アスティは振り返った。


「……あぁ」


 これはダメだと直感した。

 自分の手のひらすら見えない程の闇の中で、確かな存在感を持ってそこにあった。

 石だった。たぶん、宝石。闇よりも深い黒色に、刻印式が淡く輝いている。これのせいだと、何の根拠もなくそう思った。

 死の霧が恐ろしい速度で町を覆ったのは、これのせいだ。一度ソニアに見せてもらった術具に刻まれていたものに似ている。確か、効果を増幅させる術式だったか。

 壊さなければ。

 壊さなければ、瘴気は町だけではなく、大陸すべてを呑み込むだろう。

 壊さなければ。

 ——なんの、ために?


「………」


 足が止まる。手が止まる。

 予感がある。きっと、これを壊せば、アスティの持つ術具は壊れるだろう。そうすればもう、身を守る術はない。待つのは死のみ。

 手が震える。止めることが出来るのは、今ここにアスティしかいない。出来るのか。アスティが死ねば、ティアンを独りぼっちにしてしまう。

 それでもやるのか。——なんのために。


「……決まってる」


 世界を救うのだと言った。

 後悔している。考えなければよかった。思いつかなければよかった。間違いだった。それでも、アスティ・エーデルワイズは言ったのだ。

 世界なんて救えなかった。守ると決めた友人たちも、辛い思いをさせてしまったあの子も、マリーの分も愛し抜くのだと決めた我が子も。アスティの言葉はすべて、嘘になった。

 だけど、それでも。

 世界なんて、救えなくても。

 瘴気が世界を呑めば、アスティの大切な人たちは死んでしまう。

 ——それだけは、ナシだ。


「……ごめん、ティアン」


 震える足を無理矢理動かしながら、霧の向こうに置いてきた小さな我が子に、届きもしない言葉を重ねる。

 泣かせて、ごめんな。ティアン。 

 どうか、生き抜いて。どうか。どうか。

 ——ああ、大人になった姿を見たかったな。


「ごめんな」


 きっと、友人たちは生きている。生きて、姿を見せないアスティを心配している。

 きっと、きっと、大丈夫。

 振り上げた拳が、術具へ届く。

 ぴしり、と確かに走った亀裂はどの術具のものだったのか。アスティを守るように覆っていた薄い膜が解けた。触れれば死ぬ霧がアスティを襲う。闇の中から幾つもの手が伸びて生者を引きずり込もうとするように、深い闇に招かれる。

 ぶわり、と一陣の風が吹いた。

 遥か向こう。町の境界あたりで、大地を侵し続けていた瘴気が浸食を止めたことを知る由もなく。

 アスティ・エーデルワイズは、呪いに呑まれて世界から消えた。


 あとに残るものは、なにも、ない。


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