物語が終わったあとに


 窓の外には、晴れ渡った青空が広がっている。

 


「ねえ、エリス。髪を切ってくれないかな?」


 唐突なトラデスティの言葉に、机を挟んだ向かい側で資料を捲っていたエリスが顔を上げた。


「………はぁ?」


 何言ってんだこいつと言わんばかりの顔と、素っ頓狂な声に、トラデスティは声を立てて笑う。

 くつくつと笑い続けるトラデスティに、エリスが冷ややかな目を向けた。


「どうしたの、突然」

「いやね、前髪が邪魔だなぁって」


 視界を遮った自分の髪をみて、トラデスティはふと思ったのだ。邪魔だな、と。

 目にかかる赤みがかった茶色の髪をいじいじと弄る。エリスがきょとんと紫の眼を瞬かせた。


「あんた、自分で切っていなかったっけ?」

「そうだね」


 君と同じだ、とは言わなかった。

 誰かに髪を切ってもらおうと思ったら、刃物を持った誰かが背後に立つことを許さなければいけない。前髪を切ってもらうためには、刃物を前に目を閉じなければいけない。

 それができるほど、トラデスティもエリスも、強くはなれなかったのだ。

 けれどまあ、切ってくれないかと口にしたことに深い理由はない。つい思ったことが零れただけだ。


「……なんで、僕?」

「目の前にいたから」


 何言ってんだこいつと言わんばかりの顔再び。今度は肺が空になるかと思うほどのため息付き。

 にっこりと、胡散臭いと評判の笑みを返した。


「うわぁ」

「ちょっと失礼じゃないかな?」

「はいはい。今すぐ?」


 おや、と眉を上げた。


「いいのかい?」

「あんたが言ったんでしょ。この後予定ないし、いいよ」


 資料を机の上に置いて、エリスがソファから立ち上がった。ぐっと伸びをして固まった体を解している。


「診察室は僕が居た頃のまま?」

「……そうだね。君以外には使っていないから」


 ユーフォルビア兄弟がオレアンダーを去ってからそろそろ一年になる。

 ウィスタリア国軍が身内で足の引っ張り合い蹴落とし合いをしているうちに、トラデスティはオレアンダーが軍と敵対しないで済むように事を進めなければいけなかった。解体するにしても、解体せずに他の形を目指すにしても、やらなければいけないことはたくさんある。大人数の就職先、生活費をどうするか、子どもたちを放り出すわけにもいかない。

 数年前から準備は少しずつ進めていたとはいえ、さすがのトラデスティも頭を抱えていたところ、手伝いを申し出たのがコルチカムに居を移していたエリスだった。

 エリスがオレアンダーを去ってから、医者の役割を担える人はいなくなった。ユーフォルビア兄弟にとってこの場所が決して安全な場所ではないと知っているから、連れ戻そうとは思っていない。いなかったのだが、エリスは渋々です、仕方がなくですという態度を隠すことなくオレアンダーを訪れた。


 ——手伝ってあげるよ。


 掻き集めた資料を参考に、オレアンダーにとってより良い道を模索し、選択し、決断する。自分一人でも行える作業ではあるが、誰かの視点と意見を貰えるのはありがたい。それに、エリスの友人であるティアン・レオントを通じてトレイト・カーパスと交渉できるので、想定していたよりも早く事が進んでいる。

 エリスが手を貸そうと思ってくれた理由はわからない。弟であるセージ・ユーフォルビアも、ルリア・ユーフォルビアも快くは思っていない様子だというのに、弟妹に甘いエリスが譲らず通ってきているのは何故なのか。一度理由は尋ねたが、上手くはぐらかされてしまった。トラデスティを嵌めようとしているわけではないようなので、善意だと判断して有難く受け取っている。


「じゃあ、ちょっと鋏を取って来るね。あんた持ってないでしょ」

「うん?鋏ならそこにあるよ」


 部屋の引き出しを指差すと、エリスは半目になった。


「それ絶対普段使ってる鋏でしょ。僕が使っていたヤツがあるから」

「そんなもの持っていたのかい、君」

「当たり前でしょ。誰の髪を切っていたと思ってるの」


 そりゃあ、彼の最愛の双子たちだ。


「何その顔。嫌ならそこの鋏使うけど」

「いや……。せっかくだから、お願いしようかな」

「最初からそう言いなよ。ちょっと待ってて。そうだ。あとでみるから、資料はそのままにしておいて」


 ひらりと手を振ってエリスが部屋を出ていく。急ぎではないのだから、資料を片付けてからでも良いような気がするのだが。


「……まあ、いいか」


 照れ隠しのようにぽつりと呟く。それでも胸を擽るようなむず痒さに口元が緩むのを感じて、誰もいない部屋でこほんと咳払いをひとつ。

 資料を読み進め、気になるところにチェックを入れていると、軽やかな足取りでエリスが戻ってきた。何だか楽しそうである。


「ここシャワー室あったよね?」

「あるよ」

「ちょっと羨ましかったんだよね」

「診察室にもあるだろう?」

「こことは違って人の出入りがあるからね。気は抜けないよ」


 トラデスティはひょいっと肩を竦めた。それもそうだ。

 キリが良いところで紙の束を机に置き、トラデスティもシャワー室へと向かう。先に来ていたエリスはよいしょと椅子を運んでいる。


「ちょっと、手伝ってよ」

「はいはい。あと何がいる?」

「切るのは前髪?」

「ああ……。後ろもお願いしようかな。揃えてくれる?」


 首の後ろで緩く括っている髪を触る。短くするよりも、長い位置で保っていた方が管理しやすいのだ。

 意外そうに目を瞬かせているエリスも、幼い頃から長髪を保っている。


「なら、タオルを首のところに巻いておこう」

「わかった。持ってくるね」


 そのままシャワーを浴びてもいいかもしれない。持ってきたタオルを手渡すと、エリスは手慣れた様子でトラデスティの首元にそれを巻いた。


「ほら、そこ座って」

「はーい」


 椅子に座ったトラデスティの背後に、鋏を持ったエリスが回る。


「………大丈夫?」

「大丈夫だよ。よろしくね」


 リラックスして、はさすがに難しかったが、トラデスティは肩の力を抜いて背もたれに身を預ける。

 背後で、忍び笑う気配がした。


「任せて」





 ちゃき、ちゃき、と。

 鋏の動く音と、髪を櫛で梳かれる感覚。

 エリスは集中しているのか無言になってしまったので、トラデスティも口を閉じている。

自信満々に任せてと言っていたくせに、鋏を入れるまで時間が掛かった。急かすような真似をしたくなったのでじっと待っていたが、その後も大切なものを扱う様な手つきで髪を梳くから、先ほど感じたむず痒さが蘇る。

 ふと、聞こえてきた声にトラデスティは目を瞬かせた。

 歌だ。

 淀みなく手を動かすエリスが、明るく弾んだメロディーを口ずさんでいる。背後にいるからトラデスティには見えないが、あの頃にはなかった穏やかな笑みを浮かべているのだろう。

 やっぱりご機嫌だ。後ろにいる彼には見られないように口元に笑みを浮かべた。

 楽しそうなのは良いことだと思う。張りつめていた彼が、心穏やかに過ごせているのは。

 目を閉じる。

 ——うん。

 平和だなぁと、思ったことまでは覚えている。


「……トラデスティ?」


 呼びかけられて、トラデスティははっと意識を戻した。

 視界が霞んでいる。ぱちぱちと瞬きを繰り返して取り戻した視界に、エリスの不思議そうな顔が映り込んだ。


「……寝てた?」

「寝てたね」


 くすくすとエリスが笑う。

 こほんと咳払いして眠気を払う。気が抜けていたらしい。


「前髪切るよ」

「はぁーい」


 再び目を閉じた。ちゃき、ちゃきと鋏が動く気配がする。


「動いたら保証しないからね」

「ねえそれって前髪の話?命の話?」

「場所的には目だよね」

「……信じてるよ?」


 おかしそうな笑い声が返ってくる。まあいいかと身を委ねることにした。

 ぱらぱらと手で髪を払い、よしと満足げな声が聞こえて目を開ける。


「うん、おしまい!」

「ありがとう」

「ふふ。文句は受け付けないからね」

「一気に心配になったな…」


 果たしてトラデスティの髪は無事だった。

 ついでだからとエリスがいつものように髪を結んでくれる。

 トラデスティは立ち上がり、服に引っ付いた髪をぱらぱらと落とした。エリスが椅子と鋏を片付けに部屋に戻っていく。その後を追いかけた。


「エリス、今日はどうするの」

「こっちに泊るよ。アスタがセントラルに行ってるから、明日一緒に帰ろうかと思って。そっちはどうするの。弟さん、帰って来るんでしょ?作業終わる?」

「あいつが来るのは明日だから大丈夫。それに、顔見せて終わりだから。すぐにネレーイスに帰るさ」

「えっ」


 エリスが振り返った。きょとんと目を瞬かせている。


「聞いてないの?」

「何を?」

「良い酒が手に入ったから、四人で飲もうって。ジニアは来られないらしいから、あんたと、弟さんと、僕と、アスタで」


 聞いていないが。


「聞いてなかったかぁ」

「……絶っ対わざとだ」


 舌を出して笑う弟の姿が思い浮かぶ。

 憮然としたトラデスティを見て、エリスが噴き出した。


「あんたが飲みたがっていた酒だって言ってたから、言い出しにくかったんじゃない?」

「………」

「あっははは!」


 ついには腹を抱えて笑い出した。楽しそうで何より。


「ほらほら、拗ねてないで終わらせようよ」


 トラデスティの背中をばしばしと叩いて、エリスがソファに戻っていく。


「ほら、早く。アスタ来ちゃう」


 仮にも軍人が気安くオレアンダーに出入りしてもいいのだろうか、とか。

 弟の方が仲良くなってないかな、とか。

 そもそも君たちここに泊まるつもりなの、とか。

 言いたいことはたくさんあったけれど。


「……はいはい」


 良かったなと思うことが多くて。楽しみだなと思う気持ちも確かにあって。

 大事な人たちは、みんな笑っていて。

 いつか淡く描いた未来が今だというのなら。

 それはきっと、とても素敵なことだと思うのだ。


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