第一章 今、青空の下 8
いつの間にか眠っていたらしい。
心臓を直接握られたような衝撃で、アスタは目を覚ました。息が止まる。全身の血流が内側から破ろうと暴れている。ばくばくと脈打つ心臓がうるさい。胸の辺りをシャツの上から握りしめ、零れそうになる悲鳴を呑み込む。
「………ぐ…っ」
霞む視界にアミが眠るベッドが映った。あの子を起こすわけにはいかない。シーツが破けるのではないかと思うほどの力で噛みしめて、どれくらい経っただろう。ようやく落ち着いた頃に、ふとこの部屋にはもう一人いたことを思い出した。いまだにうるさい心臓をなだめながら体を起こす。暗い部屋を見回すと、黒色の青年は少し離れた椅子に座ったままで目を閉じていた。
彼があそこに移動していた記憶はないから、アスタより後に眠ったのだろう。明かりを消したのも彼だろうか。
寝ている、のだと思う。多分。わからない。エリスなら、気付かないふりをする気もした。
「——はぁ…」
油断していた。ここ数日、術具が発動することはなかったから。舌打ちしたくなるのを堪えつつ、右手の術具を見遣り——気付いた。どうして。
どうしてこの暗い部屋ではっきりと物が見えるのか。
はっと左耳の術具に意識を向けると、淡い発光が刻印式の発動を示していた。何故気付かなかったのか、霊力が吸い取られる感覚もある。慌てて霊力を切ると、明かりの下と同じように見えていた視界が、薄闇に沈んだ。隣のベッドに眠る子どもの姿さえ、カーテンの隙間から零れる光を頼りにしないと見えないことを確認し、術具を引きちぎる勢いで外す。そのまま放り投げたい気持ちを抑えてサイドテーブルに置いた。
今まで術具を装着したまま眠ることがなかったわけではない。前線では、いつでも戦えるようにしておかなければいけないから。それでも、術具が勝手に発動するなんてことは一度もなかった。
くそ、と口の中で呟いて、ベッドに倒れ込もうとして——寸前で体を起こした。
子どもの眠りを妨げないように、そっと隣のベッドへと近づく。うっすらと見える子どもの寝顔は穏やかで。シーツをめくって小さな腕に嵌められた術具に触れる。
——だから、大丈夫だよ。
滲むような、優しい声がそっと囁くのを聞いた気がした。肺の中が空になるほど深々とため息を吐く。
自分のベッドに戻って仰向けにシーツに沈む。身体は倦怠感を訴えていたが、もう眠れる気がしなかった。忌々しい術具を付けた右腕を額に当て、天井をぼんやりと眺める。
朝が来て、カーテンの向こうが光に染め上げられるまで、アスタはそうしていた。
「………」
結局眠れなかった。
ベッドから足を下ろしながらため息を吐く。起きるにはまだ早い時間だろうが、このまま横になっているだけなのも退屈だった。足音を消して部屋を出ようとして、ふと立ち止まる。
他意はなかった。ただ、椅子で寝るのは体が辛いだろうと、そう思っただけだ。気配に聡い彼が休めているのなら、不用意に近づいて邪魔をしたくはなかったが、横になれた方が良いだろうと、そう思っただけ。
だから、驚いた。
起きろ、と声を掛けて。ベッドに行けと、そう言うはずだった。手を伸ばしてしまったことに意味はなくて、ああ、声を掛けるだけにすれば良かったなと思ったのは、
ぱしっと払い除けられてからだった。
「………あ…」
寝起きとは思えない動きをみせた彼の瞳が、アスタを認識して動揺を宿す。払い除けた自分の手と、払い除けられた相手の手を交互に見遣って、彼はぎゅっと自分の手を握りしめた。震える唇が、なにか言葉を探すように開いて閉じてを繰り返す。
驚かなかったと言えば噓になる。動揺しなかったと言えば嘘なる。だけど、それ以上に。
ごめん、と謝るエリスの姿を、見たくなかった。
だから。
怯えるように結ばれた唇も。何かを探すように背中に回された手も。——昏く澱んだ瞳も。
何にも気が付かないふりをして、アスタはいつも通りに言った。
「おはよう、エリス」
ノックの音に、書類を眺めていた男は顔を上げた。動作に合わせて首の後ろで括っている髪が揺れる。壁に掛けていた時計を見遣り、どうぞ、と声をかける。ややあって、茶色の髪の青年が入って来た。持っていた紙の束を机の上に放り投げ、立ち上がって出迎える。
「どうだった?」
巡視を担当している青年には、先日コロナリアの郊外で起きた騒動の調査をお願いしていたのだ。戻って来てすぐに報告に来たらしい青年が、表情を変えずに口を開く。
「首領の言う通りでしたよ。コロナリアのはずれで戦闘の痕跡がありました。死体はなかったですけど。血痕はありました。恐らく致死量でしょうね。複数の軍靴の跡もありました」
「軍の相手はどこかわかったかい?」
「おそらくハイリカムかと。残っていた銃弾が、奴らが使用しているものでした」
なるほどと頷く上司へ、青年が続けて尋ねる。
「対応しますか?」
「そうだね、想定内ではあるけど」
「想定内?」
「秘密を抱えたものは、根も葉もない噂にだって過敏になるものさ」
「そういうものですか」
青年が首を傾げる。相槌以上の意図を持たない、平淡な声音だった。男はくつくつと笑う。
「加えて攻撃的になる。暴かれたくないが為の防衛本能だね」
「準備が必要ですか?」
「いいや。それより、コロナリアで暴れておいてこちらが動かないのも不自然だ。対外的な行動は必要だろう。頼めるかな?」
「了解しました」
くるりと背を向け、退室していく青年を見送って、男は——オレアンダー首領トラデスティはゆるりと笑みを浮かべた。
事態はすでに動き出している。概ね想定通り。愉快なほどに滑稽だった。
ただひとつ、懸念があるとすれば。
——戻るつもりはないよ。さよならだ。あんたには、一応感謝している。
目の覚めるような美貌に氷の表情を張り付けて、一方的に離別を告げた姿を思い出す。
タイミングから考えて、彼の行動が今回の一件に関わっていないとは限らない。
何かを見たか、知ったか。何を目的にしているのか。男にはさっぱりわからない。
どちらにせよ、石は転がり始めた。彼がどう動くにせよ、邪魔されるわけにはいかないのだ。
「——さて。どうしたものか」
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