第六章 それでも空は晴れるから 2


 ぽつぽつと、雨が窓を叩く音がする。

 コンコン、と扉を叩く。ややあって、中からどうぞと声がした。

 そっと扉を開き、アスタは部屋へと入った。


「セージ」


 声を掛けると、ベッドの傍に置かれた椅子に腰かけた背中が振り返る。小声で話しかける。


「エリスは?」

「……寝てる」

「代わるよ。下にごはんがあるから」

「………おう」


 少しためらう様子をみせたが、セージが部屋を出ていく。

 入れ替わりに椅子に座る。傍らのベッドには、顔色の悪いエリスが眠っていた。

 オレアンダーからジニアの車で戻ってきたのは昨夜のこと。車内で黙り込んでいたエリスは、イヴェールに辿り着き、出迎えたシオンとルリアを見て、崩れるように倒れた。

 慌てるアスタたちを横目に、さっと近づいたジニアによって疲れによる発熱と診断されたエリスは、そのままイヴェールの一室に運ばれた。彼の目が覚めたのは日付が変わる頃。泣きそうな顔で付きっきりだった双子が大人たちに促され、渋々床についた後だった。水分摂って再び眠りにつき、それから一夜明けたが、依然熱は高いままだ。

 机に置いてある水差しの水はもう残り少ない。持ってくるかと腰を上げた時、扉を叩く音がした。


「どうぞ」


 入ってきたのはジニアとアミだった。手には新しい水差しを持っている。


「どうだ?」


 言いながら額に手を当てて熱を測り、渋い顔で呻いた。


「下がらねぇなぁ。明日も下がらなかったら解熱剤使うか」

「だいじょうぶなの?」


 背伸びをしながらベッドを覗き込み、くしゃりとアミが眉を下げる。


「大丈夫だよ。すぐに元気になるさ」


 くしゃりと頭を撫でると、アミがこくりと頷いた。


「アミ。飯だろ、先に戻ってな」

「はーい」


 アミが出ていく。ぱたぱたと離れていく軽い足音を見送って、アスタはジニアを伺った。


「あ?どうした」

「本当に、大丈夫なんだよな」

「大丈夫だよ。昨日も言っただろ。疲れが出たんだって」


 昨日、倒れたエリスを診たジニアは言った。疲れたのだろう、と。オレアンダーで起きてしまった一件は、エリスの精神に過度な負担をかけていたから。そこから帰ってきて、安心して、気を抜いていいと思ったから、熱が出たんだろう、と。

 ——殺してやるって、言ったでしょ、アスタ……!

 雨の中で聞いた、悲痛な慟哭を思い出す。あれは怒りであり、憎しみであり、呪いであり。

 そして、たぶん、悲鳴だった。

 なんで、どうしてという叫びだった。

 彼の裡には、握りしめた刃がある。唇を噛みしめて、痛いほどに握りしめて。振り下ろすことも、手放すこともできずにいた、刃が。

 あの時、エリスを止めたことを間違いだったとは思わない。

 思わないけれど。少しだけ考える。

 結局振り下ろせなかった刃は、込められた思いは、どこに行くのだろうと。


「——ルリアが」

「あん?」

「体調を崩したところを見るのも、無防備に寝ているところを見るのも、初めてだって言ってた」


 感慨深そうに、それからうれしさと、ほんのちょっとの嫉妬を込めた声音で彼女は言った。


 ——兄さんは、あなたたちに出会って、ようやく寝れるようになったのね。


「俺がいた頃のオレアンダーの治安は最悪だったからな。あの中で、ガキがガキを抱えて生きてきたんだ。誰にも心を許さない。隙を見せない。それがあいつの生き残る為の方法だったんだろ」


 はあ、とジニアがため息を吐く。


「あいつ、頭領の代替わりのきっかけになった事件に関わっていたって言ってただろ。ルリアに聞いたんだが、関わっていたというか、がっつり中心人物だったらしい」


 それは五年くらい前のこと。前頭領だった男が、まだ幼かったルリアにちょっかいをかけようとしていたらしい。ちょっかい、の言葉にアスタは顔を顰めた。気付いたエリスが抗議したが取り合わず、彼がいなかった時を狙ってルリアが連れられそうになった。間一髪でエリスが到着し、なんと彼は前頭領の顔面を殴り飛ばしたらしい。当時彼は十三歳。なんとも勇ましく、危なっかしい話である。

 報復が来る前にと、エリスは双子を連れてオレアンダーから抜けようとしたが、それよりも早く騒ぎに乗じたトラデスティが前頭領を殺害して代替わりした。元々トラデスティは前頭領を引きずり降ろす機会を狙っていたのだという。その後、世代交代のきっかけとなったエリスをトラデスティは優遇していたらしい。頭領が優遇している若く美貌の少年。そりゃ、やっかみも買うし余計な感情も買う。

 何度襲ってきた奴らを叩きのめしているところを見たことか、とルリアは苦笑していた。

 朝日が漏れ込む部屋での出来事を思い出す。弾かれた手。怯えるように結ばれた唇。何かを探すように背中に回された手と——昏く澱んだ瞳。

 一瞬だって気の抜けない生活を送っていたのだろう。人の気配があったら眠れなくなるほどに。


「ガキの頃から気を張って生きてきたんだろ。今ここで位、ゆっくり寝させてやれ」

「……そうだな」


 青ざめた寝顔を見て、それでも、どうかと思う。

 ——せめて、どうか。良い夢を。

 

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