第六章 それでも空は晴れるから
コンコン、と扉を叩く。ややあって、中からどうぞと声が返ってくる。
ルードは失礼しますと声を掛けながら入室した。
「——お呼びですか」
本棚で資料を繰っていたトレイト・カーパスが振り返る。
「ルード、突然お呼びしてしまって申し訳ありません」
ぺこりとトレイトが頭を下げ、部屋の中央に置かれたソファを示す。
ルードは促されるままソファに座る。向かいにトレイトが腰かけ、書類の束を間の机の上に置いた。
「現時点での報告書です。総統、憲兵隊に提出したのと同じものになります。事の経緯と関係者の名前はすべて記載してあります。しばらくは大騒ぎでしょうね」
許可を貰って、ぺらりと紙をめくる。
「うわぁ…」
みっちりと詰め込まれた文字列にうんざりする。ちらりと見えただけでも、ルードですら知っている重鎮の名前がちらほらあった。
「ここにはナルキース中将の名前も載っています。十二年前の事件についてですね。聞き取りでは上官の命令に従い、その場に立ち会っていただけだと。当時の彼の階級と、ここに載っている名前を考えれば、その主張はおそらく認められるでしょう。もちろん、認められない可能性も大いにありますが」
エリス・ユーフォルビア。彼が過去に巻き込まれた事件については、かなり厳重な緘口令が敷かれた。事件の内容についてはもちろん、彼の名前を出すことさえ禁じられている。
軍の罪を覆い隠し、体面を保つためではなく、彼の身の安全の為に。
「心情だけで言うのなら、見ていただけの奴も同罪としたいところですが、残念ながら問える罪状がない。同じような奴らはごろごろいます。本当に残念ですが、私情で断罪するわけにはいきませんからね」
くすり、と笑う目の前の少年が、自分より年下だとは思えなかった。
何も知らないだろうと、利用されているのだろうと思われていた子ども。可哀想にとすら思っていた。
それが、こんな。
「——あなたは、どこからこの情報を」
「自分の手で集めました。ほら、あの時も言ったでしょう?僕のことは誰も気にしていない、って。すれ違いざまに盗聴器を仕掛けても、部屋の前で立ち聞きをしていても、気付かなかったでしょう?」
ぞ、っとした。茶髪に軍服。小柄な軍人。心当たりは——ある。
取り巻く大人たちを鮮やかに出し抜いてみせた少年が、肩を竦めて笑う。
「キリカ叔母様にはお伝えしましたよ。真実がどちらにせよ、必ず突き止めます、と」
「……あなたは、あの男の言葉が本当だと思うのですか」
「わかりません。わからないから、調べます。当然でしょう。あの時はご協力ありがとうございました。ヤフランにはあの場所に行くことは反対されていたので」
僕はまだ子どもですから、とトレイトが笑う。その笑顔だけみれば、確かに年相応だった。
ふ、と笑顔を消し、幼い顔立ちに見合わない憂いを載せた。
「その件で、あなたが異動になると聞きました」
「——ええ。当然です。俺は彼らを、裏切ったのだから」
胸を張る。うつむく必要なんてない。
「でも、後悔していません」
正しかったと、思っている。正しいことをしたと、信じている。
あの日。ルードを訪ねたトレイトは、包み隠さず情報を提示した。その上で、ルードに頼み込んだのだ。
ティアン・レオントとの面会に、同行したいのだと。
悩みながらも、ルードは彼を護衛者の中に紛れ込めるように手配した。子どもだから大丈夫だという過信がなかったとは、言わない。
——後悔はしていないのか。
オレアンダーから帰還後、ローダンはそう尋ねた。ありません、と答えたルードに、先輩はそうかとただ眉を下げて微笑んだ。
——なら、いい。
「真実が明るみにでれば、あなたもタダではすまないでしょう。あなたを支持していた人たちからは恨みを買うことになる。もしかしたら、御父上も」
ルードよりも危うい立場に立っているのはトレイトの方だ。
だが、それを彼は当然のように笑って。
「でしょうね。けれど、ルード。あなたにも言いました。それでも僕は、正しいと思うことをするので
す、と」
それから彼は苦笑する。
「父は関心も示さないでしょう。あの人は、流されるままに動いてきただけですから。望まれるように、そう在れと言われたように。叔母様が言ったことは正しい。僕を生んだのだって、そう望まれたからです。特に父親らしいことをされたこともありませんし、顔を合わせたことだって数えるくらいです」
ふい、と窓の外を見遣る。何かを見通すように目を眇め、過ぎった感情を一瞬で消し去ると、トレイトはルードに向き直った。にっこり笑う。
「それに、あの人はもう長くない。すべての真実が明るみに出る前に亡くなるでしょうね」
「——そう、ですか。……あなたは、なぜ、ここまでやったのですか」
きょとん、とトレイトが目を瞬かせる。
「少し前、ひとりで町に出たんですけど」
「え⁉」
「途中からレオントが同行してくれました。町というものが見たかったんです。そこで暮らしている人々を、この目で見たかったんです。本当はコロナリアまで行きたかったのですが、さすがにレオントに止められました」
「当たり前です!」
「はは。でも、良いものが見れました。この人たちの生活を、未来を、保障しなくてはいけないのだと、改めて思ったんです」
そう語る少年は、どこまでも真摯で、まっすぐな目をしていた。
「レオントが言っていたんです。自分が正しいと信じることに、胸を張りたいんだって。——僕も、そう在りたいと思いました」
自分の名を笠に着て好き勝手やろうとしている連中のことも、叔母のことも、トレイトは気付いていた。
悩んでいたトレイトの背中を押したのが、ティアン・レオントの言葉だったのだ。
「あの人たちのやり方は間違っている。だから僕はこうしたんです。僕がやりたいからやりました。その結果がどうなろうと、後悔はしません」
強いな、と思った。強くて、眩しくて、まっすぐだ。
トレイトがいたずらっぽく笑う。
「ところで、ルード。ジニアさん、という方とは知り合いなんですか?」
「え」
どきりと心臓が跳ねた。
「え?」
「……そ、育てくれた、保護者、です…?あ、いや、でもあの、血のつながりとかはなくてですね」
「すっごい言葉選びましたね。喧嘩でもしたんですか?」
「う………」
言葉に詰まったルードをみて、トレイトがころころと笑う。
「仲直りしないんですか?」
「うぅ…」
「ははっ。仲直りしてくださいね。赤の他人を育てるのって、大変なんですよ。僕を育てた人たちが、ずっと文句言ってましたから。愛情がなくちゃ、できません」
は、胸を衝かれたような気がした。トレイトは、父親には関心がなかったのだと語った。そして母親はすでに実家に戻ってしまったのだと聞いている。
まるで兄を宥める弟のような眼差しで、トレイトが続ける。
「話をしてくださいね。それが、できるうちに」
ぐう、と呻いて、それからルードは小さく頷いた。
随分久しぶりに会った養い親は、別れたときと何も変わっていなかった。穏やかな声も、広い背中も。
ジニアの元から出て、ルードが軍に所属したのは、自分だけのものが欲しかったからだ。
あの町に居た頃、何度も言われた。
——たまたまあの人が拾ったのがお前だったって、それだけだろう。お前じゃなきゃいけない理由なんて、あの人にはないんだから。
正しいことをしなければ、と思ったのは、その言葉のせいなのかもしれない。捨てられても自分は悪く ない。だって、自分は正しいことをしているのだから。そう言えるように。
あの時言われた言葉の真意が、だから困らせるようなことはするなと言いたかったのか。それともただの嫉妬だったのか。どちらでもいい。多分、ルードは傷ついたのだろう。あの頃は、それを認められなくてさらにジニアにきつく当たって、でも本当はあの人が悪くないことはわかっていたから、そんな自分が嫌で仕方がなくて。結局ルードはあの家を飛び出した。
あの人がルードのことを大切にしてくれていたことは知っている。でも、これからもずっとそうだと、どうしたってルードは信じられなかった。
——血のつながった実の親でさえ、自分のことを捨てたのに。
離れた今ならわかる。ジニアのことを邪険に扱ってしまっていたのは、ただ甘えていただけだ。確かめていただけだ。あんたはそれでも、捨てないでくれるか、と。
臆病な自分は、逃げるように離れてしまったけれど。
度々届く手紙に、そこに綴られた親愛の言葉に、一度も返事ができないでいるくせに。
ああ、自分はまだ気にかけてもらえているのだと。
そう安心してしまう自分が、すごく、いやだった。
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