第四章 あなたの願いを知っている 3
——あの時も、雨が降っていた。
薬の仕入れから帰ってきた兄の思いつめた顔を見た時に、セージはすぐに理解した。
ああ、恐れていた日が来たのだと。
「トラデスティのところに行ってくる」
「オレも行く」
オレアンダーに所属しながら、双子には深く関わってほしくないらしい兄には渋られたが、セージは絶対に譲らなかった。あの男と兄を二人きりにするのは、なんとなく嫌だったので。
先代頭領の時代のオレアンダーは脱退なんてできなかったらしいが、現在は違う。社会復帰を果たしている人だって大勢いる。はずなのだが。
「休暇ではだめなのかい?」
案の定引き止められていた。
エリス・ユーフォルビアは、オレアンダー唯一の医師だった。
兄に後進を育てるつもりがあったのかどうかはわからない。多分なかったと思う。兄は組織の誰も信用していなかったし、双子以外傍に置くことはなかった。優秀で見目も良かった兄に近づきたい奴は、大勢いたけれど。全て切り捨てていた。
「戻るつもりはないよ、さよならだ。——あんたには、一応感謝している」
冷ややかな声で決別を告げて、その日のうちに兄はオレアンダーを抜けた。兄がオレアンダーから持ち出した荷物は少ない。それは双子も同じだが、エリスは自分の持ち物の大半を躊躇いもなく捨てていた。 彼が捨てずに残したのは、双子からの贈り物だけだ。
何をしようとしているのかは知らない。何を選ぼうとしているのかは知らない。それでも、セージは決めていた。姉がイヴェールに居を移したときに。絶対に、この人から離れないと。
——一緒に行く。絶対に行く。駄目だと言っても着いていくからな。
先手を打ってそう言ったセージを、エリスは困ったように見ていた。
気付いていた。わかっていた。多分、ずっと前から。
兄は、あの人は。この先を考えていない。死にたがっている、のとは違う。あの人は、生きていてはいけないと思っている。これまでは双子がいたから、庇護する相手がいたからこそ、あの人は命を投げ出さずに生きてきた。せめてこの子達が巣立つまでは、と。そのことを、双子は理解していた。
理解していたからこそ、姉はイヴェールに居を移した。兄が自分の為だけに未来を選べるように。
理解していたからこそ、弟は兄の元に残った。兄が弟を置いていけないと知っていたから。
だから。
そこで、目が覚めた。
ぱちぱちと瞬き。見慣れない天井を背に、ルリアが覗き込んでいる。
セージによく似た顔がにっこりと笑う。
「おはよう。よく寝てたね?」
セージはエリス達と合流するまでイヴェールで働くことになった。客足が多いわけではないが、慣れない仕事に疲労が溜まっていたらしい。店仕舞いが終わった後、休憩室のソファに座り込んだ先の記憶がない。
疲労だけではない。昨夜は眠れなかった。眠れたと思ったらあんな夢をみた。ほんの数日前の出来事だというのに、もう随分と時間が経ったような気がする。あれから色々なことがあった。変わったこともたくさんある。
ルリアは笑みを崩して困ったように眉を下げると、セージの隣に腰を下ろした。
「……兄さん、元気そうだった?」
昨夜の電話を思い出す。
僕たちは問題ないから、そっちはお願いね。いつもと変わらない声が言っていた。深々とため息を吐く。
「あいつ、隠すの上手いから」
「はは、そうねぇ。私たちには、絶対に頼ってくれないもんなぁ」
エリスにとって、双子は守るべき相手だ。二人が年を重ねてもそれは変わらない。
双子にとっても同じ。エリスは自分たちの絶対的な味方で、何があっても助けてくれる人。あの人が傍にいたら何も怖くないのだと、怯えなくてもいいのだと、心の底から思っていた。
強くて賢くて、なんでも出来て、いつでも手を握っていてくれた兄が、本当は自分たちと同じ子どもだったのだと気が付いてしまった今でも、それは変わらない。
——兄さんがいてくれるなら、大丈夫。
出来るなら。出来ることなら。
あの人を支える、誰かになりたかったけれど。
「……まあ。大丈夫だろ」
「アスタさんが一緒だから?」
警戒心の塊で、双子以外には心を許さなかった兄が、同じ部屋で眠って、秘密を共有して、一緒に戦うことを許した相手。イヴェールにまで連れてきた青年。
アスタ・エーデルワイズ。兄を友人と呼んだ男。
アスタといる兄は楽しそうだった。どこにでもいる友人同士に見えた。
「アスタさん、友だちなんだって言ってたね。兄さんの友だちなんて、初めて」
同意するのは癪なので、ふんと鼻を鳴らしておく。
エリスがどうして彼らの事情に首を突っ込んだのか、セージは知らない。だけど、アミの腕にある術具を気にしていたことは知っている。それがきっと、兄が双子に隠し続けた秘密に関係しているであろうことも。
気が付いていたけれど、尋ねる気はなかった。話してくれる日が来るなら、その日を待つ。けれど、その日が来なくても、それでもよかった。
あの人が明日もいてくれるなら、それでよかったのだ。
「二人が帰ってきたら、事情聴取ね。お説教もしないと」
楽しそうに笑う姉だって不安だろうに、そんな素振りは見せない。そんなところは自分に似てしまったと苦笑するエリスには、全てお見通しらしいけれど。
「さ、ごはんにしましょ」
「あー、悪い。手伝わなかったな」
「お皿洗いお願いね」
話しながら休憩室を出る。カーテンを閉め切った店内で、シオンが手招いていた。その隣では、テーブルに載ったご馳走に目を輝かせているアミがいる。
「お疲れ様、二人とも。そっち座って。そうそう、アミが聞きたいことがあるみたいよ」
「?どうした?」
あのね、とオレンジジュースを片手にアミが切り出す。
「……おにいさん、元気だった?」
「お前が話したんじゃないのか?」
「元気だよって言ってた。でも、声がちょっとつかれてたんだよ。ほんとうかなぁ」
「ふふ。気付かれてるようじゃ、彼もまだまだね」
「兄さんみたいに隠すのばっかりうまくても困るのよ」
憮然と言い放つルリアを、シオンが宥めるようによしよしと撫でる。頬を膨らませて不満を表明しながらも、彼女は嬉しそうに享受していた。兄程ではないが警戒心の強い姉が、シオンには随分と懐いている。
セージの視線に気が付いたのか、シオンが首を傾げた。それから、ああ、と頷く。
「安心して、ジニアは信用できる人よ。それに、優秀な医者でもあるからきっといい出会いになる」
エリスとアスタが向かったカリプタスで瘴気が発生したと情報が入って、すぐにシオンはジニアという男に連絡を取った。ジニア・リンネリスという人は信用できる大人であると、焦る双子に対してシオンは言った。二人を保護してほしいと伝える彼女に、セージもルリアも、何も言えなかった。
連絡を終えて、大丈夫よと微笑む彼女をただ黙って見つめ、ひとり状況がわかっていないアミの手を握り続けた。
エリスから連絡が来るまで、生きた心地がしなかった。
「……通行止めは、まだ解除されねぇのか?」
「まだね。久々の瘴気発生だから、解除までは時間がかかるわよ。当然、巡視のために派遣されている軍も、まだひかないでしょうね」
「遠回りでネレーイスに向かうのは…」
「おすすめしないわ。子どもの一人旅には向かない行程よ」
「……」
子どもじゃない、とは言えなかった。
シオンが優しい声で続ける。それこそ、子どもを宥めるみたいに。
「二人に、戻ってきてもらう?」
帰って来てと、言ったとしたら。
あの人たちは帰って来てくれるだろう。子どものお願いを、声を、無下にはしない人たちだから。今はまだ、帰ってきてくれるはず。
少し考えて、セージは首を横に振った。
いずれは戻ってくるのだとしても、それはもう少し軍が引いてからでないといけない。安全だと、大丈夫だと、そう言えるようになってからでないといけない。
自分の不安のために、彼らに負担をかけたくはなかった。ひとつ頷いて、話は終わりと言うようにシオンが話題を変える。
「そうだ。今日はもう寝なさい。外に出てはダメよ」
「なんでだよ?」
「いやぁな予感がしてね。念の為よ」
双子は顔を見合わせた。シオンの予感はよく当たるのだ。
「大丈夫なの?」
「問題ないわ。私がいる」
シオンがゆるりと笑う。
大丈夫なのだと、無条件で信じてしまうような、自信に溢れた笑みだった。
ぱちくりとアミが目を瞬かせる。
「シオンちゃん、強いの?」
「——もちろん」
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