第四章 あなたの願いを知っている 4
ぎい、と扉を開ける。店の前にいた気配が揺れたのを感じて、シオンはゆったりと笑った。
こつこつと庭に敷かれた道を歩く。門を潜り、待っていた男を見てシオンは声を立てて笑った。
「こんばんは。良い夜ね」
軽く腕を組んで、わずかに首を傾げて、花のような少女が微笑む。
対する男は、加えていた煙草をひとつ吹かして、飄々と笑い返した。
「こんばんは、店主。ご機嫌は如何かな?」
背中程までの長さがある赤みがかった茶髪。首の後ろで一つに括ったそれを夜風に揺らして。オレアンダー頭領トラデスティが一歩足を進める。
「久しぶりだね、店主」
「ええ、そうね、トラデスティ。一人で来たの?随分と不用心じゃない」
「お忍びってやつだよ」
「部下を引き連れて来るかと思ったわ」
「そんなことをしても意味がないだろう?君を相手に、武力行使が有効とは思っていないさ」
飄々と笑いながら肩を竦める。軽薄な口調だが、必要以上に距離を詰めては来ない。穏やかな物腰と柔らかな口調に隠した警戒心の強さは、エリスとよく似ていた。
「エリスはここにいるかい?」
「いないわよ。無駄足だったわね」
「ふうん?」
浮かべた笑みを一瞬消して、ゆるりと茶色の目を細めた。
「だけど、あの双子はここにいるだろう?」
「あら。だから、なぁに?」
少女が纏っていた殺気が鋭さを増す。
敵対する気はないというように、トラデスティはひらひらと手を振った。
「勘違いしないでくれよ。脅しているわけじゃあない。無意味だとわかっていると言っただろう?ただまあ、エリスに連絡を取ってほしいんだ」
「お断りするわ。あの子の依頼が優先よ」
トラデスティが煙草の火を消した。
「ならばこちらも報酬を支払おう。彼以上のものを」
「——無理ね」
イヴェール店主はばっさりと切り捨てた。情報、労働力、金銭。エリスが初めて客となってから、報酬として多くのものを支払ってきたが、今回は本当に大きなものを手渡された。
エリス・ユーフォルビアにとって、一番大切なもの。その片割れ。ルリア・ユーフォルビアを預ける。
そして彼は、双子にすら明かさなかった過去の一部をシオンに語った。巻き込んでしまうかもしれないから、当然のことだと、笑って。
示された信頼と誠意。それに、シオンは応えなければならない。
「……うーん。困ったなぁ」
ちっとも困った様子ではない。この程度は予想していたのだろう。わざとらしくぽん、と拳で手のひらを叩いて見せる。
「では、伝言を頼もうか。その後のことは、君の判断に任せよう」
「……なら、約束を貰おうかしら」
「約束?」
「先に伝言を提示しなさい。文句は聞かないわ」
悩む素振りを見せたトラデスティだが、仕方ないねと肩を竦めた。余裕を含んだ笑みは崩れないが、内心はわからない。
「話がしたいそうだ」
「へえ。誰かしら」
「予想はしているんじゃないかい?アヤメ・クロコスだよ。彼女とは協力関係でね。お願いされたんだ。エリス・ユーフォルビアに会わせてほしいって。場所はコロナリア。オレアンダー内部。僕が立ち合いをする。アヤメ・クロコス一人がやって来るそうだ。あなたたちの一番欲しいものを持って」
あなたたち、とトラデスティは歌うように繰り返す。
「エリスは一人じゃないんだね。アヤメ・クロコスは明言しなかったけれど、今国軍で起きている問題に彼が首を突っ込んでいるのはわかっている。同行者は軍の英雄にして裏切者。まったく、この数日で何があったんだか」
「アヤメ・クロコス以外にも情報提供者がいるのね。用意周到なこと」
「準備と警戒は当然だろう?なにせ僕は、オレアンダーの頭領だ」
「あら、何の準備なのかしら。あなたは何をしようとしているの?」
「それはお楽しみってやつだよ。これから起きることを明らかにしてしまうと面白くない。そうだろう?」
茶色の瞳が、猫のように細められる。
「それとも、それが約束とやらの内容かな?」
「いいえ。エリスとその同行者に一切の損害を与えないこと、を約束してもらおうかと思ったのだけれど」
シオンが薄っすら纏っていた殺気を解く。
「必要なさそうね」
「——うん?」
「いいわ。伝言はしてあげる。だけど、選ぶのはエリス達よ」
「もちろん。それで構わないよ」
どうせ、彼らはコロナリアに向かうだろう。アミを助けるために。
トラデスティもわかっているのだろう。楽しそうに笑う彼に背を向ける。
「用は終わったわね。なら早く帰りなさい。もう遅いわ。ハイリカムが動きまわっていることは、よく知っているはずでしょう」
「……なあ」
「なぁに?」
肩越しに振り返る。
呼び止める気はなかったのか、トラデスティはしまった、という表情を笑みの向こうに追いやって。
「——いや、なんでもないよ」
笑顔を作ろうとして失敗したような顔で、そう言った。
シオンはふっと目を眇めた。難儀な性格をしているなと思う。聞きたいことがあるのなら、素直に口にすればいいのに。
言いたいことがあったのなら、ちゃんと言えばよかったのに。
「……一応聞いておくけれど」
「うん?」
「伝言の追加はある?」
そこで初めて、男から笑みが消えた。
夜の闇の中で佇む彼は、言葉を探すように何度か口を開いて閉じてを繰り返して。
今度こそ、完璧な笑みを浮かべてみせた。
「ないさ。なにもね」
「——以上が伝言よ」
トラデスティからの伝言をそのまま伝える。電話の向こうで、エリスは頭を抱えているようだった。
『……ごめんなさい。迷惑をかけた』
「あら。エリスが謝る必要はないわ。大丈夫よ」
『……ありがとう。何もなくて良かった』
「ふふ。どういたしまして。任せてもらったんだから、応えないとね」
冗談交じりに言うと、密やかに笑う声が返ってきた。
『うん。シオンにお願いしてよかった。そっちに戻るまで、お願いします』
「私は構わないけど、あの子たちはどうかしらね」
『……う』
セージたちにトラデスティが尋ねてきたことと、その伝言については伝えていない。だが、察するものはあるのだろう。今も、影に隠れて盗み聞きをしている。
「——行くの?」
『もちろん』
「アスタとは話をした?」
『アスタならそこで話を聞いてるよ。……はいはい。説明するから。え?いや、わかんない。あ、ごめん、シオン。アスタと一緒に行くよ』
向こうで何か会話が挟まっていた。仲が良くて何より。
「気を付けてね」
『ありがとう。——また連絡する』
電話が切れる。受話器を置いて、隠れて話を伺っていた子どもたちを呼んだ。
盗み聞きがバレて、バツが悪そうに出て来る三人の頭を順に撫でる。不安そうにしている彼らに、シオンは零れるように笑った。
「聞いていたんでしょう。君たちは、どうする?」
セージが目を伏せる。不安と葛藤が固く握られた拳に現れていた。
「ちなみに、エリスからは君たちを守ってくれとお願いされているけれど、君たちをここから出さないでとはお願いされていないわ」
ぱっとセージが顔を上げる。黒色の瞳が揺れている。
「——オレの、お願いを、聞いてくれるのか」
「もちろん。——高いわよ?」
「兄さんにツケといて」
「あっはは!いいわよ。そうしましょう」
声を立てて笑い、膝を折ってアミと目線を合わせる。
「君は、どうする?」
きゅっと握りしめたワンピースと、真っすぐに向けられた金色の瞳が、その答えだった。
笑みをひとつ返し、シオンは立ち上がるとぱんぱんと手を打った。
「さあ、ごはんにしましょう。話はその後ね」
はあい、と各々返事をして、子どもたちが廊下を戻っていく。
それを見送って、シオンは窓の外に目を向けた。
外は薄暗く、分厚い雲が空を覆っている。もうすぐ雨が降るだろう。
彼女が出ていった日も、こんな天気だった。
アヤメ・クロコス。短い期間、イヴェールに滞在していた少女。
——ねえ、シオンさん。
彼女と出会ったのは、タンジーの町での一件が起きた後のこと。ネレーイスのジニアの元へ訪れていた時に、道端に蹲っていた少女を拾って連れ帰って来た。ボロボロで、疲れ果てて、泣きはらした目をした子ども。猫のように毛を逆立てていた彼女が徐々に警戒を解き、事情を断片的に話してくれるようになったのは、それからしばらく経った後のことだった。
——シオンさんは、ずっとここにいるの?
——いいえ。いつか、ここを離れる時が来るわ。まだ先の話だけど。
——帰る場所があるの?
——そうね。あるわよ。
アヤメが店を離れる前日。軍による襲撃があった、その前の日。
あの時、彼女は何かを感じていたのかもしれない。
——会いたい人は、いる?
——いるわ。……君も、会いたい人がいるのね。
——うん。会いたいの。
会いたいんだよ。泣きそうに震える声で、けれど一滴の涙も零さずに。
強がりなだけの少女は、寂しそうに笑った。
翌日。シオンによって襲撃は一蹴されたが、アヤメは姿を消した。心配しないでと、書置きを残して。
軍に戻ったことはわかっていた。何をしようとしているのかは知らないが、きっとあの子は選んだのだ。
——そう。君は、帰りたいのね。
彼女の願いが、叶えば良いと思う。
たとえそれが、どんな形であったとしても。
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