第四章 あなたの願いを知っている 5
一度だって、忘れたことはない。
何度も何度も夢をみる。夢にみる。
十数年の時が経とうと変わらず。
ハウレン・ナルキースは、あの日、あの場所にいた。
——多くの人の運命が、決定的に変わったあの場所に。
ハイリカムとの戦火が広がる中、国軍では瘴気を兵器として利用する計画が上がっていた。当時開発されたばかりの探索機型術具と、分離術式を使って採取した瘴気がきっかけだった。
当時は戦時下。もしも、瘴気を兵器として使うことが出来たなら。そうすれば、敵を殲滅し、敵対者の戦意を削ぎ、勝利を手にすることができるだろう。そして、戦後にも抑止力として利用することが出来る。敵を倒す、国を守る、全ては正義の為に。そんな言い訳で、人は簡単に非道を正当化した。
だけど、それを許せない人だっていた。間違っていると声を上げる人だっていたのだ。
ラティルス・クロコス。それから、アスティ・エーデルワイズ。アヤメ・クロコスとティアン・レオントの父たちだ。
きっかけは、彼らの共通の友人で、刻印士だったファレノシス夫妻の息子が攫われたことだった。
ファレノシス夫妻の息子——レン・ファレノシスは軍が攫われた。貴重な刻印士であったファレノシスを従わせるための人質として。
そして、実験体として。
採取された瘴気に浸された刃。それを胸に突き立てられ、幼い身体は猛毒に蝕まれた。
息子を返してほしければ軍に従え。そう脅しておきながら、当時の軍関係者たちは子どもを返す気なんてなかった。卑怯で悪辣。人でなしのやり方だった。
軍にとって誤算だったのは、採取された瘴気が薄まり、毒性が弱まっていたこと。そして、ファレノシス夫妻が、エーデルワイズとクロコスの協力を得て息子を奪還したこと。
瘴気が薄まっていたことで、猛毒は身体を回ることなく滞り、得た時間で夫妻が瘴気に対抗する刻印式の開発に成功した。愛息子を助けたい一心で起こした奇跡だったのかもしれない。
エーデルワイズとファレノシス夫妻は、クロコスの手引きによってコルチカムへと身を隠した。
コルチカムで彼らがどんな風に暮らしていたのかは知らない。穏やかに過ごしていたのだろうか。
平穏は、続くはずだった。
一年後、彼らが軍に見つからなければ。
「——中将?」
はっと目を覚ました。過去を辿って意識が飛んでいたらしい。
再度扉を叩く音がする。扉の向こうから聞こえた声に、どうぞと返した。
「夜分遅くにすまないな、中将」
茶色の髪に薄茶の瞳。細身の身体を軍服に包み、ぴんと背筋を伸ばした妙齢の女性が入って来る。
キリカ・スターチー。
ウィスタリア国軍総統の妹であり、総統に次ぐ地位に就く女性。
「どうかしましたか、スターチー閣下」
かつ、と軍靴を鳴らしてキリカが立ち止まる。
肩に届かない程度の長さで切りそろえられた髪が揺れた。
「アヤメ・クロコスがコロナリアに向かうらしいな。私も同行する」
高くもなく、低くもない声が告げた言葉に、ナルキースは目を丸くした。
アヤメ・クロコスが、ティアン・レオントとコロナリアで接触することになったと伝えてきたのはほんの数時間前だったというのに。
「——相も変わらずお耳の早い。ですが、それは困ります。アヤメ・クロコスがひとりで向かう。そういう約束ですから」
一人で向かうと彼女は譲らなかった。ティアン・レオント達は巻き込まれただけなのだからと。これ以上巻き込むわけにはいかない。協力何てさせるわけにはいかないと。一人で行くことだけは認められず、ヤフランが同行することにはなったが、ナルキースが一緒に行くことは叶わなかった。
共闘することにはなっているが、総統の座を狙っているキリカが、何を目的として同行しようとしているのかわからない以上、認めるわけにはいかない。上官だが、今のナルキースにはそれよりも優先させなければいけないことがある。
アヤメとヤフランと共に、上層部を相手取って告発をすると決めたのは半年前。アヤメはその為に戻って来たのだからと、そう言った。利害は一致していた。ナルキースだって、ずっと忘れられなかった。
償わなければいけない。贖わなければならない。
自分ひとりだけ、みっともなく逃げ続けるわけにはいかない。
アヤメは勘違いしているが、ティアン・レオント達に協力して欲しいわけではないのだ。これ以上、巻き込みわけではないのだ。
——ただ、謝りたかった。
忘れたことはない。ハウレン・ナルキースは、あの日、あの場所にいた。
レン・ファレノシス。当時わずか五歳だった子どもの胸に、瘴気が刻まれた、あの時に。
何も言えなかった。何もできなかった。止められなかった。動くことすらできなかった。
幼い悲鳴を、今でも夢に聞く。泣き叫ぶ声と、それを囲む期待に満ちた弾む声を、吐き気と共に思い出す。
許してはいけなかったのに。声を上げなければいけなかったのに。ハウレン・ナルキースにはそれができなかった。
「私も行かなければならない理由ができた」
「——ですが」
「お前の許可は必要ない。ルードとローダンも連れていく。まだ残っていたはずだ、ルードを今から呼ぶ」
にべもない。思わず立ち上がった
「お待ちください」
「命令だ。協力は了承したが、忘れるな。私は上官だ」
薄茶の瞳に射貫かれて、言葉を呑んだ。
呑み込んで、しまった。
止めなければいけないのに。キリカが何を企んでいるかわからない。同じものを敵にしているとはいえ、同じものを守ってくれるとは限らないのだから。
——ああ、本当に。
ハウレン・ナルキースという人間は、みっともなく卑劣な臆病者でしかない。そうとしか在れない。
「……その理由を、聞かせてください」
※※※
突然知らされたコロナリア訪問の為、警護計画を詰めていたローダンとルードは、解散となった後も執務室に残っていた。
「——結局、誰なんだろうな。エリス・ユーフォルビアって奴は」
「オレアンダーの医師であることはわかっているんでしたっけ」
軍の資料から、オレアンダーで医師という役職を得ていることは判明したが、それだけだった。年齢、
性別、容姿、経歴。すべてが不自然なくらいに伏せられていた。軍の情報が改ざんされたのではなく、オレアンダー側が情報をかなり厳しく規制していたようだった。医師が重要な役職であることは間違いないが、それにしては厳重な秘匿具合だった。
ティアン・レオントの生存について、そのエリス・ユーフォルビアが関係していると断じて情報を寄越したのは、ハウレン・ナルキースだった。
総統派派閥の中心に近い人物が反旗を翻し、対立派閥のキリカとの協力を持ち掛けてきたときは、当事者であるキリカも含めて驚いた。キリカに付く方が利益を得られると思ったのだろうか。一度裏切った奴は、何度だって裏切る。協力の態勢を取りながらも、油断しないようにとキリカは告げた。
「あいつが頼りにするってことは強いんだろうな」
逆立った髪を掻き上げながら、ローダンは複雑な表情を浮かべた。ただ感想を述べただけのような、それでいてどこか苦さを感じさせる表情だった。あいつとは、ティアン・レオントのことだろう。ルードが知る限り、ティアンとローダンが親しくしていた記憶はない。ローダンが嫌悪すら滲ませる対応する一方で、ティアンは無関心と分かるほどに冷淡な応答していた。二人の間には、深い溝がある。ローダンはただの嫌悪だと顔を顰め、ティアンはそれを価値観の違いだと肩を竦めた。
「——そうですね」
戦闘力だけではない。それだけではない強さがあるのだと、ルードは知った。
だって、彼は。エリス・ユーフォルビアは動けた。走れた。瘴気に呑まれる子どもに手を伸ばしたティアンと同じように、迷いなく彼の腕を掴んで見せた。何か手があったのかもしれない。大丈夫だと思う理由があったのかもしれない。
だけど、それだけで躊躇なく死の霧に飛び込むことができるだろうか。
ルードにはできなかった。近づくことも恐ろしかった。視界に入れることすら。
あの時、ルードは動かなければいけなかった。一人でも多くの人を救うために走らなければいけなかった。霧に呑まれる誰かに、手を伸ばさなければならなかった。それが、ルードの信じる正しさだった。
なのに、できなかった。
ローダンたちは仕方がないと言ってくれた。勝手に行動したことは問題だけれど、無事でよかったと言ってくれた。それは、ルードがまだ子どもと言える年齢だからだと、ちゃんとわかっている。
苦笑したローダンがルードの頭をくしゃりと撫でる。
「明日は大勢連れて動けない。護衛は俺たちと数人だけだ。気を抜くなよ」
「はい」
ローダンが部屋を出ていく。その後に続こうとして、ルードはその足を止めた。
ノイズに似た雑音が耳朶を打つ。霊力が流れる感覚がして、術具の発動を悟った。耳に着けた術具に意識を集中させる。
「どうした」
「スターチー閣下からです。ナルキース中将の執務室まで来るようにと。呼ばれたのは自分だけなので、ここで失礼します」
「……こんな時間に?」
難しい表情で黙り込んだローダンに、ルードは首を傾げた。
「先輩?」
「——大丈夫か?」
怖いくらいに真剣な顔だった。歩き出そうとしていた足を戻して、先輩に向き直る。
突然の呼び出しに対して、だけではないことくらいはわかっている。ここ数日、いろんなことがあった。いろんなものをみて、いろんなことを知った。
——俺はティアンのようにはならない。
かつて、ローダンはそう言った。割り切って仲間を守ることだけを選択したローダンと、割り切れずにすべてを守ろうとしたティアン。自分たちは、違うものを選んだのだと。自分にとっての正しさは、相手にとっては正しいものではなかった。それだけの話。
そして、養い親に似た男は言った。
——何が正しいか、何が間違いか。選ばなくちゃいけないときが、必ず来る。
「大丈夫です」
「そうか。行ってこい」
ぽん、と背中を押された。ひらりと手を振る少しだけ年上の先輩は、困ったような、嚙みしめるような、滲むような笑みを浮かべていた。
どこかでみた顔だなと、思った。
「——ありがとうございます」
ローダンと別れ、建物の中を歩く。ナルキース中将の執務室は軍本部の中でも奥まった場所にある。
こんこん、と扉を叩く。部屋の内側から誰何の声がした。名乗ると数秒の沈黙の後、どうぞと許可が下りる。
「失礼します。ナルキース中将。夜分遅くに申し訳ありません」
ハウレン・ナルキースの執務室には、部屋の主と、通信を通してルードを呼び出した上司がいた。
「こんな時間にすまないな、ルード」
「いいえ、閣下。ですが、護衛のひとりくらいは付けてください」
「ああ、すまない。あまり目立つわけにはいかなかったからな」
キリカ・スターチー。ルードにとっては直属の上司にあたる女性。協力関係にあるとはいえ、表向きは敵対している派閥の相手の執務室にいるべきではない人なのだが。まあそれは、ルードも同じなのだけれど。
手袋に包まれた彼女の手には、一枚の紙が握られていた。見るつもりはなかったが、目に入ってしまった。
そこには流麗な字で、たった一文。
——あの銃声を覚えていますか。
「銃声…?」
はっと息を呑んだキリカが紙を折りたたみ、舌打ちをする。
「なんでもない、気にするな」
重ねようとした問いを呑み込む。誤魔化すようにキリカが口を開いた。
「明日の件についてだが、ナルキース中将も共に行くことになった」
ぱちりと目を瞬かせる。わかりましたと返しながら内心面倒なことになったなと思う。共に行動する以上、中将が連れて来る護衛達と連携を取る必要がある。
ルードの内心を見抜いたのか、ナルキースが苦笑した。
「こちらで護衛は用意しない。君たちには負担をかけるが、よろしく頼む」
耳を疑った。ぱっと自身の上司に目を向けると、真剣な表情で頷かれる。
「そういうことだ。アヤメ・クロコスには気が付かれないように動く。彼女は自分だけが向かうことを条件として提示したらしいからな」
「……それは、大丈夫なのですか?オレアンダー内部でレオント先輩と合流する予定でしたよね。オレアンダーは簡単に外部からの侵入を許さないのでは」
「問題はないだろう。あちらが招いたのだから」
「え?」
「いいや。用件は以上だ。お前からはなにかあるか?」
いえ、何も。そう返すはずだった言葉を呑み込んで、ルードはナルキースに向き直った。
「——失礼を承知で、尋ねても構いませんか」
「どうぞ」
自分が尋ねようとしていることが正しいのか、本当はよくわかっていない。正しくないのかもしれない。自分にとっては正しくても、誰かにとっては正しくないのかもしれない。尋ねたところで、何が変わるわけでもない。それでも、聞かずにはいられなかった。見なかったことにして、気が付かなかったことにすることは、できないと思った。
「ナルキース中将。あなたは実験のことを知っていて、レオント先輩に護衛を命じたのですか」
「そうだな。私が彼を選んだ」
「理由を尋ねてもいいですか」
そもそも、ナルキースはどういうつもりでレオントを選んだのだろう。結果として子どもの為に軍を裏切って逃走しているが、彼が子どもを見捨てる可能性だってあったのだ。そこまで考えて、思い直す。ないか。
「——アミという子どもを彼に託したのは、彼が動ける人間だからだ」
「動ける、人間」
「そうだ。自分以外の誰かのために動ける人は、多くはない。そう在りたいと望んだ姿を、貫けるとは限らない。彼は——ティアン・レオントは、自分の信じる正しさを貫ける人間だ」
自分とは、違って。
そんな声が、聞こえた気がした。
かっと、頭が沸騰したように熱くなった。ぎりりと奥歯を噛みしめる。感情のままに声を荒げた。
「だから、レオント先輩を巻き込んだんですか」
突然陰謀とやらに巻き込まれて。子どもを助けるために軍を裏切り、追われることになって、命を狙われて。
自分は安全なところにいるくせに。
「どうしてこうなる前に止めなかったんですか。あなたはそれが出来たはずだ」
「すまない。だが、私一人で止められるようなことではなかったんだ。彼には申し訳なく思って…」
「あなたが!……あなたがどう思っていようと、殺されかけたのは先輩です。戦っているのは先輩たちです!託したんじゃない、押し付けたんだ」
「——ルード、黙りなさい」
「いいえ、黙りません。もしも先輩が、巻き込まれた子どもが、誰かが!命を落としても、同じように言うんですか?申し訳なく思っているって?」
ふざけないで欲しい。人の命を、人生を、なんだと思っているのか。
都合よく言葉を連ねて、誤魔化して。結局は何もできなかったくせに。
死を覚悟してまで子どもを助けたのはティアン・レオント。彼を助けたのはエリス・ユーフォルビア。そして、一番最初に間違えていると動いたのはアヤメ・クロコスだ。
何もできなかったのは、ルードだって同じだけれど。
だからこそ。
「あなたにとってはその程度なのかもしれませんが。あの人たちの命は、人生は!あなたたちが好き勝手していいものじゃない!」
国軍という組織の中で上官に逆らうことがどういうことか、ルードは知っている。知っているが、後悔はなかった。
ルードを見送ったローダンの表情を思い出す。困ったような、噛みしめるような、滲むような笑みを浮かべていた。
ああ、そうだ。あの顔を、ルードは確かに見た。
家を出たあの日。見送りに立った養い親の顔と、そっくりだったのだ。
——あの人に、恥じるような真似だけは、したくない。
「ルード。若いお前にはわからないだろうが、正しいだけでは世の中回らないんだ。必要な犠牲というものも、あるんだよ。今ここでナルキース中将に嚙みついたとして何が変わる?お前に何ができる?何もできないだろう。それと同じだ。正しいからと言って、行動できるわけではない。若いのは結構だが、分別は付けろ。いつまでも子どもでいられると思うな」
呆れ果てたように、上司が言う。誤魔化そうとしているのではなく、本気で言っているのだとわかった。
「話は終わりだ。ここでの一切は不問にしてやる。とっとと戻れ」
ひらひらと手を振られる。ナルキースは何も言わず、目も合わせなかった。
ぐっと手を握りしめ、一礼する。
「——申し訳ございませんでした」
部屋を後にする。かつかつと足音を立てて進む。唇を噛みしめ、磨かれた廊下を睨みつけながら自室を目指す。
上官にあれだけ楯突いたのだ、降格か、異動か。それでもいいと思った。
ふいにルードの行く手を遮るように影が立った。はっとして立ち止まり、顔を上げる。
そして、彼は出会う。
「あなた、は」
「——はじめまして」
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