第四章 あなたの願いを知っている 6




 養父は優しい人だった。穏やかな声音で話し、朗らかに笑う人だった。

 とても強くて、かっこよくて。憧れだった。大好きな人だった。自分の名前を呼んでくれる声が、好きだった。

 あの人と同じ名前を名乗れることが、誇らしかった。だから名乗った。自分の名前を。アヤメ・クロコスだと。

 ——あんなことになるなんて、思ってもみなかった。

 暗闇の中で、声が聞こえる。

 これが夢だとはわかっている。ただ、声を聞く。あの日からずっと、声がする。

 それが誰か、アヤメは知っている。だってずっと、聞こえている。

 誰かが言う。あの人が言う。アヤメを指して、恨みを込めて、言う。

 ——お前のせいだ。


「……はっ」


 暗闇の中で、アヤメは目を覚ました。全力疾走した後のように息が上がっている。

 ベッドの上で体を起こす。傍らの時計は、朝にはまだ早い時間を示していた。


「——はぁ」


 ため息を吐く。強張った手足を動かして、膝を抱えて蹲る。

 少しでも体を休めておくべきかと横になったところまでは覚えている。いつの間にか眠っていたらしい。夢を見た。悪夢ではない。ただ、確かめるだけだ。自分の罪を。

 ティアン・レオントと、アミという少女。それから、エリス・ユーフォルビア。彼らから了承の返事が来たと、トラデスティから連絡があった。ヤフランが同行することになってしまったが、アヤメは一人でオレアンダーに向かうつもりだった。ナルキース中将たちがティアンたちの協力を得ようとしていることは知っている。だが、それはダメだ。

 だって、ティアン・レオントも、エリス・ユーフォルビアも、きっと軍を糾弾しようとしているわけではない。腐り切った権力闘争に首を突っ込みたいわけでもない。ただ、ひとりの子どもを助けようとしただけ。間違っていると行動しただけ。

 彼らには頼らない。頼ってはいけない。アヤメ・クロコスは——自分だけは絶対に、これ以上彼らを巻き込むことを良しとしてはいけない。

 やらなくてはいけないのは、十年以上前から続くこの一件を終わらせること。


「……シオンさん」


 イヴェールの店主が関わってきたことはヤフランから聞いている。紅い髪を靡かせて花のように笑う、 とてもきれいなひと。柔らかな口調、穏やかな物腰、優しくて強い女性。どこか養父に似た雰囲気を持つ人だった。

 瞼の裏で、店で見た薄紅色の花びらが舞う。

 笑みを含んだ、夜に滲むような声が言う。

 ——そう。あなたは、帰りたいのね。

 アミのせいだ。ずっと、アミのせいなのだ。

 わかっている。わかっているとも。

 けれど。自分勝手でも。無責任でも。それでも。


「私は、帰るのよ」




 

 ※※※


「——というわけで、ちょっとオレアンダーまで行ってくるね」


 夕飯はいらないよ、とでも続きそうな軽さで言うエリスに、ジニアは額を抑えた。


「おいこれ、罠じゃねぇのか?」

「罠かもね。でも、このまま隠れてても何も進まないよねって、アスタと話したんだ」


 そのアスタは部屋に引き上げている。発作は落ち着いているがオレアンダーで何が起きるかわからない以上、休める時に休んでおくべきだとエリスが主張した結果である。


「……止める?」


 頼りなさげな仕草でエリスがジニアを見上げる。

 揺れる視線を受けたジニアは、ふっと空気が抜けるように微笑むと、小さな頭をぐしゃぐしゃと撫でた。


「止めねぇよ。好きなようにやりゃあいい」

「うん」

「俺も付いていく。いいな?」

「危ないよ?」

「今更だろ。ここまで事情知っちまったんだ。邪魔はしねぇから連れていけ」

「——うん」


 照れたように目を逸らしながらこくりと頷く。それから咳払いひとつで切り替えて、エリスは頭を下げた。


「よろしくお願いします」

「はい、お願いされます。お前も早く……」


 ジニアの言葉を、大きなものが落ちるような音が遮った。アスタが休んでいる部屋の方からだった。

反応したのは同時。動き出すのはエリスの方が早かった。

 弾かれるように飛び出し、ドアを蹴破るようにして部屋に飛び込んでいく。


「アスタ、どうし……アスタ⁉」


 ベッドから落ちたのか、アスタが胸を強く抑えながら床に蹲っている。悲鳴じみた声を上げながら駆け寄ったエリスが抱え起こした。傍らに膝を付いたジニアがアスタの顔を覗き込む。

 痛みに顔を顰め、声を殺すために強く噛みしめた唇からは血が滲んでいた。


「発作か?」

「多分。でも、どうして……!」


 ざっとアスタの全身に視線を滑らせたエリスが、その左手首をみて息を呑んだ。

 アスタの左手首に装着された術具が、淡く光っている。刻印式が発動しているのだ。


「使ったの⁉……いや、違う、勝手に発動したのか!」


 発作のせいで暴走した霊力が、勝手に術具を起動してしまったのか、それとも乱れていた霊力が術具に流れて起動させ、発作を引き起こしたのか。どちらにせよ、術具を外さないといけない。起動中の術具を無理矢理外してしまうのも良くはないのだが、背に腹は代えられない。


「アスタ、これ外すよ」


 片腕で体を支えながら、反対の手で術具を外そうと試みる。しかし、焦りのせいか上手く解除できない。早くしなければ、と思えば思う程、手が震えてしまう。

 ごぽり、と。

 嫌な音がして顔を上げる。大きく咳き込んだアスタの口から赤い血が流れたのがみえて、エリスが悲鳴そのものの叫び声をあげた。


「うそ、なんで、外れない!」

「落ち着け!そいつ、こっちに寄越せ。窒息するぞ」


 見かねたジニアが手を伸ばし、アスタの身体を受け取る。両手が空いたことで、情けなく震える手でも術具を取り外せた。安堵する間もなく、エリスは術具をその辺に放り投げて小さく震える背中に手を添えた。

 手のひらを通して、荒波のように荒れ狂った霊脈を感じた。そこにエリスの霊力を送り、霊脈を整えていく。押し流すのではなく、包み込むように。

 どれくらい時間が経ったか。アスタの荒い息が落ち着いた頃合いで、エリスは背中から手を離した。

 うっすらとアスタが目を開き、自分を抱えるジニアと今にも泣き出しそうな顔でのぞき込むエリスを映した。ずっと意識はあったのかもしれない。


「…………あ」


 ぼんやりとしていた黒い瞳が揺れる。血が滲む唇から、堪えきれない嗚咽が漏れた。

 震える手が伸びて、エリスの服を縋るように握る。


「アスタ?」


 エリスよりも少し大きな手に、自分のそれを重ねたのは、無意識の行動だった。

 その温もりに、暖かさに触れて、安心したかったのかもしれない。

 だが、それに安堵を覚えたのはエリスだけではなかったらしい。

 黒色の瞳から抑えきれなくなったように眦から溢れたものに、エリスとジニアは小さく息を呑んだ。

 ジニアに支えられ、エリスの手に縋りながら、これまで一度だって自分の命への不安を零したりはしなかった青年は。


「しにたくない」


 たった一言。

 絞り出すように、そう言った。

 沈黙は一瞬。エリスは重ねた手に力を込める。アスタを支えていたジニアの手が震えたのを視界の隅で認めながら、ぎゅっと唇を引き結んだ。気を失ってしまった友人を泣きそうな顔で見つめながら、エリスは言葉を探して、探して。けれどなにも言えなくて。

 うん、とエリスはただ頷いた。


「————わかってる」


 わかってるよ、アスタ。


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