第五章 握った刃を振り上げて 1
今にも雨が降り出しそうな空だった。
コロナリアの中心地から少し外れた場所に、オレアンダーは拠点を構えている。
目の前に広がるのは鉄の要塞。かつて戦争で使われていたその場所に、いつの頃からか行き場のない人たちが雨風を凌ぐために集まるようになり、やがてオレアンダーが生まれた。
ちなみに、オレアンダー内部の治安が落ち着くにつれて、拠点との交易を通して周囲の町が広がったというのだから、人間とはたくましい生き物だと思う。
「コロナリアは何度か通ったことがあるけど、オレアンダーには始めて来たな」
アヤメ・クロコスとの約束の日。アスタとエリスは、ジニアの車でオレアンダー拠点の前まで来ていた。
アスタの容態も一応は落ち着いている。オレアンダー到着時にアスタと、彼が術具を装着しようとしているのを見とがめたエリスの間でひと悶着あったが、口論と睨み合いの末、アスタの方に軍配が上がった。
その間ジニアはというと、久しぶりに見たなぁとそびえ立つ壁を見上げていた。
——昨夜。
エリスの厚意に甘えて横になっていたアスタは、みえない手に心臓が握りつぶされたような痛みに跳ね起きた。助けを呼ぶことも、悲鳴すらも上げられず、ぎりぎりと締め付けられる身体と遠くなっていく意識に、死ぬのかと思った。
いやだ、とそれだけを思った。瘴気に呑まれた時の妙な冷静さも、死ぬよとエリスに告げられた時の他人事めいた落ち着きも、どこかに吹き飛んでしまっていた。仕方がないと割り切っていたつもりだったのに、覚悟していたはずなのに、いざ直面したらこの体たらく。
けれど、全身をばらばらにされたような痛みが少し和らいで、友人と頼れる大人を見つけた時。ああ、死にたくないなと、アスタは強く、強くそう思ったのだ。
アスタが零した弱音に対して、エリスもジニアも何も言わなかった。彼らはあの後気を失ったアスタが何も覚えていないと思っているのかもしれないが、ところがどっこい、ばっちり記憶にある。目が覚めた後、あまりの羞恥に顔を覆ってごろごろと暴れてしまった。すごく心配された。
「アスタ?大丈夫?」
「問題ない。エリスの方は大丈夫か?」
「大丈夫。絡まれたら全員叩きのめすから」
ぐっと拳を握っている。呑気にあくびを零していたジニアが振り返った。
「絡まれるようなことがあんのか?昔は酷かったが、今も?」
「ジニアが居た頃に比べたら大分マシだと思うよ。僕が絡まれやすいだけ。若いし、子どもと一緒にいるし、医者が僕一人だから囲みたいって奴もいたし。謎に幹部扱いされてたし」
「幹部⁉本当にあったのか、それ!」
「待て、囲むってなんだ。囲むって。ガキ相手だぞ。囲むって」
「あるわけないでしょ、アスタ。幹部なんて制度はありません。ただね、頭領の代替わりの切っ掛けになった事件があったんだけど、それに僕が関わっていたこともあって、トラデスティ……今の頭領だけど、あいつに優遇されてるからって。やっかみだよ。僕は全然わかんなかったんだけど」
やれやれとため息を吐く姿には、哀愁すら漂っている。アスタとジニアは顔を見合わせた。
「……ええっと、大丈夫だったのか?」
「うん。問題はなかったよ。良くも悪くも武力で黙らせられるからね。全員ぶっ飛ばした」
「ぶっ飛ばした」
「はっは!最高だなお前!」
高らかに笑ったジニアがくしゃくしゃとエリスの頭を撫で回す。
「ちょっと、急になに?」
「いや。——頑張ったなぁ」
困ったような、噛みしめるような、滲むような笑みを浮かべたジニアが、今度はアスタもまとめて撫でまわした。なになに、と二人で喚く。
と、背後から少し呆れたような声がした。
「……楽しそうね、きみたち」
「わぁ⁉」
「あ、シオン……え?」
飛び上がるアスタの隣で、エリスが慣れた様子で振り返る。ジニアは気が付いていたのか驚いた様子もない。飛び上がった心臓を宥めながらアスタも振り返り、それから絶句した。
ひらひらと手を振る少女の隣に、子どもが二人いる。アミと、セージだ。
「なんで⁉」
エリスと声が揃った。ふふ、とシオンがおかしそうに笑う。
動揺から立ち直れないアスタとエリスをよそに、アミがたっと駆け出した。ぶつかるようにしてアスタの足にしがみつく。なんで、と掛けようとした言葉は、小さな手が力一杯ズボンの裾を握りしめていることに気が付いて呑み込んだ。カリプタスで何があったかを伝えてはいないはずだが、察するものはあったのだろう。少し迷った後、アスタはよしよしと頭を撫でる。
その隣で非難の眼差しを向けるエリスに、シオンはしれっと笑ってみせた。
「お願いされたんだもの。私、依頼者の年齢は問わないことにしているの。知っているでしょう?」
「確かに連れて来るなとは言わなかったけど!」
もう、と文句を言っていたエリスがふいに口を噤んだ。シオンの隣に立つセージが、泣きそうな顔をしているのが目に入ったからだ。迷うような足取りで、弟は兄の前へと進む。
「——兄さん」
「うん」
「一緒にいても、いい?」
泣きそうな声だった。断られたらどうしようと怖がっているようで、けれど絶対に引くものかと、その目が語っていた。エリスはひとつ瞬いて、ゆるりと微笑む。
「もちろん。一緒にいてくれるなら、絶対に負けないから」
強張っていた肩が解け、セージが安心したように笑った。
「……誰と戦ってんだよ」
憎まれ口も弾んでいるように聞こえた。エリスも釣られて笑う。
そんな兄弟たちを横目に、アスタの方はめちゃめちゃ困っていた。だって、アミが全然顔を上げてくれない。
「……アミ?あの、心配かけてごめん」
心なしかズボンが濡れている気がする。泣いている、と気が付いて心臓が跳ねた。
「あの、アミ?アミさん?な、泣くな。ちょ、泣かないで。……エリス!」
困り果てて助けを求めたエリスは、ちらりとこちらを見た後、にっこりと笑って返した。整った顔にはこう書いてある。——自分で何とかしなさい。
薄情者め。
「アミ、ごめん。ごめんな」
ふるふると小さな頭が振られる。わかっている。この子は不安だったのだ。味方だと言った相手が帰ってこなかった。裏切られたと思ったかもしれない。大丈夫だと言われたところで、恐ろしかっただろう。
そっと膝を折り、小さな体を抱き寄せる。ややあって、幼い泣き声が上がった。
瘴気の中で、エリスは言った。
——アミは君がおうちに連れて帰ってあげるんだよ。
そうだ。今、この子の保護者は、その立場にいるのは、アスタなのだ。
自身の行動の無責任さに歯噛みする。エリスに怒られるのも当然だ。込み上げる罪悪感を呑み込んで、アスタはアミへと告げた。
「来てくれてありがとう、アミ」
ばっとようやく顔が上がった。丸く見開かれた金の瞳を覗き込むようにして、アスタは笑う。
この子を、必ず連れて帰る。今度こそ、でもなく。もう一度、でもなく。
この子を。必ず。
「ふふ、アスタも、泣いてる子どもには勝てないんだねぇ」
「うるさい。見捨てやがって薄情者」
「あ、そんなこと言う?」
子どもたちの様子を伺っていたジニアとシオンが、顔を見合わせ、肩を竦めて笑い合う。
「ありがとう、ジニア。彼らを匿ってくれて」
「構わねぇよ。お前、このままここにいるのか?」
「いいえ。私は送り届けただけよ。ルリアが待っているから、店に戻るわ」
「一人で大丈夫か?」
「私の店にいるのよ。問題ないわ」
「いや、お前が一人でって意味だが」
思いがけない言葉に、シオンはきょとんと目を丸くして、それからくすくすと笑う。
「大丈夫よ。お気遣いありがとう」
「そうか。気を付けろ」
「ええ。——ああ、そうだジニア」
「何だ」
隣に立つジニアの顔をじっと見つめ、うんうんと頷き、意味深に笑う。
「禁煙は続いているのね。うん、その方がいいわ。この先の為にも」
「は?」
「それじゃあ、後はお願いね」
「——は?」
おい、と呼び止めるジニアに手を振って、シオンがくるりと背を向ける。紅色の髪がふわりと広がった。
彼女がたまに意味深なことを言う。何もかも見通すような眼差しを後から思い出して、ああこのことだったのかと納得する。不思議な、掴みどころのない少女。初めて会った時から、そうだった。
「シオン、助かった。ありがとう!」
「ルリアをお願い。気を付けて」
帰ろうとしているシオンに気が付いたアスタたちが声を掛ける。
長い髪を揺らして振り返り、少女は花のように微笑んだ。
「君たちも気を付けて。——あなたたちに花が降り注ぎますように」
去っていく背中を見送って、アミがぽつりと呟く。
「シオンちゃんかっこいい」
アスタとセージが無言でうなずいた。あの少女はとてもかっこいい。
「そういえば、お前らどうやって来たんだ?」
「あの人の車。運転あんまり得意じゃないのよねー。とか言いながら、ぶっ飛ばしてきた」
心なしか顔色の悪いセージが答える。アミのほうは楽しかったよ、とぴょんぴょん飛び跳ねている。
「あー。ああ、そうか」
こほん、と咳払いをひとつ。とりあえず、とジニアが切り出す。
「どうやって入る?」
「うーん。ノックでもすればいいのか?」
入口らしき門は固く閉じられている。近付こうとするアスタをエリスが制した。
「大丈夫、気付いているよ。まったく、様子見してないでとっとと出てくればいいのに」
呆れた様子のエリスが、ちょっと待っててと言い置いて門に近付く。
「あ、おい」
大丈夫なのかと続こうとしたアスタの腕を、そっとセージが引いた。
「どうした?」
「絶対に、兄さんを一人にしないで」
エリスとセージにとって、オレアンダーが安全な場所ではないことは知っている。人の気配への敏感さ、警戒心の高さ。それが、オレアンダーという場所に居たからこそだと言うのなら。
「わかった」
そして。
機械の駆動音が周囲に響き渡る。
ゆっくりと開いた門の向こうに、ジニアと同年齢くらいの男がいた。
整った風貌だが、軽薄そうな印象を抱かせる赤みがかった茶髪の男。首の後ろで一つに括ったそれを風に靡かせて、彼は芝居がかった仕草で両手を広げた。
「おかえり。エリス、セージ」
親しみを込めた笑顔に、エリスは無表情で返す。
「お邪魔するよ、トラデスティ」
冷ややかな声。セージは何も言わずに眦を吊り上げる。
トラデスティ。オレアンダーをまとめ上げた頭領。経歴はほとんど明らかにされておらず、油断ならない傑物だと軍の資料には載っていた。
兄弟たちの冷淡な対応に意に介した様子もなく、トラデスティはアスタたちへと目を向けた。
「出迎えが遅くなって申し訳なかったね。彼女はすでに到着しているよ」
ぽつり、と。空から落ちてきた雫が、地面を跳ねる。
——雨だ。
「ようこそ、オレアンダーへ」
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