第七章 花が降り注ぎますように 4
月明かりに、風に舞う花が照らされる。鮮やかに咲き誇る薄紅の花に隠れるように、少女が佇んでいる。
光を受けてひらひらと、はらはらと、薄紅の花弁が舞う。
美しくも儚い、夢のような花。
一枚の絵のようだなと思いながら、ジニアが声を掛けた。
「ガキどもは寝たぞ。あの二人はまだだが」
「ふふ。保護者が板についてきたわね」
「うっせ」
シオンがくすくすと笑った。楽しんでいる。
こほん、と咳払いをひとつ。アスタたちが探しに来る前に、聞いておきたいことがあった。
「——瘴気が刻印式によるものだって、百年誰も思い至らなかったのか?」
ふっと少女の笑みが掻き消えた。
「瘴気が刻印式によるものだと仮定してしまえば、それは人が仕掛けたことになる。瘴気はこの百年で多くの命を奪ってきた。そんな恐ろしいものを誰が、何のために。——なんて、口にできる?証明もできない以上、思い至ったとしても、そこまでの話よ」
「誰が、何のために。やっぱり、滅ぼされた東の国の呪いなのかねぇ」
風に靡く髪を抑えながら、口を開いた時。
ぎい、と扉が開く音が聞こえて振り返る。アスタとエリスが仲良く顔を覗かせた。
「おう、ふたりとも。刻印式はどうだった?」
銀時計の刻印式を完成させたのはジニアだった。出来るかそんなもん、というジニアの叫びは封殺された。エリスの刻印式を紙に写し、くそったれと悪態を吐きながら震える手で最後の線を刻んだ。刻印式には配置やら順番やらがあり、刻印士がするべきなのだが、刻むだけで良いなら素人にもできるらしい。二度とやらせないでほしい。
「ああ。無事に起動したよ」
「まったく、素人にやらせんじゃねぇよ。シオン、お前がやった方がよかったんじゃないか?」
「私?できないことはないけど……高いわよ?」
「取るんじゃねぇよ、金を」
「ふふ、お金とは限らないわよ」
「はいはい。にしてもすげぇな。本当に適応範囲広いのか」
通常、適応する術具は多くて三つ。都合よく術具が起動できるのかと思ったが、彼は大丈夫だと思うと請け負った。
「ああ。クロコスに言われて、軍では秘密にしていたんだけどな」
ただでさえ目を付けられていたアスタに、そんな特性があると知られていたら利用尽くされて飼い殺しにされていたかもしれない。
肩を竦めるアスタの背中を、エリスが力強く叩く。
「どっちにせよ連れていくつもりだったけど。よろしくね、アスタ」
「もちろん。俺が言い出したんだから、一緒に行くさ」
「霊力を注ぐだけなら僕にも出来たから、ふたりでどうにかしようね」
「わーってるっての」
二人の会話を聞いていたシオンが、困ったように眉を下げて声を掛ける。
「責任を取るべき人は他にいる。あなた達が行く必要なんてどこにもない。アスタ・エーデルワイズ。エリス・ユーフォルビア。あなた達は誰が何と言おうと被害者よ。これ以上、あなた達が差し出す必要はない。——それでも、行くのね?」
エリスが紫の瞳を煌めかせ、挑むように笑う。
「ありがとう、シオン。だけど、これはある意味復讐だよ」
何かに背中を押されるように、胸を張ってエリスが続ける。
「お前たちが壊そうとした世界を、僕たちが救ってやる。お前たちが余計なことをしなければ、この世界はもっと早くに救われていた。ざまあみろ、お前たちのせいだ。そうやって笑ってやる」
「それに、差し出すつもりはないぞ。ただ、欲しい未来があるだけだ」
きっぱりと言い切る姿が眩しくて、ジニアは目を細めた。
手を伸ばし、アスタとエリスの頭を撫でる。嫌がられないのをいいことに、思う存分撫でまわして。
「……止めても無駄だろうから何も言わねぇが、危険と判断したら戻って来い。トレイト・カーパスにはガランサスに向かうことを伝えておけ。そんで、何かあったらナルキースとやらに責任をおっ被せてやれ。あの男も、むしろ本望だろ」
髪をぐしゃぐしゃにされたふたりが、顔を見合わせて笑い、声を合わせて。
「はーい」
「……返事だけは良いんだがなぁ」
「大丈夫、無茶はしない。こいつのパンケーキをまだ食べてない」
「ちょっと待ってアスタ。君ってばそれでいいの?」
他にもなにかあるでしょ、と呆れた顔を向ける友人に、アスタはきょとんと目を瞬かせた。
「大事なことだろ?」
※※※
子どもが出来たのよと、彼女は笑った。
書置きひとつ残し、町を飛び出してから数年後のことだ。
無言で友人を屋敷の中に通し、対面のソファを勧め、シオンはやっぱり無言で紅茶を啜った。うん、美味しい。
「ええっと………シオン?」
「あら、彼と一緒になるからってここの管理してねって書置きだけ残して飛び出していったマリーじゃない。連絡ひとつ寄越さない薄情ぶりだったけど、お元気そうでなにより」
「ひ、久しぶりねぇ、シオン。」
「そうね。あれからもう数年経つものね。書庫に興味があるとは言ったけど、住みたいなんて言っていなかったと思うのだけど?」
「文句は甘んじて受け入れるけど、もっと他に言うことないの?」
突然の来訪者は、小さな塊を大事そうに抱いて憮然と頬を膨らませた。もう成人しているはずなのに、どこか幼い仕草だった。
「馬鹿ねマリー。手早く終わる話題を優先したのよ。——ふふ、君が母親になったのね」
きりりと吊り上げていた眼差しを和ませ、シオンは立ち上がって布の中を覗き込む。すやすやと眠る赤子の姿に、シオンの口元が緩んだ。
「おめでとう、マリー。かわいい子ね」
「でしょう?」
すべすべの頬に顔を寄せて、マリーはうんと優しい眼で笑う。
「名前は?」
「ティアンよ」
「良い名前じゃない。ねえ、撫でてもいいかしら」
「もちろん」
許可を得て、ふにふにの頬をつん、と突く。よく眠っているのか、安心しているのか、母親の腕の中で身じろぎひとつしない。うん、可愛らしい。起こさないように優しく撫でていると、ねえ、と友人が呼んだ。
「シオンは、今もひとりなの?」
「そうでもないわよ。お友達はできたわ」
「そういう話じゃないのよ」
知っている。この話は何度もした。
「恋の、話が、したいのよ、シオン?」
「前話したでしょう。それ以上の話はないわ」
えー、と不服そうな声が上がるが、ないものはないのだ。
「それよりも君の旦那の話を聞かせなさい。私、名前しか知らないのよ?」
「へえ。シオンでも知らないことがあるのね」
「知らないことだらけよ。でも、君がただその子をお披露目に来ただけじゃないってことはわかっているわ」
ぎくり、と肩を揺らす姿に苦笑した。
うろうろと視線を迷わせ、手遊びのように赤子の服を弄んでいる。
彼女の心が決まるまで辛抱強く待っていると、やがてマリーは勢いよく顔を上げた。動作に合わせて黒色の髪が跳ねる。
「シオン。お願いがあるの」
「なあに」
「一度だけでいいの。この子を助けて」
今にも泣き出しそうな顔だった。諦念と哀願が入り混じった表情なのに、真っすぐに向けられた黒い瞳は確かに覚悟を決めていた。力強い眼差しを真正面から受け止める。そうか、と察した。
彼女はもう、選んだのか。
「わかってるんでしょう、シオン。君は勘が良いもの」
そうね。シオンはあっさりと頷いた。残酷なほどに。
わかっている。彼女はもう、長くはない。
「この屋敷をあげるわ。管理を頼むって名目じゃなくて、正式にシオンのものに。……それで、どうかしら」
スリージエの奥に構えるこの古びた屋敷は、元々マリー・レオントが両親から受け継いだものだ。それを恋人に着いていくからと、旅をしていたシオンに管理を任せて出ていってしまった。押し付けたのではなく、根無し草だったシオンを心配してだということはわかっている。
屋敷を渡されることが不満なわけではない。シオンとしては、助かるのは確かなのだ。
けれど。
「マリー。頼むのは、この子のことでいいの?」
ぱちくりと目を瞬かせて、それからマリーは晴れやかに笑って見せた。
諦念も恐怖も、全てを覆い隠して。
綺麗に、微笑う。
「ええ。この子を、お願い」
「——そう」
ひとつ頷いて、シオンは赤子の小さな顔に手を添えた。無垢な寝顔だ。悲しいことも、恐ろしいことも、なにひとつないのだと、信じ切った。
「君のお願いだもの。一回だけ、助けてあげる」
「……ありがとう。ごめんね、シオン」
申し訳なさそうに目を伏せ、唇を噛みしめる友人の手をそっと握る。
「謝ることはないわ。君が胸を張って笑えるのなら、その選択は決して間違いじゃない。いつか言ったでしょう、マリー。誰かが誰かの道行を呪うように。誰かは誰かの未来を祝福する。いつだって、君のことは君自身が選ぶのよ」
祝福を贈るように。未来を寿ぐように。
謳うように紡がれた言葉に、マリーは瞳を潤ませた。涙を堪えるように口元を隠し、それから揶揄うように目を眇めて笑った。
「ねえ、シオン。こういう時って泣いてくれるものじゃないの?」
「馬鹿ねぇ、マリー」
ふわり、と。
世界すら書き換えるように、花が咲き綻ぶように。
紅色の少女は、微笑った。
「旅立ちは、笑って見送るものよ」
それが、ふたりだけが知っているはじまりだ。
さくりと、土を踏む音がした。
先ほどまで一緒にいた三人はすでに自室へと引き上げている。誰が来たのかは気配で分かっていた。
「ルリア、もう夜遅いわよ」
「——シオンさん」
「なあに」
「お願いが、あるんです」
紅い月を背に振り返ったシオンが、花のように美しく笑った。
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