第七章 花が降り注ぎますように 3
名前を呼ばれた気がしてエリスは目を覚ました。パラパラと小石が撒かれるような音が聞こえるから、雨が降っているのだろう。
眠気に意識を引っ張られ、ぼんやりと天井を眺めていると、紅色の少女がひょいっと顔を出した。
「おはよう、エリス」
「……シオン」
魘されていた、とシオンは言わなかった。エリスも言わなかった。
ただ、苦笑した。
「もう見なくなるかなって思ったんだけど」
思い出すと顔から火が噴き出そうだが、たぶんあの日から初めて声をあげて泣くことができた。
ようやく歩き出せる。未来の話ができる。あの子たちと、明日を信じて進んでいける。そう思った。
だけど、これからもエリスは夢を見続けるだろうし、胸の中に燻った罪悪感が晴れることはないだろう。
「そんなものよ。長かったわね」
「そうかな。……そうかもね」
「割り切る必要はないわ。何をどうしたって覚えているものは覚えているし、忘れるものは忘れるものよ」
ベッドの横に置かれた椅子に座って足を組み、痛々しいものをみるように夜明け色の目を細めて、シオンはよしよしとエリスの頭を撫でた。
「……ジニアもだけどさ。何で頭撫でるの?」
「良い子にはこれでしょう?」
良い子って。シオンの顔に揶揄いの色はなく、うんと優しい表情をしていた。
「……人を殺そうとしたのに?」
窓を叩く雨の音に、あの時の衝動を思い出す。怒りのままに。恨みのままに。憎しみのままに。ごちゃまぜの感情に突き動かされるように走り出したあの時のことを。
アスタや子どもたちがいなかったら、エリスは握りしめた刃を振り下ろしていただろうか。出来ていたと思う。命を奪えていたかどうかはわからないけれど、どちらにせよエリスはその場で命を絶っていただろう。
「君は殺さないわよ。刃を振り下ろしても、傷つけても、奪いはしない。だって、君はわかっているでしょう?」
「わかっている?」
「命の価値を。たとえ、奪うに値する理由があろうと。相手が誰であろうと。当然の自業自得であろうと。身を守る為だったとしても。命を奪えば傷がつく。どれほど正当がある行いであったとしても、残るのは誰かが誰かを殺したという、その事実だけだから」
唇の端を吊り上げて、さらりと紅い髪を流して、瞳を鋭く細めて、少女は微笑う。
怪しくも美しく輝く月のように。狂ったように舞い散る薄紅の花のように。
まるで世界のすべてを知る賢者のような口ぶりで。
「等しく命は重いの。だからこそ恨みなんて買うものじゃない。彼らの結末は、当然と言えるわね」
「彼ら?」
「あなたから依頼されていた、実験関係者の身辺調査の結果よ。——彼らは全員死んでいるわ。一人残らず」
「——え」
ひゅ、と息を呑む。
オレアンダーから戻った後、十二年前の実験に関わった奴らが、今どうしているのか調べて欲しいとシオンに依頼していた。危険なことだとはわかっていたから、可能な範囲で構わないと伝えていたのだけれど。
記憶が蘇る。朧げな景色を背に、醜悪に嗤う顔が。
両親を殺し、瘴気をバラまいた大人たち。エリスが呪った奴ら。恨んだ奴ら。地獄に堕ちろと、囁いた奴ら。
彼らの現在を知ってどうするのかは決めていなかった。知るよりも先に、死ぬのだと思っていた。
「多くの幸せを踏みにじって、多くの命を奪った。それなのに、お前だけが笑って生きているなんて許さない。それを恨みと呼ぶ。罪には罰を。応じた酬いがあるように。自身の行いの対価を支払った。それだけの話」
「——それは、僕が…」
声が震える。奴らの結末が、もしもエリスが望んだままのものだというのなら。
——お前らみんな、死んじまえ。
叫ぶように。悲鳴のように。祈りのように、呪った。その言葉のままに、彼らが命を落としたと言うのなら。
「僕が…」
「いいえ」
震える手に、シオンの手が重なる。
「言ったでしょう。自身の行いの対価を支払った、それだけの話だって。エリス、君は被害者。大人たちの理不尽に巻き込まれて傷つけられた被害者よ。悪意を以って選んだ誰かが一番悪い。そこは絶対に間違わないで」
「………でも」
「そうね。簡単に切り替えられるなら苦労はしない。でも忘れないで。誰かが誰かの道行を呪うように。誰かは誰かの未来を祝福する。いつだって、君のことは君自身が選ぶ。君は、自由よ」
軽やかな動作で立ち上がり、シオンはもう一度エリスの頭を撫でた。
さあ、と紅色の少女が微笑う。冬の夜に浮かぶ月のように澄んだ笑みで。
「これからの話よ。——君は、どうする?」
※※※
開いた扉の先で、友人が柔らかに笑った。
「——おかえり」
かけられた言葉に、喉が詰まった。胸が苦しくて息ができない。奥歯を噛みしめて込み上げてきたものを押し殺し、アスタはなんでもないように手を挙げる。
「ただいま」
「どうしたの?なにかあった?」
読んでいた本を膝に置いて、エリスが不思議そうに首を傾げる。握ったままだったドアノブから手を離し、ベッドの傍に置かれた椅子に腰を下ろす。
「……もう大丈夫なのか?」
「熱は下がったけど…。え、なに。なんで泣きそうなの」
「何の話だ?」
「噓でしょ。誤魔化す気?」
まあいいけど、の一言で誤魔化されてくれるのだから、甘い奴だなと思う。
アスタも一度気持ちを切り替えるように息を吐いて。
「……タンジーで、アヤメ・クロコスが姿を消した」
「え?」
数時間前。タンジーの中心、教会の跡地で。アヤメ・クロコスは姿を消した。
いつまでたっても建物から出てこない彼女に、さすがに不審に思ったアスタが引き返し、一枚の紙を見つけた。宛名は、ヤフラン・リリタール。そこには記されていたのは、たった一文だけ。
——今までごめんなさい。
周囲に争った形跡も、人の気配もなかった。彼女は自分の意思で姿を消したのだ。
日が暮れ、いくら案内人がいようと安全が保障されない状況に近付いたこともあり、アスタたちは一度戻ることになったのだ。その経緯と、教会でルリアが話したことを伝える。
「ヤフランはアヤメを探すって。彼女が何をしようとしているのかは、わからないけど」
教会の跡地で、まるで罪人の告白のように過去を語った姿を思い出す。
どこまでも凪いだ——昏い瞳を。あれは。
「多分。ずっと決めてたんじゃないかなって、思うんだ」
——清算しなくちゃ、って思ったから。
あれは、たったひとつを定めた人の目だった。覚悟を決めた誰かの眼差しだった。
彼女はきっと、何かを選んだのだ。
「さっきシオンに話したら、任せなさいって」
「え。シオンが、そう言ったのか」
「?そうだけど」
少しだけ目を丸くして、それからシオンは大丈夫よと笑った。仕方ないと言うような、子どもを見守る大人のような、ああ大丈夫なのだと安心できるような、そんな笑顔だった。
ぱちぱちと目を瞬かせて、エリスが何事か考え込む。ルリアかな、と小さく呟く声が聞こえた。
「ルリア?どうしたんだ?」
「いや、シオンが任せてって言ったなら、大丈夫でしょ」
それで。とエリスが目を細めて笑う。
「何か、言いたいことがありそうだけど?」
「——あのさ」
「うん」
何、とアスタを見返す彼の瞳は穏やかだ。何を言ったとしても、彼は受け取ってくれるのだろう。これまでと同じように。当たり前のように。
話すべきこと。今はまだ黙っているべきこと。アスタの願望を彼に押し付けてはいけない。それだけは絶対になしだ。ぐるぐると巡る思考の中で、ふと囁くように思った。
——俺は、お前に胸を張れるだろうか。
その願いがあったから、アスタはここまで辿り着けた。答えを聞いてみたい気もしたけれど、言葉を探すアスタを不思議そうに見ながら、エリスはただ黙って待っている。穏やかな笑みはそのままに。それが、答えである気もした。
その表情に背中を押されるように、アスタは口を開く。
「——コルチカムに、一緒に来てほしい」
「うん」
「ちゃんと、あの日と向き合いたいんだ」
「うん。僕も、ちゃんと向き合いたい。一緒に来てくれる?」
「もちろん」
顔を見合わせて、彼らは笑う。無邪気に、弾むように。まるで、遊ぶ約束を交わす子どものように。
「……それで?」
「え?」
「それだけじゃないでしょ。他にもあるんじゃないの?」
疑問ではなく、確認だった。ぱちぱちと目を瞬かせて、アスタは滲むように笑う。
「お前、本当にすげぇなぁ」
「アスタがわかりやすいだけでしょ」
エリスが苦笑。本当は、病み上がりの彼に伝えるか悩んだのだけれど。
アスタはひとつ息を吸って。
「——戦争が、始まるかもしれない」
エリスが表情を改めた。
「ハイリカムと?」
頷く。別れ際、トラデスティが教えてくれた。多分だけど、と言い置いて。近々、戦争が始まるぞ、と。
「元々緊張が高まっているって話だったね。今、軍は慌ただしくなっている。そこを狙ったのか」
深く、深く息を吐く。それから体をヘッドボードに預けて。
「……軍に召集された?」
「まだだ。ヤフランの話では、そうなったとしてもナルキース中将が止めるだろうって。……けど」
「わかってるよ。そこで良かったって安心できる君ではないもんね」
「………でも、俺は」
戦場に立ったところで、アスタは人を殺せない。命を奪うために、剣を振るえない。できなかった。
誰かを傷つける覚悟もなく、戦場には立てない。それはただの足手まといだ。
だけど。
「言いたいことがあるんでしょ?」
エリスがゆるりと笑う。動作に合わせて、長い髪がさらりと揺れた。
まっすぐに向けられた瞳がアスタを映す。紫の瞳の中で、観念したようにアスタが笑った。
「あのさ、エリス。考えていることがあるんだ」
「うん」
荒唐無稽で、ばかばかしくて、きっと夢みたいな。
「俺たちで、瘴気を消せないかな」
そうまるで、どこかで紡がれる物語のように。
この手で世界を変えることができたなら。
「いいよ。やろうか」
あっさりだった。びっくりするほどあっさり言われた。
「………うん?」
「何その顔。いいよ、って言ったでしょ。一緒にやってあげる。コルチカムに帰ろうってそういうことでしょ?」
あっさり過ぎた。身を乗り出して細い肩を掴む。
「……お前さ、だまされやすいって言われない?大丈夫か?自衛できてる?」
「あのねぇ。手伝ってほしいのか、ほしくないのか、どっち?」
「手伝ってください」
まったくもう、と怒るエリスにばれないようにアスタは胸を撫でおろす。
馬鹿なことをと切り捨てられるとは思っていなかったが、悩むこともなく頷かれるとも思っていなかった。浮かせていた腰を戻し、ずっと考えていたものを言葉にする。
「瘴気がなくなれば戦争がなくなるわけじゃない。わかっている。だけど、きっと、何かのきっかけにはなると思うんだ。これまでのことが全部なかったことになるわけじゃない。でも、瘴気がなくなれば、そんな奇跡が起きたとしたら。…そんな奇跡が、起こせたとしたら」
「うん」
「やって、みたいんだ。誰も、誰かを、傷つけずに済むなら。きっとそれが一番良いって、思うんだ。俺は英雄でも、物語の主人公でもない。——わかってる。それでも」
言い訳のように言葉を重ねるアスタに対して、はは、とエリスが声を立てて笑う。
「いいんじゃない、アスタ。君らしくて最高だ」
その無邪気な笑顔に、アスタは自分の肩の力が抜けるのがわかった。
「やってみようよ。どうせ、これ以上悪くなることはないんだから」
はは、とアスタも声を立てて笑った。
「……一度利用されたアミが、また狙われないとも限らない。それに、お前も……」
生きていてもいいのかなと、エリスは泣いた。瘴気と理不尽に振り回された彼が。アスタの大事な友人がこれから憂いなく生きていくためには、どうしたって瘴気なんてものは邪魔だ。十二年前の実験関係者が全員死亡していても、彼の存在はバレてしまった。緘口令を敷いたとはいえ、噂はどうしたって出回る。怯えながら暮らす友人たちをみるのはごめんだった。
そうだね、とエリスは静かに頷いた。
「僕の存在がバレたら、きっと狙われる。僕が生きている限りずっと怯え続けなきゃいけない。まだ来ていない未来に怯えて、恐れて。そんな生活に疲れたんだ。だから、終わりにしようって思っていた。——でも」
力強い瞳に、昏い澱みはどこにもない。真っ暗な闇の中、二人分の温もりだけを必死に抱えて蹲っていた子どもは、ようやく顔を上げて歩き始めたのだ。
「あの子たちと、君たちと生きるって決めた。だから、僕がこの先を生きていくために、呪いなんていらない」
凍り付いたように冴え冴えとした美貌に、花が咲き綻ぶような笑みが浮かぶ。
釣られて、自分の口元が綻ぶのがわかった。
「そうだな」
「どこかの誰かさんにも、生きて欲しいって言ってもらったからね」
「もう一回言おうか?」
「……ここで照れないのが君だよね。それで?」
エリスが悪戯っぽく小首を傾げて目を細める。
「——勝算はあるの?」
「あるさ。お前だって、気付いているんだろ?」
「ふふ。まあね。ヒントはいっぱいあったから」
ほら、と膝の上の本を指し示す。開いたページには、ひとつの刻印式が記されてた。
——呪い。
祝福と呪い。それぞれの刻印式の差はたった一本の線。呪いと称される刻印式の方が、一本だけ線が多いのだ。
「ジニアの家で話した通りだったね。呪いの刻印式は、祝福と記されていた刻印式に酷似している。父さんがこれをどうやって知ったか気になるけど……」
「推測は正しかった。東の国に乗り込んで、刻印式を消せば瘴気も消える」
「うん。理屈の上ではその通り。想像が正しければだけど。でも、それだと瘴気が消えるまで時間がかかると思う。アヤメ・クロコスの話だと、タンジーでは瘴気を術具で増幅させたんだよね。術具を壊すことで瘴気は消えた。タンジーの瘴気は一日かけて消失した。現在、大陸東部の三分の一は瘴気に覆われている。大本の刻印式を消したところで、すぐに瘴気はなくならない」
だよなぁ、と天を仰ぐ。すぐにどうにかなるとは思っていなかったけど、とため息を吐いて、そうだと気が付いた。
「元々は祝福が呪いへと転じた為に瘴気が生まれたんだろ?なら、呪いを祝福に反転させたらどうだ?反作用である以上、瘴気に干渉できると思うんだけど…」
「あ」
目を丸くしたエリスが、考え込むように唇に手を当てる。
「できる……んじゃないかな。龍脈に直接繋げたら…」
「どちらにせよ、やってみなきゃわからない、ってことだよな」
「その通り。さて、ここで問題。一番大きな問題だよ」
「瘴気の真っ只中に、どうやって行くか、だな」
東の国は瘴気に覆われている。刻印式があるのは、恐らくそのど真ん中だ。分離術式だってどこまで効果があるかはわからないし、起動し続ける霊力があるかも怪しい。瘴気がどれくらいで消えるか、そもそも消えるかわからない以上、往復を覚悟しておいた方が良い。
「その通り。さて、ここで問題。解決策はなんでしょう?」
「あー、『祝福』の刻印式を俺が発動できるか、確認しねぇとな」
「おいこら!僕が行けばいいでしょ!カリプタスの瘴気の中でも平気だったんだから!」
吠えるエリスとぎりぎりと睨み合う。負けた。
「…平気だよ、大丈夫。一人で瘴気の中に突っ込むのはさすがに勘弁してほしいけど、アスタが一緒に来てくれるんでしょ?」
「そりゃ、もちろん行くけどよぉ」
「むしろちゃんと誘ってくれてよかったよ。一人で行きやがったらぶん殴っているところだった」
ぐっと拳を握るエリス。それは勘弁してほしい。手合わせなら喜んでやるが。
「あ、でも祝福の刻印式をアスタが起動できるかは確認して。銀時計に刻まれていた刻印式、あれを完成させよう。シオンか、ジニアに頼もうか。僕じゃ起動できないし、変に影響があっても良くないし」
「起動できない?」
「うん、そう」
トントン、と長い指が胸の刻印式を示す。
「これ、僕の霊脈に直接つながっているから、他の術具を起動できないんだ。同じ刻印式なら、起動した術具に霊力を注ぐことくらいはできるかもしれないけど。だから、他の誰かに起動してもらわないと」
「——わかった」
「気負わないで。アスタが起動できなかったら、ただ刻印式を消すだけでいい。それで充分」
こくりと頷く。そう、そうだとも。世界を変えることも大切だけど、それよりも。
大事な人たちと、この先を生きていく。そのために行動することはきっと、間違いではないだろう。
よいしょ、とエリスがベッドから足を降ろす。そして、本を大事そうに抱えて立ち上がった。
「おい、体調は大丈夫か?」
「大丈夫。言ったでしょ。熱はとっくに下がってるって」
並んで部屋を出て、階段を下りる。
しばらく閉業が続いている店には、現在イヴェールにいる全員が集合していた。
「兄さん、起きて大丈夫なの」
心配そうな顔をするルリアに、エリスが大丈夫、と笑う。彼女の隣のセージは本当かよと言わんばかりの顔をしていたけれど。
「お前ら、どうした?」
「おにいさんたち、ごはんまだだよ?」
尋ねる彼らに、青年たちは顔を見合わせて。
「悪巧み」
全員がきょとんと目を瞬かせる中、シオンがすべてを了解したように笑った。
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