断章 ——アヤメ・クロコス
ティアン・レオントが静かに去っていったことには気が付いていた。
子どものように泣きじゃくりながら、アヤメは始まりを思い出す。
——うちの子になるかい?
親も、家も、食べるものも。なにもなかった女の子に、すべてをくれた人。
大好きだった養父は自分のせいで死んだ。アヤメがいたせいで軍から逃げることもできず。真実も語れず。友人たちを殺した軍に従わなければいけないなんて、どんな気持ちだっただろう。一年前、何故ラティルスがタンジーに現れたのか、アヤメは知らない。知らないけれど、アヤメが彼の背中を押す、最後のきっかけになったことは確かだった。
覚えているのは、剣戟の音と銃声を背に、なぜここにいるのかと驚く養父の姿。けれどすぐに彼は、すべてを了解するかのように頷いて。それから無言で娘を抱きしめると走り出した。
伸ばした手は、届かなかった。
——お父さん‼
それが、最期だった。
そして。ティアン・レオントに言わなかったことがある。話すべきだと決意して、けれど話さない方が良いのかと尻込みしてしまった事実がある。
なぜ、コルチカムで暮らしていたファレノシス一家が軍に見つかってしまったのか。
養父は、優しい人だった。穏やかな声音で話し、朗らかに笑う人だった。とても強くて、かっこよくて。憧れだった。大好きな人だった。自分の名前を呼んでくれる声が、好きだった。あの人と同じ名前を名乗れることが、誇らしかった。だから、名乗ったのだ。自分の名前を。アヤメ・クロコスだ、と。
その相手が、逃走した両親たちを探している軍人だと、気が付かずに。
アヤメがその事実に気が付いたのは、ヤフランに手紙を渡されてからだった。手紙は二通あった。一通はヤフラン宛に書かれた真実を告げる手紙。ヤフランが何を思ってそれをアヤメに見せたのかはわからない。真実を知るべきだと思ったのか、それともアヤメを軍に戻すための材料だったのか。
——ここにいていいのよ。何度だって追い返すわ。
シオンはそう言ってくれたけれど、アヤメは隠れているわけにはいかなくなったのだ。
だって、私のせいだ。全部、全部。私のせいだ。十二年前、私が名乗らなければ彼らは見つからなかった。一年前、アヤメが余計なことをしようとしなければ、クロコスは死なずに済んだのかもしれない。
ヤフランに渡されたもう一通の手紙は、アヤメに宛てられた遺書だった。角ばった文字で綴られたそれは、こう締められていた。
どうか、自由に。
——ええ、父さん。私は、自分の意思で、こうすることを選んだわ。
私が奪ってしまったすべての命に報いなければならない。
これは復讐か。そうだ。そうだとも。復讐だとも。
私のせいで。——お前らの、せいだ。
決意を抱いてアヤメは軍に戻った。父が死ぬ原因になった奴らすべてを引きずり堕とすのだと、そう決めて。
今回の件に関わった奴らも。十二年前の件に関わった奴らもすべて仇だ。
本当は、仇を炙り出したら、瘴気をバラまいてやろうと思っていた。同じ苦しみを味合わせ、地獄に堕としてやると、そう決めた。
それが仇討ちだと。アヤメにできる最大限の償いだと。まさか、亡くなっているとは思わなかったけれど。
ああ、でも。本当は。
そう、本当は。
——そう。君は、帰りたいのね。
ええ、シオンさん。そうよ。私は、帰りたかった。
父の元に、家に、帰りたかった。一度だけでも。
おかえりと出迎える声はなくとも。
もう二度と、返る声はなくとも。許されることはないとしても。
帰りたかったのだ。
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