第七章 花が降り注ぎますように 2
アスタとアヤメは、交わす言葉もなく、崩れかけた建物の中を進んでいた。
先に無言を破ったのは、アヤメの方だった。
「分離術式がどういうものかは知っている?」
「ああ、シオンに聞いた」
アミに着けられていた術具に刻まれていた刻印式だ。
「そっか。あの刻印式を刻んだ入れ物を使うことで、瘴気を採取することが出来る。同じ要領で、瘴気の中でも安全に活動できるような術具を開発することが、私の仕事だったの」
「……知らなかった」
「秘匿されていたもの。当然よ。瘴気という脅威を世界からなくす。私の研究は、そのためのものだと思っていた。信じていた。——でも、一年前。ある計画に協力するよう通告が来たの」
「タンジーの話か」
「そうよ。思い出話。聞いてくれる?」
アヤメが足を止めた。
思い出話と彼女は言ったが、その表情はまるで懺悔でもするかのようだった。
ちらりと背後を伺う。外からは離れていて、声が聞こえる心配はないだろう。
「……どうぞ」
「ありがとう。——タンジーで瘴気を収めた入れ物を割り、増幅用の刻印式で町全体に瘴気を広め、敵を殲滅させる。目的は敵の殲滅。それから、増幅用の刻印式に、どれくらいの効果があるかを調べること」
増幅用の刻印式。十二年前、コルチカムでも使われた術具だ。
「発生地点から遠く離れたら瘴気が薄まることはわかっていたから、セントラルには影響がない。つまり、自分たちは安全。——それが計画の内容よ。最低でしょう」
嘲りと、侮蔑を込めて、吐き捨てるように。
「だけど、軍内部に潜り込んでいた内通者によって、予想より早くテロが起きてしまった。色んな情報が交錯し、計画は強行された。あのね、ティアン。あの日、私はここに来たのよ」
「タンジーにいたのか⁉」
「ええ。計画を止めるためにね。増幅用の刻印式が発動する前に入れ物を壊すか、増幅式を壊してしまえば、被害は最小限で済む。そう思ったの」
ひとつ頭を振って、少女は続ける。でもね。
「辿り着いた時にはもう遅くて、術具は発動してしまっていた」
「あの瘴気は恐ろしいほどの速さで広がっていた。増幅式の影響だったのか」
「そして、あの日ここには父も……ラティルス・クロコスもいた。父はヤフランと同僚、つまり暗部に所属していたから、計画のことも知っていたのね。父は私を見て驚いていた。それから私を追い返して——あとはあなたの知る通りよ」
泣いているような笑みを思い出す。
——君たちは、間違えないでね。
あの言葉は、どういう意味だったのだろう。
「全部終わってから、ようやく理解したわ。私に計画が知らされたのは、ラティルスへの牽制だった。私は父の人質だったんだ、って」
「……人質?なぜ、そんなものが必要だったんだ」
「十二年前のことは、エリス・ユーフォルビアから聞いているんでしょう?——瘴気を利用して敵を殲滅する。その計画は十二年前からはじまっていた。それにいち早く気が付き、軍に攫われた子どもを助け出し、コルチカムでファレノシス一家を匿ったのがラティルスだったからよ」
「——え?」
はっと顔を上げた。今何て言った。
ファレノシス。ファレノシスと言ったか。軍に攫われた子どもはエリスだ。当時四歳だったエリスを軍人が攫ったのだと、本人から聞いた。その後にコルチカムに移ったのだと。
ひら、と視界の端で淡い色が舞った気がした。目の前の景色を塗りつぶすように、蒼が広がる。
どこまでも晴れ渡った、高く、遠く、青い空。淡い色の花。きらきらと輝く水面。
閃くように、鮮やかに蘇る記憶の中、はじめましてと子どもがぎこちなく笑う。
霧が晴れるように。綻んだ景色が繋がるように。不思議なほど鮮明に、記憶の奥に沈んでしまっていたはずのあの子の笑顔を思い出す。
——レン。レン・ファレノシス。
「………ああ」
くらりと眩暈がした。酸欠を起こしたように視界が霞む。天地が逆さまになったような浮遊感。右手で顔を覆い、反対の手を崩れた壁に添えて倒れそうな体を支える。
夢を見るのだ。瘴気から逃げるあの子に、必死に手を伸ばす夢を。
そうか。
あの子は。
「ティアン?どうかした?」
「……悪い。ちょっと」
奥歯を噛みしめて、零れそうになる嗚咽を殺す。ぐっと拳で目尻の辺りを拭った。
——よかった。
彼の半生を思えば、その言葉は正しくないのかもしれない。だけど、アスタは——ティアン・レオントは、心の底から思った。よかった、と。あの子が、エリスが生きていてよかった。
けれど、浸るのはあとだ。噛みしめるのは、全部あとだ。
アヤメは不思議そうに首を傾げている。エリス・ユーフォルビアが誰なのかをとっくに気付いていた彼女は、アスタも当然知っているものだと思っているのだろう。ティアン・レオントとかつてのエリスが友人だったことをアヤメが知っているかはわからないが、エリスの本名についてはアスタも教えられている と。
うるさい心臓を宥めながら、平静を取り戻した思考の隅で思う。
——本人から聞きたかったな。
いや、本人から告げられていたら、多分混乱の末に何を口走っていたかわからない。それは。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないな」
「は?」
「……ああ、悪い。大丈夫だ、続けてくれ」
アスタの態度について不思議そうな顔をしながらも、アヤメは何も追及しなかった。
「ティアン、あなたの父君も一緒だったはずよ」
「……父が?」
「ええ。あなたの父君と、ラティルスがファレノシス夫妻の一人息子を助け出し、夫妻と共にコルチカムへと居を移した。一年後、軍に襲撃されてからは、あなたの知る通り」
ファレノシス夫妻は殺され、瘴気が放たれ、息子は独りで彷徨うことになった。
拳を握りしめた。吐き捨てそうになった怨嗟を舌打ちに変える。
「一人息子が攫われたのはなぜだ?その後に軍に襲撃されたのは口封じか?」
「攫われたのは、当時貴重だった刻印士であるファレノシスを従わせるためよ。夫妻はとても優秀だったから、どうしても軍は囲みたかったの。それから、採取した瘴気を使った実験に利用するため。彼に瘴気を刻むことで、愛息子を助けるために、浄化用の刻印式の開発をさせようとしたの」
息を吐く。胸に渦巻くのが、もはや怒りなのか憎悪なのか嫌悪なのかわからない。
ただ、心からこう思った。——地獄に堕ちろ。
「——本当に、腐ってる」
「軍に襲撃されたのは、口封じもあるけれど、浄化用の刻印式をファレノシスが開発したと気が付いたからだそうよ。瘴気を刻まれた息子が生きている理由は、それしかないだろうと推測されたの」
——あいつらはね、瘴気を放って、死にたくなければ浄化用の刻印式を使えと言ったんだ。あのガキが生きているのだから、ある筈だって。
僕のせいだと泣いたエリスを思い出す。
そして。
父親の影に隠れるように立っていた、ひとつ年下の男の子に思いを馳せる。守るよと約束した、大事な友人。
「ファレノシス夫妻は殺害され、息子とあなたの父君は行方不明になった。ラティルスは軍に捕らえられ、コルチカムは瘴気に呑まれた。そして、真実に蓋がされてしまった。唯一真実を知っていた父が、私を人質にされて、沈黙を貫かなければいけなくなったから」
アヤメが穴の開いた天井を見上げる。疲れ果てて空を仰ぐのに似た仕草で。
「ファレノシス一家が亡くなったから、浄化用の刻印式を軍は自分たちの手で開発しようとしたの。だけど、十二年かけてもそれはできなかった。……できなかったのよ」
凪いだようなその声。昏く澱んだその瞳。
知っている、と思った。
「話を戻すわ。私が真実を知ったのは、タンジーの一件の後よ。ラティルスが死んでしまった後、私は軍に戻らずに、シオンさんに拾ってもらった。そして、私を探しに来た軍人がイヴェールを襲撃した」
「は⁉」
昏く澱んだ瞳に光が戻った。凪いだような声がわずかに弾む。
「シオンさんってすごいのよ。簡単に全員伸しちゃったんだから」
「はぁ⁉」
脳裏にふふ、と艶やかに笑う紅色の少女の姿が浮かぶ。いやまあ、うん。あの人ならできる気がする。
「でも、その時にヤフランに手紙を見せられたの。父の手紙。十二年前からの出来事が全部記されていた。だから、私は軍に戻ることにした。清算しなくちゃ、って思ったから」
「清算」
「そうよ。終わらせなければいけないって思ったの。トレイトに倣って言うのなら、それが正しいと信じたから」
「アヤメ、お前は…」
「分離式に手を加えて、瘴気の影響を受けずに動くことができる術具が完成した。そう上に報告したの。上はそれを信じた。……いいえ。どっちでも良かったのでしょうね。責任を負うのも、危険な目に合うのも、自分たちではないから。私もわかっていた。だから利用したのよ。瘴気をバラまこうとする馬鹿が出てくる前にって。焦っていたのは私も同じね。結果、何の関係もないあの子を巻き込んでしまった」
自嘲するかのように少女が笑みを零す。どこまでも冷え切った声がティアンの名を呼んだ。
「あなたは、コルチカムで死亡したエーデルワイズの息子ではないかと疑われていたの。ラティルスが誤魔化していたけれど、知られるのは時間の問題だった。そして、あなたが瘴気について調べていたことにも気が付かれていたから、実験に巻き込まれたのは口封じも兼ねて。瘴気内の滞在実験ではなく、浄化実験だと偽ったのは、あなたの反発を考えてでしょうね」
なるほど、それが本当ならアスタは随分と面倒な存在だっただろう。
消しておきたい過去の関係者。暗部に手を伸ばそうとする厄介者。けれど、軍の英雄として名が知られている。
ティアンがアミを連れて逃げ出したことは想定外だっただろうが、連中にとっては好都合だったのかもしれない。これで心置きなく始末することができる、と。
気が付かないうちに自分に向けられていた悪意に、ぞっと背筋が凍るような感覚を覚えた。
「でもね、ティアン・レオント。あなたなら、きっと巻き込まれてしまった子どもを守ってくれる。そう思ったの。腕輪は保険として付けてもらわなくちゃいけなくなったけれど、本当だったら何事もなく終わる筈だった。あなたの霊脈を傷つけることもなく、あの子が危ない目に合うこともなく。……言い訳でしかないわね。ごめんなさい」
ふう、と息を吐いて。切り替えるようにひとつ頭を振って。
「昔話は終わり。長話になったわね。行きましょう」
歩き出した彼女の背中を追う。
アヤメ・クロコスが語った話は、すべて本当のことだろう。だが、彼女はなにかを話さなかった。そんな気がする。直感でしかない。そんな気がするだけ。だけど。
不吉な予感にかられて、アスタは口を開いた。
「……なあ」
「なにかしら」
「お前は、なんでここまでしたんだ?」
清算。彼女はそう言った。終わらせなければと思ったのだと。だが、それだけで、こんな一歩間違えれば命を狙われるような計画を実行できるだろうか。何が彼女を突き動かしたのか。正義感か。それとも復讐心か。
違う、と何かが否定する。
そうだ、同じ貌をしていた。アスタは、あの昏く澱んだ瞳を知っている。
「——言ったでしょう。それが正しいことだと思ったからよ」
「アヤメ、お前は」
「それだけよ。……それだけなのよ」
踏み込もうとしたアスタを拒絶するように、アヤメは顔を背ける。何を言えばよかったのかもわからないまま、アスタは言葉を飲み込んだ。
沈黙が落ちる。二人分の足音は、朽ち果てた教会の奥で止まった。
壁も天井も崩れてしまって、元々どういう場所だったのかもわからない。穴が開いた天井から光が差し込んでいる。地面には粉々に砕かれたガラスが散っていた。
「……ここね」
少女の声には、悲しみだけでも懐古だけでもない、万感の思いが込められていた。
一年前、ここでラティルス・クロコスは命を落とした。
そっと膝を折ったアヤメが、抱えていた花束を地面に置いた。しゃがみ込んだまま、アヤメは胸の前で手を合わせた。
彼女の後ろで、アスタも目を伏せ、黙祷を捧げる。
交流はあまりなかった。思い出せることも少ない。穏やかに話す人だった。朗らかに笑う人だった。悲しそうな眼をした人だった。どこか申し訳なさそうな顔をしている人だった。
どんな思いでアスタのことを見ていたのだろう。どんな気持ちで、エーデルワイズの名を名乗らない方が良いとアスタに伝えたのか。
聞きたいことがたくさん出来たのに。父の話を出来たかもしれないのに。
すべてはもう、今更だ。死者は何も語らない。
——どうか、安らかに。
と。
引きつれるような嗚咽が聞こえた。
「——お父さん」
小さな小さな声が。か細く震える声が、呼んでいる。
細い肩が揺れているのが見えて、アスタは無言で踵を返した。
建物の中を戻り、外に出る。門を潜ると、ジニアと談笑していたトラデスティがおやと片眉を上げた。
「早かったね。一人かい?」
「ああ、先に出てきた。——何かあったのか?」
場が乱れている気がして尋ねると、トラデスティとジニアが顔を見合わせて肩を竦めた。
そして声を合わせて。
「何も」
絶対に嘘だ。
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