第七章 花が降り注ぎますように


 白を基調とした花束を抱えて、アヤメ・クロコスがぺこりと頭を下げた。


「こんにちは、ティアン・レオント。急に呼び出してごめんなさい」


 彼女の後ろでは、ヤフラン・リリタールが居心地悪そうに立っている。

ひとりで行こうとしていたところを見つかって、ヤフランが同行してきたのだとアヤメが苦笑する。アスタの方も車を出してくれたジニアが付いて来てくれているので、似たようなものである。

 アヤメとはコロナリアで合流した。タンジーは現在、ハイリカムの残党が潜んでいるため、安全を確保するためには案内人が必要なのだという。

 で。その案内人はというと。


「……あんたか」


 じとりとしたアスタの視線を受けて、赤みがかった茶髪の男性が皮肉気に唇を吊り上げた。

 トラデスティ。オレアンダーの頭領である。


「保護者同伴かい?」


 揶揄う様な言葉に、ジニアの方をちらりとみて、アスタは首を傾げる。


「保護者なのか?」

「そうだな」

「そうか」


 保護者。その言葉の響きに少し照れる。もう一度、噛みしめるように呟く。そうか。ちょっと嬉しかった。

 詰まらなそうに肩を竦めていたトラデスティが、ふと、何かを探すように視線を動かした。


「エリスならいないぞ」


 熱が下がり切らなかったこともあるが、それがなくてもエリスは来なかっただろう。アスタが付いて来てと頼めば別だったかもしれないけれど。


「だろうね。彼は大丈夫だった?」

「当たり前だろうが」

「へえ?」

「おいこら、ギスギスすんじゃねぇよ。乗れ」


 運転席のドアを開けながら、ジニアが呆れたように声を上げる。アヤメとヤフランはすでに乗り込んでいた。くすくすと笑いながらトラデスティが助手席のドアを開ける。なんでお前がそこなんだよとぼやきつつ、アスタは後ろの席に乗り込んだ。

 ヤフランを挟んだ向こう側で、アヤメが花束をそっと膝の上に置いていた。


「エリス・ユーフォルビアはお留守番なの?」

「ああ。用があったのか?」

「うんん。あの、彼と……あの子は元気?」

「元気だぞ。今はあの双子と一緒にいる」

「そう。——良かった」


 アヤメが噛みしめるように笑う。わずかに声を震わせて、小さく息を吐いて。気が抜けたように肩を落として。

 安堵を表す彼女に。知り合いだったのか、と聞こうとして、トラデスティとヤフランの存在を思い出して口を噤む。代わりに違うことを尋ねることにした。


「軍の様子はどうだ?」

「表面上は落ち着いているけれど、上は阿鼻叫喚ね。トレイトが調査結果を憲兵に提出したの。今回の件だけじゃなく、一年前、十二年前、その他諸々ね。叩けば叩くほど埃が出るんだもの。上の方でふんぞり返っていた連中、保身と出し抜き合いで大忙しよ」

「仕事しろー」


 運転席のジニアが茶々を入れる。ぶは、と助手席のトラデスティが噴き出した。


「私たちも今待機中でね。そのお陰で外出できたんだけど」

「キリカ・スターチ―は?」


 助手席で小刻みに震えていた背中がぴくりと跳ねる。アヤメはちらりと前へと視線を向けて、アスタに戻した。


「調査中みたいね」


 多分だけど、と彼女は言い置いて。


「トラデスティ、あなたの言ったことは本当だと思ってる。ねえ、ヤフラン」


 真ん中にいたヤフランがそうだなと同意。


「本当だとしてもおかしくはない。それが、彼女を知る者としての感想だ。レオント、お前は彼女と会ったことあるか?」

「ない。トレイトの方は一度だけあるけど」

「そうか。彼女は目的のためには手段を選ばないところがあった。数年前の遠征任務では一般人を巻き込む作戦を決行したこともある。問題にはなったが、その分結果を出したことで相殺された。犠牲を多く出す作戦だろうと、それが必要であるのなら迷わない。彼女はそういう人だ」


 アスタはキリカ・スターチーという女性をよく知らない。あの日、オレアンダーでみせた姿しか知らない。

 ——私たちは、私たちの国の未来のために戦ったのだ。

 キリカが善人だったとは思わない。未来のためにと、その言葉が本当だったのか、嘘なのか。それは本人にしかわからない。

 だけど、取った方法は間違いだった。結果論かもしれないけれど、多くの人が亡くなったその選択を、アスタは正しかったとは思えない。


「ナルキース中将に影響はないでしょうね。中将は十二年前の件に直接関与していたわけではなかった。実際の場にいたのは当時の上官の命令だったのだと言ったらしいわ。その裏も取れたそうよ。調査結果を踏まえて、過去の一件に直接関わっていたわけではないことと、今回の実験を止めようとした側であることを考慮して、お咎めもなければ功績もなしってところで落ち着くんじゃないかしら」


 エリスの悲痛な叫びを思い出す。疲れ切った声を思い出す。

 その場にいたけれど、なにもしなかった人。危害を加えることも、助けることもなくただ見ていただけの大人。

 ずるいなぁと思った。傍観者だって、加害者と同じだろうに。


「……ナルキース中将以外の関係者や、コルチカムに来た奴らは?」


 アスタの質問にアヤメがさっと顔色を変えた。思いがけない反応に首を傾げる。


「知ってたの。……いいえ、彼に聞いたのね。——今回の一件、私の目的にはそいつらを探すことも入っていた。トラデスティと、トレイトが調べてくれたの」


 トラデスティが関与していたことに驚く。協力者だとは聞いていたが、エリスのことはどこまで知っていたのだろうか。アスタの疑問を見透かしたように、トラデスティが振り返る。


「安心して。エリスのことは何も聞いてないよ。聞く気もない。聞くのなら、本人に聞くさ。まあ、彼女に聞き出そうとしたとしても、何も教えてくれなかっただろうね」

「当然よ。…あのね、ティアン・レオント。関係者の大半は割り出せた。でも」


 関係者とは、エリスに刻印式を刻んだ奴らや、コルチカムで実験を始めた奴らのことだろう。

 なんとか一発くらい殴れないかなと思いながら続きを待つ。だが、アヤメはその先を言い澱んだ。

沈黙を咎めるように、がたんと車体が揺れる。衝撃にバランスを崩したアヤメを支えながら、ヤフランが続きを引き取った。


「関係者の大半は、すでに死んでいた。コルチカムに足を運んだ奴らは、例外なく全員死亡している」

「——は」

「当時まだ若かった奴らまで、全員残らず、だ」

「……まさか。死因は?」

「事故、病気。様々よ。まるで……いいえ、なんでもないわ」


 アヤメは言葉を切ったが、言おうとしたことはわかった。

 まるで、何かに呪われたみたいに。

 ざまあみろと思う。罪に問いたかった気持ちはあるが、死んでしまったのなら仕方がない。

 ——せめて、惨たらしく死んでいてくれ。


「トレイト・カーパスは大丈夫なのか?上層部を完全に敵に回しただろう」


 運転席からジニアがミラー越しに視線を投げた。


「大丈夫じゃないわ。功績もない彼が提出した報告書の信憑性を疑う声が出ている。それに、今はまだ自分たちのことでバタバタしてるけど、そう遠くない内にトレイトへ報復に出るでしょう。彼は後ろ盾を全て敵に回してしまったから、守る人はいない」

「それから、ルード・リンネリスがトレイトの直属に異動した。キリカの下から外されることは決まっていたが、トレイトの下につくと決めたのは本人らしい。今が荒れていてよかったな。でなきゃ、今頃悪意と好奇心にあふれた噂の格好の的だった」


 出てきた名前に、ハンドルを握るジニアを伺う。銀髪の下で、形の良い眉が顰められるのを見た。

珍しい表情だった。あいつなら大丈夫だろうと信じるような、けれど心配を隠しきれていないような、そんな表情だった。正しく、親が子を案じる顔だった。


「……わかっていたはずなのに、トレイトはどうしてこんなことができたんだ」


 一度だけ話した少年。町に行きたいのだと譲らず、仕方なく同行した。あの時は、自分の置かれた環境に戸惑って、未来を不安に思う、どこにでもいる普通の男の子だったのに。


「自分が正しいと信じたことに、胸を張りたいのです——だそうよ」


 オレアンダーに来たトレイトなら、言いそうだと思った。

 まっすぐな目で。揺るがない声で。

 わずか十四歳の子どもが、大人たちを相手に行動を起こした。若いが故の行動力と、正義感。恐れを知らない、勇気と履き違えた蛮勇。口さがない人たちはそう言うだろう。

 ならば黙っていれば良かったのか。知らないふりをすれば良かったのか。

 アスタにはできなかった。彼もきっと、そうだったのだろう。

 彼が信じる正しさを、貫ければいいと、心からそう思う。


「おそらくだが、ナルキース中将が後ろ盾に立つだろう。当面はそれで何とかなるはずだ。だが…」

「なんだよ」

「……いや、なんでもない」


 言いかけてやめるな、と重ねて尋ねようとして、おい、と前方から声が飛んできた。同時に車が停止する。


「着いたぞ。タンジーだ」


 車から降りる。車は、タンジーに入る手前で停まっていた。

 目の前にはトンネルがある。タンジーに続く唯一の道だ。一年前、一度だけ通った道だった。


「ヤフラン、ここで待っていて。車を放置するわけにはいかないから」

「……わかった。気を付けろ」


 軍服を着たままのヤフランを残し、車を離れる。

 先頭を案内役のトラデスティが、最後尾をジニアが担い、トンネルを歩く。二人の間に挟まれながら、アスタは前を歩くトラデスティに声を掛けた。


「そういえば、お前はハイリカムの残党と協力しているのか?」

「手を組んでテロを起こしているのかってことかな?まさか。そんな無駄なことはしないさ。ただ、頭領になってから、ハイリカム出身の行くあてのない人たちを保護していたんだ。一部が過激派なんてやっているせいで、勤勉な軍人さんたちはハイリカム出身ってだけで捕まえに来るからね」


 肩越しに振り返り、トラデスティが意味深に笑ってみせるが、アスタは肩を竦めて返す。ここに来るまでの車内でも彼はアスタに対してちくちくと刺してきていた。理由はわからないが、向けられている感情はわかるので、アスタはかわし続けている。


「……なんで彼に対して当たりが強いの?」


 アスタの隣を歩くアヤメが不思議そうに首を傾げる。小さく噴き出す声が最後尾から聞こえてきた。


「八つ当たりだよ、八つ当たり。それだけ」


 どこか吐き捨てるようにそう言って、トラデスティは足を早める。後ろから伸びてきた手が、アスタの肩をぽんぽんと叩いた。振り返ると、ジニアが憐れむような、微笑ましそうな、懐かしいものをみるような目で、先を歩く赤みがかった茶色の尻尾を見ていた。


「……ジニア?」

「そろそろトンネル出るよ。そこの二人、急いで。日が暮れるとまずいかもしれないから」

「おう。行くぞ、アスタ」

「あ、うん」


 トンネルを抜けると、そこには廃墟と化した町が広がっていた。原形を保っている建物はほとんどない。踏み荒らされ、なぎ倒され、打ち捨てられた町。

 たった一年。あの戦争から、たった一年で、こんなに。


「お目当ての場所はタンジーの中心だよ。僕から離れないように…」


 言いかけた言葉が遮られた。とすん、とアスタの足に何かがぶつかる。その後、何かが落ちる音が。

見下ろすと、地面に座り込む男の子がいた。ぱたぱたと駆け寄ってきた女の子が隣にしゃがんだ。


「お兄ちゃん、だいじょう……」


 助け起こそうとしゃがみ込んだアスタを見上げて、女の子がぱちぱちと目を瞬かせる。お兄ちゃん、と呼びかけたということは兄妹なのだろうが、髪色や顔立ちはあまり似ていない二人だった。

 アスタの手を握って、二人の子どもが立ち上がる。こちらを牽制するように睨みつけながら、妹を背中に隠す兄の姿に、エリスを思い出した。

 周囲に大人の気配はない。この子たちはどこから来たのだろうか。

 トラデスティが膝を折って子どもたちと目線を合わせる。自然な動作だった。


「君たち、ここで何をしているのかな?」


 ひょこ、と兄の背中から顔を出した妹がおずおずと答える。


「あの……お姉ちゃんを、探しに来たの」

「お姉さん?一緒に探そうか?」


 うんん、と女の子が笑って首を振る。


「明日、また探しに来るから。そろそろ帰らないと、日が暮れる前におうちに着けなくなっちゃう」

「——そう。気を付けてね」

「うん。ありがとう。ほら、お兄ちゃん、帰ろう」


 兄の手をぐいぐいと引きながら、兄妹が帰っていく。送らなくていいのかと尋ねようとしたアスタに、

トラデスティが黙って首を横に振る。


「ハイリカムの子だよ。心配だけど、俺たちが関わる方がややこしくなる。——急ごう。日が暮れる」

「そうね。急ぎましょう」


 そこから先は、誰かとすれ違うこともなかった。

 辿り着いたのは町の中央近くにあった建物。教会だったのだろう。石造りの壁が崩れ、ステンドグラスが散乱しているが、建物と呼べるだけの形は保っている。

 見覚えがあった。一年前のあの時、ラティルス・クロコスが消えた場所。瘴気に染め上げられていた神への信仰の象徴。軍の連中は何を思ってこの場所を起点にしたのか。考えることもしたくない。

 半分に割れた門の前で、トラデスティとジニアが足を止めた。


「俺たちはここまでだ」

「崩れないとは思うけど、長居はしないようにね」


 え、と足を止めたアスタの服の袖を、行きましょうとアヤメが引く。


「けど……」


 後ろ髪を引かれて振り返るアスタに、大人たちはひらひらと手を振った。


「いってらっしゃい、気を付けて」







 ※※※


「——で、君はどうして残ったの?」


 ひらひらと振っていた手を降ろし、トラデスティは傍らを伺う。ジニア・リネアリスがこの場に残ったのは予想外だった。てっきりあの青年と一緒に行くと思っていたのだが。


「当たり前だろ、無粋だろうが」

「ふーん。僕に聞きたいことでもあるのかと思ったけど」


 銀髪の彼が、意味深に寄越した視線には気が付いていた。水を向けてみると、彼はあっさりと頷く。


「ああ、それはあるぞ」

「あるんだ……。なに?」


 お互い、手を伸ばせば触れられる距離で向き合う。


「名前。——お前、名前は?」

「トラデスティ。自己紹介しなかったっけ?」


 彼が聞きたいのが家名の方だと気が付いていながら、トラデスティははぐらかした。教えてもらえるとも思っていなかったのだろう、ため息ひとつで引き下がったジニアは、胸ポケットを探るように右手を伸ばした。それから、はっとしたように舌打ちを零す。


「どうしたの?」

「いいや、なにも。……お前はあの時、こう言ったな。キリカが引き金を引くところを僕たちは見たのだ、と」

「あー、言った、かな?」


 言ったかもしれない。あれで結構焦っていたから、よく覚えていないけれど。


「——お前に、親類はいるか」


 漏れそうになった声を、唇を噛んで押し殺す。

 瞼の裏で、誰かが笑ったような気がしたけれど。それはすべて置き去りにしてきたものだ。

 トラデスティは、エリスみたいには出来なかったから。


「……どういう質問かな」

「答えたくなければいい。ただの興味……感傷だ」


 がしがしと、骨ばった手が銀髪を掻きまわす。黒色の瞳をわずかに伏せ、形の良い唇がほんのりとした笑みを浮かべた。大切なものに思いを馳せるように。

 真意を見抜こうとじっとジニアを見ていたトラデスティだが、ため息とともに視線を外した。


「いるよ。弟が」

「——そうか」


 滲むようにジニアが笑みを浮かべる。噛みしめるようにもう一度呟いた。そうか。

 トラデスティは困ったように笑う。


「知っているの?」

「ああ。友人だ」

「……そう」


 感極まったように、トラデスティが空を仰ぐ。けれど、それ以上は何も言わなかった。

 随分と前に離れたきりの肉親の顔を、トラデスティはもうはっきりと思い出せない。声も表情も、すべては霞がかったように朧で、景色に溶けるように綻んだままだ。


「……昔話でもしたいところだが、そんな場合じゃないみたいだな」

「——そうだね」


 不気味な程に揃った足音に振り返る。建物と道の境目もわからない程に崩れた町を、瓦礫を踏み越えてこちらに向かってくる一団がいる。さすがに軍服は着ていないが、歩き方が軍人のそれだ。彼らはもう少し、隠すと言うことを覚えた方が良い。

 彼らの相手は、別にトラデスティ一人でも問題はない。アスタとアミに気が付かないように片付けることだって出来るだろう。アスタの方は察するだろうが。そもそも軍が浮足立っている時期にオレアンダーを離れたのだって、こういう連中をおびき寄せることが目的だったわけだし。

 今回の件で不利益を被ったやつらが、報復行為に走ることができる相手は多くない。トレイト・カーパスやナルキースでは露骨すぎる。現状オレアンダーに攻め込む口実はない。となると、トラデスティか、アヤメ・クロコス。もしくはヤフラン・リリタールか、軍を離れているティアン・レオント。つまりは今この場に揃っている者たちだ。

 トラデスティが彼らと接触したとあれば、必ず動く。一度返り討ちにすれば、時間は稼げるだろうと思っていたのだが。


「……ええと」

「なんだ?」


 隣で呑気に屈伸している男を見下ろす。こきこきと首を鳴らし、それから大きく伸び。呑気だ。あくびまで零している。焦れとは言わないが、こう、緊張感がない。


「何してるの?」

「準備運動。お前、わかっていて誘い出しただろ」

「まあ、うん。……もしかして君、このために残っていた?」

「さあ。どうだろうな?」


 ばしっとトラデスティの背中を叩き、銀髪の男が笑う。

 いつかはすぐそばにあった、けれどもう忘れてしまった、誰かによく似た笑顔で。


「お前に会うことがあったらよろしくって、言われてんだよ」



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