第六章 それでも空は晴れるから 5
人気のない静かな通りに、絶え間ない雨音が満ちていた。
ぱたぱたと降り注ぐ雨が傘を叩く。小柄な身体には不釣り合いな大きさの傘を抱え直し、最近エリスと名乗り始めた子どもは分厚い雲が覆う空を見上げた。傘の先から滴る雨水が瘦せた頬を流れる。
小遣い稼ぎのお使いの帰り。受け取った薬草を濡れないように抱える。早くオレアンダーに戻らないと。今日エリスにお使いを頼んだのは、赤みがかった茶髪の年上の少年で、強面ではあるが何くれとなくエリスを気にかけてくれている。
戻らないといけないと、わかっているのに。
子どもの足が止まる。傘の中に隠れるようにして、誰もいない薄暗い通りの端っこにしゃがみ込んだ。
子どもの足では遠い場所へのお使いだったが、歩けば着くので問題はない。オレアンダーは子どもにだって優しくはないから、生きていくためには何だってするしかない。水も食料も、生活するために必要なものも、全部自分の力で手に入れるしかないのだ。屋根がある場所で眠れるだけ、エリスは運が良いのかもしれない。命の危機は常に感じているけれど。
長い髪で顔を隠して、わざと汚れた格好をして、誰のことも信用しない。近寄ってくる足音は、自分を害する誰かかもしれないと神経を張り巡らせているうちに、いつしかエリスは誰の気配もないところでしか眠れなくなってしまった。
ぎゅうと身をかがめて、子どもは唇を噛みしめる。目を閉じれば嫌になるほど鮮やかに、あの日が蘇った。霧と悲鳴、誰かが誰かを呪う声。もうこの胸には、暖かな記憶は残っていない。
憎悪と痛みの記憶が、それ以外の思い出すべてを塗り替えてしまったから。
毎日夢を見て、目が覚めて。時を重ねて、日々を積み上げて、あの日が少しずつ遠くなっても。忘れない。忘れるわけにはいかない。あの日振り抜いた小刀の感触を覚えている。胸の傷が疼くたびに、怒りが渦巻く。新鮮な憎しみを持って歩き出せる。
レン。いきなさい。
そう背中を押されたから走った。そう願って貰ったから今も生きている。
自分のせいで、父が死んだ。母が死んだ。大勢の人が巻き込まれた。それでも自分は生きているから、せめて受け取った思いは果たさなければいけない。
生き残って、しまったから。
だけど、一度蹲ってしまったら立ち上がれない。立ち上がって歩き出すための理由がないから。何もない。誰もいない。帰ろうと、声を掛けて、手を差し伸べてくれる人はもういない。
ひとりぼっちだ。
——つかれた。つかれたなぁ。
生きていても、いいのかな。
と。
雨音に紛れるように、誰かの声が聞こえた気がした。弾かれたように顔を上げて立ち上がり、傘の柄を握りしめて辺りを見回す。人の影はない。声は、角の向こうから聞こえてくるようだった。
少し迷って、それでも声の方へ踏み出したのは、それが幼い子どものもののように聞こえたからだ。
すぐに逃げられるように構えながら、恐る恐る角を覗く。ぎょっと紫の瞳を見開いた。
「えっ」
降り続く雨から逃れるように体を寄せ合って震える、己よりも幼い二人の子どもがそこにいた。
警戒心をかなぐり捨ててぱたぱたと駆け寄り、当たり前のように傘を差しかける。
「どうしたの、大丈夫?」
そっくりな相貌がよく似た動作で見上げる。多分、男の子と女の子。きょうだいなのだろう。やせ細った身体、汚れて所々破れた服。自分と同じだ、と直感した。
薬草を入れた袋を脇に抱え、空いた手を二人に差し伸べようとして、躊躇うように握りしめた。
ダメだ、と何かが囁く。彼らに出来ることなんて何もない。自分一人、必死で生きているのに。精一杯なのに。
わかっているのに。
消えてしまった記憶の片隅で、誰かが手を差し伸べるのだ。帰ろう、と。
青空を背にした誰かの顔は見えない。この記憶の欠片も、いつか失くしてしまうのだろう。
「——ほら」
今度こそ、手を差し伸べる。いつか誰かが、そうしてくれたように。
きょとんとよく似た表情で目を瞬かせる子どもたちと目を合わせ、エリスは口角を上げて、表情をうんと柔らかく和ませて、笑ってみせた。随分久しぶりに動かした表情は、どこか硬かったかもしれない。
「おいで」
じれったいほどの時間をかけて、ふたつの小さな手がエリスの手に重なる。
大きな傘に三人身を寄せて、オレアンダーの拠点へと足を進める。自分よりも小さい歩幅に合わせているから、自分一人で帰るよりも倍の時間がかかるかもしれない。それでもよかった。
ねえ、と繋いだ手を引かれ、視線を落とす。
「………あめ」
沈黙に耐えられなかったのかもしれない。ぽつりと独り言のように落とされた。振り仰いだ先の空はどこまでも分厚く昏い空が広がっている。
光は、みえない。
雨はまだ、止まない。
エリスは、笑った。
「————だいじょうぶ、きっと晴れるよ」
あれから、ずいぶんと遠くまで来た。
あの時頼りなさげに見上げてきた子どもたちは、強く優しくたくましく育ってくれた。もうエリスがいなくても大丈夫だと、そう思えるほどに。
大きくなった姉弟は、それでもどうしたってエリスの可愛い子どもたちだった。
「兄さんも、一緒に行くかと思った」
弟がぽつりと呟いた言葉に、兄は苦笑を返した。
「行く理由がないからね」
「ふん。行くとか言い出したら、殴ってやろうと思っていたのに」
「勘弁してよ」
じとりと睨みつけるセージの隣で、ルリアが楽しそうに声を立てて笑っている。
ベッドで上体を起こしているエリスの顔色は、元々の白さもあって紙のようだった。
休んで欲しい気持ちはあるが、セージにはどうしても聞きたいことがあった。ルリアも同じだったから、二人で乗り込んできたのだ。ずっと聞きたくて、けれど聞けなかったこと。言葉にしてしまったら、 その通りになってしまう気がして、言えなかったこと。
「——兄さんは、死ぬつもりだったの」
静寂が落ちる。息が詰まるほどの沈黙の中、雨音がうるさいくらいに鳴り響く。
ふ、と。
兄が微笑んだ。眉を少し下げて、首を少し傾げて。うんと優しい眼差しで、残酷に告げる。
「そうだね」
双子が、心臓を握られたような顔をした。
「ふたりとも、気が付いていたんでしょ?だから、ルリアはシオンの所に行って、セージは僕の傍を離れ
なかった。……ごめんね」
違う、とルリアが悲鳴に似た声を上げた。
「逃げたの。私、逃げたのよ。これ以上、兄さんの重りになりたくないって。兄さんの為って嘘を吐いて、逃げたの。本当は、セージみたいに一緒にいたかった。ここにいてって言いたかった。でも、いやだって言われるのが、怖かったの」
ルリアの瞳に涙が滲む。エリスが虚をつかれたような顔をしていた。
セージとルリアは、兄がいなくなるつもりだと気が付いていた。この人は自分たちの手を離して、背中を押して送り出してしまうつもりなのだと。気が付いていて、片割れも気が付いているとわかっていても、何も言えなかった。相談することも、お互いどう思っているかを確かめることも。
怖かったのだ。ずっと。
「——間違ったかなって、思ってた。ルリアみたいに、お前の好きなように、やりたいようにやらせてやるべきなのかなって」
でも、とセージは涙交じりの震える声で続ける。
「やだ。やだよ。俺の兄さんだもん。どっかに行くなんて言うなよ。死ぬなんていうなよ。ここにいてよ」
つられるように、ルリアが泣き出した。
「そうだよ。やだ。一緒にいてよ。やだよ」
駄々をこねる様な声音。信頼していた親に裏切られた子どものような。どうして、どうしてと縋って嘆
く声。
ああ、とエリスは二人に見えないように拳を握る。
この子どもたちが、大切だった。誰よりも大事だった。
だから、この子たちを傷つけないために。巻き込んでしまわないように。父や母みたいに、エリスが殺してしまわないように。
その為にと自分に言い聞かせながら、本当はわかっていた。
大事なひとたちを死なせてしまった自分が、のうのうと生きていることが許せない。巻き込みたくないのは本当だけれど、それだけじゃない。
僕だけが、生きていても、いいのかな。なんていったけれど。エリスが生きていることを一番許せなかったのはレン自身だった。許せなくて、許したくなくて——それでも本当は、赦して欲しかった。
だけど。
アスタは言った。お前にも生きていてほしいよ。
生きていてほしいと、言ってくれる人がいる。一緒にいてと、泣いてくれる人がいる。
レンが、いなくなってしまった大事な人たちに、生きていてほしかったと願うのと同じように。
「……二人とも」
おいで、と腕を拡げる。遠慮なく飛び込んできた大切な子どもたちを抱きしめて、その温もりを噛みしめる。
「ありがとう、セージ。ルリア」
腕の中の温もりを、エリスは縋るように抱きしめる。微笑むように泣きながら、内緒の話のように囁いた。
いつかの夜、闇に怯えて泣く子どもたちを両手に抱えて、そうしたように。
「僕も、一緒にいたいよ」
物語を語りながら、得意でもない歌を歌いながら、夜明けを待った眠れない夜も。
小さな傘の中、身を寄せ合って歩いた雨の日も。
一カ月以上前から悩み抜いて贈ったプレゼントに、飛び上がって喜んでくれた誕生日も。
喧嘩をした日も。喧嘩の仲裁をした日も。何かがあった日も。何もなかった日も。
エリス・ユーフォルビアは、セージとルリアの兄だった。最初に手を差し伸べたときから、ずっと。
それだけが、すべてを失ったエリスのたったひとつ譲れないものだった。
誰も信用できない、いつ誰に傷つけられるかわからない。そんな環境で育ちながら、エリスだけは信じて頼ってくれた子どもたち。
どんなに泣いていても。怯えていても。エリスが手を握るだけで嬉しそうに笑ってくれた子どもたち。
ここは安全で、傷つけるものなんてどこにもない。そんな無邪気で無垢で、無上の信頼を渡し続けてくれた子どもたち。
すべてを失ったあの日から、恨みと憎しみを抱えて。刃を握りしめて。それでも怒りのままに狂うことができなかったのは。すべてをお終いにできたらと願いながら、立ち止まったままだったのは。
この子どもたちがいてくれたから。
ふたりが向ける信頼を裏切るようなことを、どうしてもしたくなかったから。
この子たちに胸を張れる自分で在りたかったからだ。
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