第六章 それでも空は晴れるから 4



「あら、ジニア。戻っていたの」


 腕を組んで壁に寄りかかっていたジニアは、その声に顔を上げた。

 空色のワンピースに身を包んだ紅色の少女が、夜明け色の瞳を和ませてひらりと手を振った。


「——おう、シオン。ガキどもは?」

「食事中よ。片付けもお願いしたから、当分は戻って来ないわ」

「ああ……その方がいいか」


 ちらりと階段の上を見遣る。同じように視線を向けて、シオンは淡く笑った。何かを待ち望んでいたような、ようやく訪れたその時を噛みしめているような、そんな表情だった。


「あの子は、ようやく泣けたのね」

「……お前ら、長い付き合いなのか?」

「オレアンダーが代替わりしてからの付き合いよ。ルリアとセージが安心して眠れる場所を。それがあの子の願いだった。自分たちにとってではなく、あの子の大事な子どもたちにとって安心して眠れる場所を。それがあの子の全てだった。……どうなることかと思っていたけれど、意外となるようになるものね」


 とん、とシオンがジニアに並んで壁に寄りかかり、肩に流れた髪をさらりと払う。


「お前は、どこまで知っていたんだ?」

「あの子に教えてもらったことだけよ。ルリアがここに住むと決まった時に、少し話してもらったの。巻き込んでしまうのだから、知らせないのは公平じゃないって。律儀よねぇ」


 エリスは、自身の壮絶な過去を必要なことだからと明かした。痛む傷口を必死に見て見ぬふりをして、終わったことだと虚勢を張りながら、ただ伝えなければならないと、その一心で語る姿は、どこまでも痛々しかった。


「初めて会った時からね。どこにも行けなくて、それでもどこかに行きたくて、駆けて、駆けて、駆け抜けて。そのまま空を仰いでしまいそうな子だなって思っていたの。でも、あの子はあの日から振りかざして行き場をなくしていた刃を、ようやく降ろせた。子どもたちを抱え続けた腕で、ようやく縋りついて泣けた」


 ふう、とシオンが息を吐く。彼女こそが重い荷を下ろせたように。


「だって、呪いを握りしめて、罪のように過去を抱えていたけれど。あの子は、大好きな人たちに生きていてほしいと願う——どこにでもいる子どもだもの」

「——そうだな」


 大事な大事な宝物を、その身で隠すように抱きしめて守り続けてきた、子どもになれなかった子ども。

 シオンが思い出をめくるように目を細め、慈しむように笑う。


「人を変えられるのは出逢いだけよ。いつだって、何かと、誰かと出会うことで選択し、行動し、交差し、その先に未来を掴む。あの子たちの出逢いは好いものになったのね」


 紅色の少女は、ジニアの顔を覗き込むようにして、見透かすような笑みで続けた。


「君だって、そういう出逢いをしたんでしょう?」


 その言葉に、ジニアは一緒に行こうと差し出され、けれど握り返せなかった手を思い出した。

 もう一度、あの場面が来たら。ジニアは何を選ぶだろう。


「ふふ、考えておいた方がいいかもね」

「……お前は、なんでも知っているな」

「あら、そうでもないわよ。協力をお願いしたのは私だけど、君がどうして彼らに肩入れしたのか、理由はわからないもの」


 おや、とジニアは眉を上げた。とても簡単な理由なのだが。


「迷子の子どもをみつけたら、助けてやるのが大人だろ」


 歯を食いしばって、泣きそうな顔をしていた。あのふたりは、迷子の子どもだ。家を見失って、頼るものを失った。何度も悲しい思いをして、辛い思いをして。

 けれど、それでもと立ち上がって、懸命に走り続ける子どもたちの力になりたいと思った。

 それだけ。


「大人として、当然のことをしただけだ」






 すすり泣く声が小さくなり、代わりのように窓の外では、地面を叩く水音が強まっている。

 雨はまだ、止まないらしい。


「瘴気なんて——」


 いつか。優しい夜の帳の中で。

 夢物語のように囁いた言葉を、アスタは違う思いを込めて呟く。


「瘴気なんて、なかったらよかったのに。瘴気を吹っ飛ばす力が、俺にあったら良かったのに」


 そうしたら。英雄みたいな力があったなら、物語の主人公のように多くの人を助けることが出来ただろうか。

 エリスの存在はすでに軍に伝わってしまった。トレイトやナルキースたちが今更エリスの不利になるように動くとは思えないが、あの場にはキリカ・スターチーもいた。総統の座を得るために戦争の引き金を引いたという彼女が、窮地を脱するためにエリスを利用しないとも限らない。

 瘴気なんてものがある限り、エリスの安全は脅かされ続ける。彼が守りたい子どもたちも。アミだってそうだ。術具を外しても、必要だと判断したら、またアミを利用するだろう。

 今のアスタに、どこまで出来るだろうか。軍を相手取って戦えるか。それはもちろん。

 だけど、戦って、退けて、逃げ続けて。それでは何も変わらない。何の解決にもならない。アスタには、友人たちを助けることさえ満足にできない。そのことが口惜しくて仕方がない。

 目を真っ赤にしたエリスが、おずおずと顔を上げ、照れたように口を開く。


「——ねえ、アスタ」


 言いかけたエリスの声を遮ってコンコン、と扉を叩く音がした。

 扉の方へ向けていた顔を見合わせ、エリスがどうぞと返す。ややあって扉が開いた。

 ジニアと、その後ろからシオンが入ってくる。二人が目を真っ赤にしたエリスを気が付いて、おや、と目を丸くし、それから微笑ましいものを見るようにうんと優しい目をした。

 居たたまれなくなったのか、エリスが布団に潜り込んでいく。


「あ」

「お」

「あらあら」

「その目をやめてくれないかな!」

「見えてねぇだろ」

「わかるから!やめて!やめてください!」


 こんもりした布団の上から、ジニアがよしよしと撫でている。シオンが楽しそうに笑っていた。


「熱下がってねぇんだから騒ぐな騒ぐな。おら、出てこい」


 あやすようなジニアの声に、エリスが目だけを布団から出す。ついにシオンが吹き出して、けらけらと声を立てて笑う。


「楽しそうでよかったわ」

「……楽しそうなのはシオンの方でしょ」

「ふふ、そうね——で、用件だけど」

「なんだ、用があるのか」

「あるわよ。エリスにはこれ」


 シオンがエリスに一冊の本を渡す。見覚えがあった。エリスの父の本だ。


「あ……」

「返すわね」


 のそのそと顔を出したエリスが、おずおずと本を受け取って、大事そうに胸に抱く。


「——ありがとう」

「どういたしまして」


 シオンがきれいに笑った。

 それが何かを知らないジニアが首を傾げる。


「それは?」

「前に言ったでしょ。父さんのノートだよ。シオンに預かってもらってたんだ」

「ええ。ルリアがうちに移った時にね」


 そっと表紙を撫でながら、エリスがいたずらっぽく笑う。


「だってオレアンダーでこれを大事そうに読んでたら、絶対に一月後には盗られてるよ。断言する」

「治安悪ぃなぁ」


 くすくすとエリスが笑った。

 ふたりのやりとりを見ていたジニアが、アスタに向き直る。


「さっき電話があった。アスタ、お前を指名だ。折り返してやれ」

「誰から?」

「アヤメ・クロコスだ」


 エリスと顔を見合わせる。息ぴったりだなと笑われた。


「……用件は?」

「さあ。聞いてねぇ。こっちから掛けると面倒だから、少ししたら掛け直すってよ」

「わかった」


 術具のことで何かあったのだろうか。それとも、軍の方で動きがあったのか。そういえばアスタの、というかティアン・レオントの処遇はどうなっているのだろう。これまで気にしていなかったが、考えなければいけない。部屋はほとんど片付けてしまったし、そういえばルードが持っていた遺書もどうにかしないといけない。

 やることが多いなとぼやきながら立ち上がると、エリスがひらりと手を振った。


「いってらっしゃい、アスタ。……ああ、そうだ。リクエストしてたパンケーキは、もう少し先でもいい?」


 は、とアスタは動きを止めた。それは、未来の約束だ。

 アスタは込み上げるものをぐっと呑み込んだ。形の良い赤色の唇が嬉しそうに口角を上げる。


「おう、楽しみにしてる。何か聞いておくことはあるか?」

「ないよ」


 電話は階段を降りた先にあった。あくびを噛み殺しながら待っていると、高らかに呼び出し音が鳴った。


「——もしもし」

『こんばんは、ティアン・レオント』


 受話器からはオレアンダーで出会った少女の声が聞こえてくる。


「何の用だ」

『盗聴はされていないから安心して。簡潔に伝えるわね。タンジーへ行く手筈を整えたの。あなたも同行する?』

「タンジーへ?何のために」

『ラティルス・クロコスに会いに行くの。聞いていなかった?私の父よ』


 アヤメが電話の向こうでふふ、と声だけで笑う。


『正確には墓参りね。あの人は何も残さなかったから。せめて、最期の場所に花でも手向けてやらないと』


 機械を通して聞こえた声は、疲れ切って吐き出すため息にも似ていた。




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